第二章 

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 結局、寝るまで機嫌が直らなかった里来をなんとか寝かしつけ、リビングに戻ってきた。  最近は、すっかり俺が寝かしつける担当になってしまった。別に嫌なわけではないが、母親と父親では何が違うのか。子ども心は未だわからない。  里来が寝たことによって、気になっていた菜々美の話をようやく聞くことができる。 「菜々美、さっきの話したい事って何なんだ? 気になって仕方ないよ」  お風呂からあがってきた菜々美は、ちょっと待ってと、キッチンで水を一杯飲み干し、グラスをシンクに置いた。 「お待たせ」  菜々美がソファに。俺は、床に座る。 「今日ね、会社で話を聞いて来たの。この家のこと」 「えっ!?」  つい大きな声を出してしまった。  あの一件から、リビングの隣の部屋で寝かせていることをすっかり忘れていた。 「ごめん、それで?」 「休憩中に、私がどこに住んでるかって話になったのよ。あんまり言いたくなかったんだけど、住所を言ったら、一人が青ざめちゃって。それで、どうしたのかって聞いたら、なんとその人。以前、一緒に働いていたみたいなの。この家の旦那さんと」 「嘘だろ……」  斜め上を行く話しに、自然と正座になる。 「ほんと、まさかよね。大崎さんていう女性なんだけど、以前、小さな印刷会社で働いてたんだって。そこで一緒だったらしいの。ちなみに、名前も聞いたわよ」  名前……。  ごくりと唾を呑み込む。 「仁崎さんっていうんだって」  仁崎……。  名前なんて気にしてこなかったが、確かにこの家には、仁崎という三人家族が暮らしていたんだ。  最初は互いに惹かれ合い、愛し合い結婚し、理想の家庭像もあっただろう。そして、家族が増えた。きっと、念願の子どもだったに違いない。  子どもが家族に加わると一気に雰囲気が変わる。全てが子ども優先に変わり、子どものために生活が動いていく。  だが、それが幸せなのだ。  慣れない子育てで、むしろ辛いこと、大変なことのほうが多い。それでも、子どもの笑顔が、その辛さを忘れされてくれる。  それがどこで、崩れてしまったんだ……。 「仁崎さんは普段、あまり話す人じゃなかったみたいで、大崎さんも数年働いていたけど、仕事上の話しかしたことなかったって。まじめに働いていてし、どこに寄り道するわけでもなく、仕事が終わったらまっすぐ家に帰るような、家族思いの人だったみたいよ」 「本当に同一人物か?」  妻と子どもを殺すような残虐さがあるようには思えない。 「そう思うでしょ? 職場の人も同じ意見だったそうよ。でも、一点だけ、気になるところがあったらしいの」 「気になるところ?」 「──音に敏感だったのよ」  音……。  やはりか。  お隣さんの話や、木津が怒鳴った際に姿を現した時も、全て、音か原因だった。   「当時、職場に、歩く音がうるさい女性がいたらしいの。たまにいるじゃない? 足の裏をドタドタとつけて歩く人。みんなも、気にはなっていたみたいなんだけど、ある日、仁崎さんがキレたんですって。キレて、怒鳴り散らしたらしいのよ。その時の仁崎さんの剣幕があまりにも恐ろしくて、今でもよく覚えてるって」  よく、ニュースのインタビューで、 「大人しくて真面目でな人でした。でも、突然キレたことがあるんですよ」  よく聞くセリフ。  まさにそれだ。  仁崎の着火剤は、音だったんだ。 「でも、怒鳴ったのはそれっきりだったみたいよ。あとは、物静かで、犯行が行われた前日も、至って変わったところはなかったみたい」  そう考えると、あの一件以来、男が姿を現さないのは、俺たち家族が静かなことが大きいのかもしれない。  俺もそんなに話すタイプではないし、奈々未だって声が大きいわけではない。  里来に至っては、ぐすりが少なく、聞き分けもいい。お利口すぎて、心配になるくらいだ。 「仁崎さんって、日常的に暴力があったんじゃないかって言われてるのよね?」 「仲里さんの話ではね。確証はないけど、お隣さんが言うんだから、限りなく真実だろうね」 「じゃ、二つの顔を持っていたのかしら」    奈々未は、すっかり乾いてしまった髪の毛を手ぐしでとく。 「と言うより、外で抑えている分、家で発散してたんじゃないかと思う」 「──ああ、なるほど」  納得したのか、何度も頷く。 