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案の定、午後からの仕事は集中力に欠け、小さなミスが目立った。
気持ちはすでに深瀬邸にあるかのように、上の空。それに加え、初対面でうまく話せるのか、失礼なことを言わないか、どんな話になるのか、期待と不安が入り混じった複雑な感情が心を支配していた。
定時に終わり、一度連絡を入れてから深瀬さんのお宅へ向かう。昼間の電話で、夕飯も一緒にと言っていただけたが、お断りした。今の俺は、見知らぬ人と仲良く食事ができる精神状態にない。
深瀬邸は、丘の上にある。
その地域には、未だ足を踏み入れたことがない。
丘の上の地域は、札幌で言えば中央区の円山や宮の森、東京で言えば港区。要するに、富裕層が住むエリアというわけだ。
俺には一生縁がない土地。
しばらく車を走らせると、坂道に入った。この奥に、深瀬さんが住む家があるのか。
坂道を登りきったとき、右側に住宅街が現れた。このまま真っすぐ突き進めば、違う町に繋がるのだろう。
教えてもらった通り、右に曲がる。
見渡す限り、二十を越える家が立ち並んでいた。
噂通り、どれも豪邸ばかり。
デタラメに大きい家。和風、洋風、実に様々。統一感はまるでない。
その中で、一際広い敷地が目に入る。
「これが、深瀬邸……」
車をゆっくりと停車させる。
深瀬邸で最初に目に入るのが、庭。
家自体は平屋でそれほど大きいものではないないが、和風でこだわりが見て取れる。小さな旅館のようだ。
日本庭園を思わせる大きな庭。門で囲まれ全貌は見渡せないが、ここからでも、俺が知っている庭でないことだけは、わかる。
雪が降り積もっていて、神秘的にさえ見え、四季が楽しくなりそうな、そんな庭だった。
誰か、専門の職人でも雇ってやらせているのだろうか。
荘厳な面持ちの門が俺を出迎えた。表札の横にはセコムのシールが貼られており、警備は万全だ。
家の雰囲気を壊さない、木目調のインターフォンを押す。
「──はい」
「あ、あのう……咲原と申します」
「お待ちしてましたよ。今、開けますね」
深瀬さん本人だ。
門がゆっくり開くと、深瀬さんは家の前で待っていた。小走りで向う。
「はじめまして、咲原健太郎と申します」
深々と頭を下げる。
「ご丁寧にありがとう。深瀬です。家まで来てもらってすまなかったね」
家に招いた理由はすぐにわかった。
深瀬さんは杖をついており、足が不自由のようだ。
声から想像した通りの見た目だった。
ふくよかで、柔らかな表情をしているおじいさん。人として、一つ上の段階にいる、そんなオーラがあった。
年齢は、七十は越えているだろう。
「足が悪くてね。まあ、入ってください」
「──お邪魔します」
中に入ると、玄関から既に暖かった。
木のぬくもりを感じる、内装。バリアフリーで、境目が見当たらない。廊下や階段、全てに手すりがついている。
「どうぞ。ソファに座ってください」
開放感のあるリビング。立派な暖炉の横にあるソファに座る。
──なんて座り心地がいいんだ!と、心の中で叫ぶ。
深瀬さんは一人用のソファに座った。定位置なのだろうか。
俺の家だと二人用になりそうなサイズだが、あれは恐らく一人用。
暖色系の灯り、パチパチと薪が燃える音……。
はじめて来たというのに、すっかり癒されている。
「お気に召しましたかな?」
「──あっ、すみません」
暖炉を見つめ、つい目を閉じていた。
「暖炉は心を落ち着かせてくれます」
「は、はい。そのようです」
「色々、大変なようですしね」
「──はい」
このまま目を閉じ、眠ってしまいたいと思うほど、最近は眠りが浅い。今ならぐっすり眠れそうだ。
だが、今日の目的は違う。
「突然のお電話に対応していただき、ありがとうございます」
「いえ。大崎さんからも聞きましたが、奥様も相当悩んでいらっしゃるとお聞きしましたから」
「ええ……。息子のことが一番心配でして」
「そうでしょう、そうでしょう。私に聞きたいことがあれば、なんでも聞いてください。わかることなら、なんでもお話しますから」
深瀬さんは、何度も頷く。
