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─11─
「主任、今ちょっといいですか?」
「いいわよ。ちょっと待ってて」
主任はノートパソコンを閉じ、ひざ掛けを椅子に置き、立ち上がる。ドアの前に立っていた俺の方へ近づき、小さな声で「なにかあったの?」と言った後、周りをキョロキョロと見回した。
「はい。ちょっと相談が……」
「わかった。行きましょ」
主任は何を言うこともなく、倉庫横の会議室へと向かった。俺は早歩きで主任の後ろを付いて行く。
「ちょっと寒いけど、すぐ温まると思うから」
ほとんど使われることのない倉庫横の会議室は、火の気がなく確かに肌寒かった。
主任はエアコンのリモコンを操作しながら椅子に座る。
「さて、相談ってあの事?」
「はい。あの事です……」
「最近は落ち着いてたんじゃないの?」
「一時は、落ち着いてたんです。でも、急に……」
相談すると言っておきながら、何をどう説明すればいいのか、何を相談するのかまとまっていなかった。
「すみません。まだ、整理ができてなくて」
「いいのよ。時間ならあるから」
主任は背もたれに寄り掛かり、足を組んだ。
俺は大きく息を吸って、吐いてから、
「どうやら、息子が狙いのようなんです」と言った。
「えっ? 里来くんが?」と主任は目を丸くする。
「昨日、突然、現れた女の霊が、里来の腕を掴んだんです。それで、里来は酷く怯えてしばらく泣き止まなくて」
「──酷い。かわいそうに、それは怖かったわね」
「腕にもはっきりと手跡が残っていて……」
「──そう」
主任はテーブルに視線を落とす。
「あのね、脅かすわけじゃないけど、咲原さんの家に憑りついている霊、もしかすると、強い力を持っているかもしれないわね」
「えっ? どういうことですか?」
「私も聞いた話だから定かではないけど、人間に触ることが出来る霊って、霊力が強いらしいのよ」
言葉を失う。
「女の霊は、あなたにも見えたの?」
「は……はい。はっきりと見えました」
「ああ、そう……」
含みのある言い方に、悪い予感しかしない。
「はっきり見える霊も、強い霊力を持っているらしいのよ」
「そ、それじゃ、相当強いってことじゃないですか……」
「ええ、そういうことになるわね……」
会話が途切れ、沈黙が流れる。
エアコンの唸りを上げる音だけが、何もない部屋に響く。
しばらくし、主任は頬杖をつきながら、
「里来くんの腕を掴んだのは恐ろしいことだけど、あなたにも女の霊は見えたんでしょ? それなのに、どうして里来くんだけが狙いだと思うの?」と言った。
「確証はありませんが、息子が数日前に保育園で描いてきた絵に問題があったんです」
「絵?」
「その絵には、俺と里来、妻の三人が並んで描かれていました。でも、俺たちに重なるように、影が描いてあったんです。真っ黒に塗りつぶされた、三体が」
「ちょっと、それって……」
「里来に聞いたら、『いつもいるよ』って言ったらしいんです」
「えっ」と一言発したあと、言葉が途切れた。
「これは妻が言っていた話なんですが、この女の霊、強い執着があるんじゃないかって。息子を目の前で殺されてるから、里来を自分の息子と重ねて、自身の子として狙っているんじゃないかって」
「ああ……」
主任は吐息混じりに声を吐き出し、続けた。
「私も奥さんの意見に一票ね。産んだ子どもを失うって、女にとっては自分の体を引き裂かれるようなものなの。普段は考えていなくても、実際はすごく子どもに依存してるし執着してるんだと思う。もしかすると、咲原さんの家に棲み着いている霊は、里来くんを自分の子どもとして、見てるのかもしれないわね」
「そ、そんな……」
この怨霊の気持ちは、男の俺にも痛いほどわかる。だからといって仕方ないとはならないし、里来を怖がらせたことを許すことにはならない。
「やはり、家を出るしかなさそうだな」
独り言のように呟く。
「ねえ、実は私の叔母が霊能者なの。一度、あなたの家、見てもらったらどうかしら」
「霊能者?」
「腕は確かだから安心して。引っ越しを決める前に、参考程度に。ねっ?」
驚きはしたものの、事態を収束できる可能性が残っているのなら、神頼みとまではいかないが、霊能者とやらに賭けてみるのもいいかもしれない。これがうまくいけば、引っ越すことなくあの家に住み続けることができる。
里来もまだ三歳だ。今なら、今回の出来事も将来に影響することなく忘れ去るはず。
「妻に聞いてみますが、お願いする方向になると思います。よろしくお願いします」
「わかった。改めて決まったら連絡してちょうだい」
相談といっても、話を聞いてもらい、背中を押してもらえればいいくらいの気持ちだった。それが具体的な解決策を提示してくれるとは、さすが妻鳥主任。
帰ったら奈々未に相談し、日取りを決めるとしよう。なるべく早いほうがいい。次に何かが起こる前に。
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