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妻鳥さんは、準備を始めた。
俺と菜々美は黙ったまま、その様子を眺める。
てっきり、衣装に着替えたり大きな道具を使ったりするものだとばかり思っていたが、実際、妻鳥さんが用意したのは、新しい数珠、炭だった。
この二つで何がはじまるのか、全く想像ができない。
菜々美の膝に頭を乗せ眠っていた里来が目を覚まし、ぐずりだした。時計を見ると昼が近くなっており、お腹が空いたのかもしれない。
「お腹すいたんかな?」
「朝、パン二口くらいしか食べなかったから、お腹空いたのかもね」
俺たちがコソコソ小さい声で話していると、「お子さんを優先していただいて結構ですよ」と、妻鳥さんが声をかけてきた。
「ありがとうございます。俺、妻鳥さんと一緒にいるから、悪いけど菜々美は里来にご飯食べさせてやってくれ」
「──わかった。里来、かかと一緒にホットケーキ作る?」
「うん……ととは?」
「ととは、ちょっと忙しいからあとで食べるよ。ごめんな」と頭を撫でる。
「うん……」
不服そうな里来だったが、菜々美がなんとか気を逸らし、キッチンへ連れて行った。
「では、はじめます」
妻鳥さんはそう言うと、階段を上りはじめた。
「二階からですか?」
俺がそう聞くと、
「息子さんの部屋だけで大丈夫だと思います」と、後ろを振り返らずに答えた。
どういうことなんだ。
家に棲みついていると言っていたじゃないか。それなのに、一部屋だけって。
疑問ではあったが、そのまま後ろをついて行く。
二階へ上ると、開けてあった全ての部屋のドアが閉まっていた。
「閉めたかな……」と、呟くと、
「いえ、これは霊の仕業です。私に抵抗しているのでしょう」
これから、自分たちがされることを理解しているということなのだろうか。
「今から、霊力を弱めるためにお祓いを行いますが、先程も言ったように息子さんの部屋のみ、試みます。それは、主にこの部屋に憑りついているからです。恐らく、ここが亡くなった息子さんの部屋だったと思われます」
ここが……。
確かに、人形が落ちていたのも、針と糸が落ちていたのも、全てこの部屋。
それを考えると、納得か。
「先程、ドアが開かなかったり、数珠が切れたりしたのは、この部屋の霊力が一番強いからです。この部屋で母親と息子さんが長く一緒に過ごされたのかもしれません。そして、執念の力が強いこの部屋で、霊力を保っていると言っても過言ではありません。ですから、この部屋の霊力を弱めることで、霊自体の力も弱めることができるのではいかと、私は考えます」
声に変化はなく、一見、冷静を装っているよう見受けられるが、額からは、先程とは比べ物にならない量の汗が流れている。
それほどまでに、強い霊力を感じているのだろう。
「これから、炭と数珠を用いて霊力を弱めるお祓いをしていきます。うまくいくかは、五分。厳しい事を言いますが、期待はしないでください。まず、数珠は霊力を見たり、お経を唱える時に使います。そして、この炭には、私の念が入っています。ほとんど知られていませんが炭には霊力を吸い取る力があるのです。ただ置くだけでも邪気を吸ってくれたりもします。そこに、私の念を入れてありますので、強い霊力も吸い取ることができるという仕組みです」
炭にそんな力があったなんて、初めて知った。
よく知られている、塩やお札、線香は使わないのか。
「では、始めます」
固唾を飲んで見守る。
妻鳥さんは、部屋の四隅に炭を一本ずつ置いていく。
置くたびに数珠を炭の上に置き、お経を唱える。それを、各箇所同じように繰り返す。
準備が整うと、部屋の真ん中に座り込んだ。
今度は大きな声でお経を唱え始め、二本の数珠を擦り合わせる。じゃりじゃりと珠と珠がぶつかり合う音が、部屋中に響く。
既に俺の鼓動は、これ以上、早くならないほど打っている。それに合わせて呼吸も荒くなり、極度の緊張からか、手が震えていた。
視線を四隅の炭に向ける。一か所ずつ、凝視する。
次第に、お経は地を這うように低く変わった。胸に響き俺まで苦しくなる──
次の瞬間、炭が割れた。まるで、叩きつけたかのように粉々に。
「咲原さん! 私の鞄の中から新しい炭を持ってきてください! 急いで!」
「えっ? えっ?」
「早く!」
突然のことに、狼狽するも「は……はい!」と慌てて階段を駆け下り、ソファに置いてあった鞄を鷲掴みし、階段を駆け上がる。
後ろから菜々美の声が聞こえた気がしたが、それに応える余裕はない。
部屋に入り、鞄から炭を一本取り出し立ち上がると、既に四本全てが粉砕されていた。
「四本予備がありますので、置いてください!」
「は、はい!」
四本手に持ち、窓際から置いて行く。
ふと、粉々になった炭を見ると、火がついているように赤くなっていた。熱いのか、確かめたい衝動に駆られたが、制御が働き、全ての四隅に炭を置く。
お経は唐突に止まった。
どれくらい時間が経過したのだろう。早くもあり長くも感じる時間だった。
「──終わりました」
妻鳥さんはそう言うと、座ったままこちらを向いた。
「妻鳥さん!」
思わず叫び、駆け寄る。
「だ、大丈夫ですか!」