「では、さっそく仁崎さんについて教えていただけますか?」
俺は指を組み、ぎゅっと握る。
「仁崎さんのお話をする前に、私の会社についてお話しておきましょうか。私の会社は印刷会社でした。小さい町ですが、ここには工場が多く、おかげさまで仕事の依頼は絶えず、忙しい日々を過ごさせてもらいました。そして──うちの会社に、仁崎君もいたのですよ」
これでやっとわかるのか、男の人物像が。
「仁崎君は札幌の生まれだったんですが、訳あって、この町に引っ越してきました。高校卒業と同時にうち会社に入ってくれたので、十年は働いていたかな」
「えっ? 彼って何歳で亡くなったんですか?」
「二十九歳でしたね」
「僕と同じだ……」
殺人犯と共通点が見つかるのは、いい気がしない。
「先程、訳あってといいましたが、仁崎君は大きな音に非常に敏感で、静かな場所で暮らしたいということで、この町を選んだんですよ。確かにここは工場の町なので、特に観光客が来るわけでもないですし、夜になれば虫の鳴き声が聞こえるほど静かですからね。心地よかったのでしょう」
「彼は何かの病気だったんですか?」
「ご両親が病院に連れて行ってくれたようですが、特に異常は見当たらなかったようですよ」
この話を知っているということは、仁崎は社長に深い信頼をおいていたということになる。
「彼は、まじめな性格でしたね。特に仕事はよくできましたし、繁忙期でも弱音を吐かず、一生懸命働いてくれましたよ。ただ、不満や弱音を吐かないだけでなく、自分の気持ちを話すことがとても苦手でね。例えば、感謝の気持ちを伝える『ありがとうとう』や、自分の非を認める『ごめんなさい』も言えませんでしたね。とても……とても静かな子でした」
当時を思い出したのか、深瀬さんは少しだけ悲しげな表情で、暖炉に視線を移した。
暖炉を見つめながら、話を続ける。
「意外だったのは、結婚。正直、人と付き合うこと自体、彼の性格では無理だろうと思っていましたからね。でも、知らない間にパートナーを見つけていたんです。結婚の報告を聞いた時、あまりに驚いてすぐにおめでとうの言葉が出ませんでしたよ」
ほほほと朗らかに笑い、こちらを見た。
「その後、二年後には子どもが生まれてね。父親になるなんて、入社した頃の彼からは想像もできませんでした。でも、少しだけ彼に変化があったんです。『ありがとう』を言うようになりましてね。一緒に働いてきた従業員はとても驚いていましたよ。大人しい彼でしたが、嫌われていたわけではなかったですから。みんな、少しずつ変わっていく仁崎君を微笑ましく応援していたんですよ」
それが、あんな残虐な事件を起こすんだから、何を信じればいいのか、わからなくなる。
「奥さんは、どんな方だったんですか?」
唯一、仁崎が心を開いた女性。
どんな人だったのか、気になる。
「実は、あんまり知らなくてね。うちの会社では年に二回、家族も招いて宴会を開くんですが、一度も来たことはなかったんです。恐らく、彼の性格を理解し、参加しなかったのでしょう。でも、一度だけ、仁崎君本人から聞いたことがあるんです。奥さんのことを。その時彼はこう言ったんだ。『明るくて、一緒にいたら心が落ち着くんです』と。照れたように微笑みながら、話してくれたよ」
深瀬さんは、前かがみなり俯いた。
なんだろう──今のところ、俺の想像していた仁崎ではない。
「幸せだったんですね……」
俺がそう呟くと深瀬さんは、顔を上げた。
「幸せそうだったよ。表情も柔らかくなってね。口を開く回数も増えましたから。しかし……」
急に言葉が詰まる。
「だんだんと、様子がおかしくなってきてね。イライラしてるというか、落ち着きがないといいますか……。それでも、仕事はまじめにこなしていましたから、夫婦喧嘩でもしたのかと、軽く考えていました。それが、私の最大の過ちです。様子が変わりだした時点で、彼に声をかけていれば……。もっと気にかけていてやれば……」
顎に蓄えた髭をさすりながら、また、暖炉に視線を移す。
「あっ、何も出していませんでしたね。まったく、私としたことが」
「いえ、お構いなく」
「おーい、ゆり恵さん! ゆり恵さん!」
ゆり恵?