「仲里さんも言ってたけど、奥さんがよく外で子どもをあやしてたらしいし、家庭内はいつもピリピリしてたのかもな」 「そんな……。それじゃ、あまりにも奥さんがかわいそうよ。頑張って産んだのに。自分の子よ? 可愛くなかったのかしらね、その旦那」 「おい、あんまり悪く言うなよ。どこで聞いてるかわかんないんだぞ。出てきたらどうすんだよ」  奈々未は、ハッとした顔で自分の口を塞ぐ。 「それで、主任に話したの? 引っ越しのこと」 「あ、ああ。話したよ。うん……話した」 「それで、なんて?」 「引っ越しするのがいいわねって……」 「──そう」  泳ぐ視線。  別に嘘はついていないじゃないか。どのみち、引っ越しをするのだから。 「所長にも話したよ」 「あら、そう。じゃ、あとは物件探しね」  菜々美は立ち上がり、脱衣所へ向かった。  彼女の後ろ姿を見つめながら俺は、もう一人の自分に対し、必死にいい訳をしていた。  嘘はついていない。奈々未を不安にさせたくないだけ。  決して、嫌なことから逃げてるんじゃない。    俺は立ち上がり、キッチンへ向かった。  やかんに水を入れ、火にかける。  シンクに手をつき、さっき聞いた話を思い返していた。  音が敏感で物静か。仕事上の会話しかしない。それでいて、うるさい音を立てる奴には怒鳴り散らす。  これだけ聞くと、とんでもない男だ。イカれてる。もし、家庭内でも同じだとするなら、妻だけでなく、子どもにも手を上げていた可能性が高い。だから、妻は子どもが泣くと逃げるように、外であやす。例え、寒い冬であっても。子どもを守るために、そうするしかなかったのだろう。  離婚は考えなかったのだろうか。  日常的に暴力があり、顔色を伺いながら生活するなんて、どれほどの苦痛だったか。精神的に疲れ果てていたはず。 ──ふと、父親のことを思い出した。  俺の父親も似たようなものだった。誰も逆らうことは許されず、いつしか俺は人の顔色を伺う癖がついた。  そんな状況でも母親は最後まで離婚を選択しなかった。子どもの俺からすると、理解不能。お金がなくても、母親と二人暮らしの方がずっとマシだった。何度、母親に離婚しないのかと聞いたことか。  稼ぎのいい父親は何かにつけて威張り、誰の金で生活できてると思っているんだと、クズ親父の定型文を頻繁に使っていた。だから俺は、奈々未のお腹の中に里来がいるとわかった時、父親のようにはならないと誓った。  どんなことでも相談でき、居心地のいい家庭を作る──。  それには、父親である俺自身が、もっと強くならなければ。頼られる父、夫になりたい。 「健太郎!」  奈々未がシャンプーの良い香りを漂わせながら、キッチンへ入って来た。 「どうした?」 「肝心なこと言い忘れてた! 印刷会社の社長さんの住所聞いて来たのよ。何か、話し聞けると思って」 「えっ!? 住所を聞いたからって、簡単には話し聞けないだろう」  そもそも、他人に、そんな簡単に住所を教えたらだめだろ。   「それがね、すごくいい人らしいの。きっと、仁崎さんの話、聞かせてくれるって言ってたわよ。電話番号も聞いたから、一回かけてみたら?」 「そ、そんな簡単に……」  知らない人に電話するって、なかなか勇気のいることだと思うんだが……。 「嫌な顔されたらどうするんだよ。迷惑じゃないのか?」  奈々未は、「はあ」とため息をつき、 「引っ越すって言っても、すぐ決まらなかったら、この家に住み続けなきゃいけないのよ。そうなったら、少しでも、仁崎家の情報を仕入れておいた方がいいでしょ? もしかしたら、何かそこからヒントを得て、対処できるかもしれないし」  奈々未はいつだって前を向いている。  いや、危機管理ができていると言った方が正しいかもしれない。  俺は引っ越しすることばかり考えているが、もしものことをほとんど考えていない。考えていても、行動に移すまではいかない。   「そうだけど……」 「里来のこと、誰が守るの? 私たちでしょ?」  ズキっと胸を刺す言葉。 「──そうだな。わかった。明日、電話してみる。名前と番号、教えてくれるか?」  電話をしてみて、反応を見てから決めたって遅くはない。  明日、昼休みにでも、電話してみるか。  
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