「え、ええ。大丈夫です」
相変わらず表情は変わらないが、尋常じゃない汗と──
「その手……」
数珠を持っていた手が、真っ赤に腫れ、水膨れになり、所々皮が剥けていた。見るからに痛々しい。
床に置かれた数珠に視線を移すと、火で炙られた石のように、赤くなっていた。
「数珠が吸い取った霊力が強く、熱を持ってしまったようです。私も気づきませんでした」
気づかなかった……。
こんな状態になっていたことに気づかないほどに、無我夢中だったのか。冷静に見せているが、必死に祓ってくれていたんだ。
「下におりて手当しましょう」
「──はい。すみません」
床に手をつきながら立ち上がった妻鳥さんは、よろける。足に力が入っていないようだった。咄嗟に肩を掴み、支える。
セーターを着ていた彼女の体は熱かった。お経を長く唱えていたからなのか、これも、霊によるものなのか。
支えながらリビングへ入ると、すぐに異変に気付いた奈々未が駆け寄ってきた。
「どうなさったんですか!」
「奈々未、手当をしてあげてほしいんだ。手を火傷したみたいで」
「火傷?」
「すみません」と、妻鳥さんが手のひらを見せると、
「これはひどいわ! ソファに座っててください!」
ソファに座らせる。
肩で何度も息をするところを見ると、体力の限界までお経を唱えてくれていたのだろう。
霊媒師とは、自分の命を削り、困った人に手を差し伸べる、命がけの職業なのだ。
完全に舐めていた自分を恥じた。
ホットケーキを食べていた里来が、大人たちの異変を察知したのか、静かに近寄ってきた。しゃがむ俺の背中にそって手を置き、「おばちゃんどうしたの?」と、囁いた。
「ちょっと怪我したから手当てするんだよ。痛いのどっか行くように、かかが治してくれるからね。里来も心配か?」
「おばちゃん、いたい?」
ソファに座る妻鳥さんに近づき、里来は心配そうに顔を見上げる。
「里来くん、ありがとう。すぐ治るから安心してね」
緊張していた表情が、緩んだ。
それから、奈々未が消毒したあと薬を塗り包帯を巻いた。
「とりあえずこれで大丈夫だと思いますが、念の為、これを持って冷やしててください」
奈々未が保冷剤を手渡す。
「お手数おかけしました。ありがとうございます」
「あのう、こんな時に申し訳ないんですが、お祓いはどうなったんでしょうか」
手当てが終わったばかりで、今じゃないことはわかっている。だが、この結果によって、俺たち家族がこの家を出るかどうかが決まるのだ。
「いえ、気になりすよね。ご説明します」
妻鳥さんは座り直し、俺の方に体を向けた。
「一応、部屋自体の霊力を下げることには成功しましたが、効果は続かないと思います。あの炭も、いつまで霊力を吸い続けてくれるかもわかりません」
「じゃ……」
「そうですね……今のうちになんとか引っ越し先を探していただき、早めにこの家を出ることをおすすめします」
落胆し、全身の力が抜けたと同時に、背中を押してもらえたことによって決意が固まり、胸のつかえがとれたようにも思える。
「力及ばすで、申し訳ありません」
肩を落とす妻鳥さんを見て、奈々未がすかさず、
「そんなことありません。こんなにひどくなるまで……」と、妻鳥さんの手を握った。すぐに、彼女は反対側の手で強く握り返し、
「──この霊は本当に危険です。部屋を回っている時も、ずっと私についてきていました。執着がすごいんですよ。自分の邪魔をする者は許さないという強い意志を感じました。恐らく、子どもの霊は近い内に成仏するはずです。そうなると、もっと里来くんに依存すると思います。そうなる前に……」
妻鳥さんは、訴えかけるように菜々美を見つめた。
奈々未もそれに応えるように、強く頷いた。
それから、お茶を飲んだり談笑しながら、この場が落ち着くのを待った。
里来は、妻鳥さんに懐き、膝の上に乗ったり愛想を振りまいていた。やはり子どもが好きなのか、彼女の目尻は下がり、いつの間にか、部屋の中が穏やかな空間に変わっていた。
「さて、そろそろ帰らないと。ワンちゃんが待っていますので」と、妻鳥さんは立ち上がった。
「本日は、本当にありがとうございました」
俺も立ち合がり、頭を下げる。
「いえ、お役に立てずに、逆に申し訳ないです」
「十分です。家を出ることに迷いがなくなりましたし、背中を押していただきました」
「それならよかったですが、油断だけはなさらないでください。相手は強敵です。母親が子を想う気持ちはお二人ならおわかりだと思いますが、霊になったとしてもそれは変わらないのです。刺激をしないよう、過ごしてください」
里来を抱きかかえ、三人でお見送りをした。
後ろを振り返った妻鳥さんは、少しだけ微笑み、車に乗り込んむ。フロントガラスに降り積もった雪を、なんとかワイパーで落とし、ハザードを二回点滅させ、帰っていった。
外はすっかり薄暗くなり、雪も強くなっていた。
「あとで一回、雪かきしないと明日の朝、大変かもね」
奈々未が苦い顔をしながら言った。
「そうだな。あとで、俺がやっとくよ」と、雪から目を逸らしドアを閉めた。
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