深瀬さんが呼ぶと、遠くの方から声がし、近づいてきた。
「はーい。信二さん。なにか御用でしょうか」
「悪いね。コーヒーと紅茶をお願いできるかい?」
「はい、わかりました」
エプロン姿のゆり恵さんは、深瀬さんより少し若いくらいの女性。背が低くふくよか、それと少し腰が曲がっている。
「奥様ですか?」
「いえいえ」と笑う。
「彼女は素敵な旦那さんと、かわいいお孫さんまでいる方です。私は妻に先立たれてから足を悪くしましてね。家のことが十分にできなくなってきたので、家事全般をお願いしてるんですよ。非常に助かっています」
「失礼なことを聞いてしましました。すみません」
「いいんです、いいんですよ」と、顔の前で手を振る。
「コーヒーが来るまで、咲原さんのお宅で何が起こっているか、お話していただけますかね?」
「あっ、もちろんです」
不可解な現象が起こっているということは、あらかじめ説明していたので、息子が狙われているかもしれないこと、引っ越しても意味がないかもしれないことなど、簡潔に話た。
ここちよい相槌のおかげで、緊張することなくスムーズに話すことができた。
「それは、怖いですね。なんとかして、息子さんを守らねばなりませんな」
「お待たせしました」
ゆり恵さんが、コーヒーと紅茶を運んできた。俺にはコーヒーを。深瀬さんには紅茶を。
「ありがとうございます」
「どうぞ、ごゆっくり」
ゆり恵さんは会釈をし、無駄なことは何も言わず、奥の部屋へ戻っていった。
「どこまで話したんだったかな」と紅茶をテーブルに置き、思い出すように上を向く。
「ああ、そうそう。仁崎君の様子が変わったって話たところだったね。ちょうどその頃問題を起こしてね」
「もしかして、女性に暴言を……」
「そうそう。彼女、入ったばかりでね。確かに独特な歩き方ではあったが、それは人それぞれだからね。特に誰も注意はしなかったんだよ。でもそれが、仁崎君には耐えられなかったようで、ある日突然、彼女に襲いかかったんだよ」
「襲いかかった?」
怒鳴っただけではなかったのか?
「怒鳴ったあと、彼女のことを突き飛ばしてしまったんだよ。そのまま後ろに転倒し、頭をデスクの角にぶつけて、切ってしまったんだ」
その時、日常的な暴力があったんじゃないかと言っていた、仲里さんの言葉を思い出していた。
「傷はたいしたことなかったんだが、彼女はそれをきっかけに退職。警察に被害届は出さないと言ってくれたから、大事にはならなかったんだが、あの時に私が然るべき対応をしていれば、あんな事件は起きなかったんじゃないかと、後悔しているよ」
「その時、仁崎さんは謝罪できたんですか?」
「血を見た途端、ひどく動揺してね。ずっとごめんなさいって言っていたよ」
「我に返ったというところでしょうか」
「そうかもしれないね……」
口を固く結び、鼻から大きく息を吐いた。
「それを境に、輪をかけて話さなくなってね。他の従業員も彼のことを怖がるようになって、避けるようにもなったし、どうにかしないといけないと思ってた矢先に、あの事件が起こったんだよ」
とうとう、事件が起きるのか。
今までの話を聞く限り、途中までは少なからず、幸せな時期があった。奥さんには心を開いていたようだったし、感情をあまり表に出さない彼でも、滲み出てしまうくらいに幸せだった。
それがどうして……。
深瀬さんから語られる話の中に、答えは見つかるのだろうか。
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