第二章 

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 案の定、午後からの仕事は集中力に欠け、小さなミスが目立った。  気持ちはすでに深瀬邸にあるかのように、上の空。それに加え、初対面でうまく話せるのか、失礼なことを言わないか、どんな話になるのか、期待と不安が入り混じった複雑な感情が心を支配していた。  定時に終わり、一度連絡を入れてから深瀬さんのお宅へ向かう。昼間の電話で、夕飯も一緒にと言っていただけたが、お断りした。今の俺は、見知らぬ人と仲良く食事ができる精神状態にない。  深瀬邸は、丘の上にある。  その地域には、未だ足を踏み入れたことがない。  丘の上の地域は、札幌で言えば中央区の円山や宮の森、東京で言えば港区。要するに、富裕層が住むエリアというわけだ。  俺には一生縁がない土地。  しばらく車を走らせると、坂道に入った。この奥に、深瀬さんが住む家があるのか。  坂道を登りきったとき、右側に住宅街が現れた。このまま真っすぐ突き進めば、違う町に繋がるのだろう。  教えてもらった通り、右に曲がる。  見渡す限り、二十を越える家が立ち並んでいた。  噂通り、どれも豪邸ばかり。  デタラメに大きい家。和風、洋風、実に様々。統一感はまるでない。  その中で、一際広い敷地が目に入る。 「これが、深瀬邸……」  車をゆっくりと停車させる。  深瀬邸で最初に目に入るのが、庭。  家自体は平屋でそれほど大きいものではないないが、和風でこだわりが見て取れる。小さな旅館のようだ。  日本庭園を思わせる大きな庭。門で囲まれ全貌は見渡せないが、ここからでも、俺が知っている庭でないことだけは、わかる。  雪が降り積もっていて、神秘的にさえ見え、四季が楽しくなりそうな、そんな庭だった。  誰か、専門の職人でも雇ってやらせているのだろうか。  荘厳な面持ちの門が俺を出迎えた。表札の横にはセコムのシールが貼られており、警備は万全だ。  家の雰囲気を壊さない、木目調のインターフォンを押す。 「──はい」 「あ、あのう……咲原と申します」 「お待ちしてましたよ。今、開けますね」  深瀬さん本人だ。  門がゆっくり開くと、深瀬さんは家の前で待っていた。小走りで向う。 「はじめまして、咲原健太郎と申します」  深々と頭を下げる。 「ご丁寧にありがとう。深瀬です。家まで来てもらってすまなかったね」  家に招いた理由はすぐにわかった。  深瀬さんは杖をついており、足が不自由のようだ。  声から想像した通りの見た目だった。  ふくよかで、柔らかな表情をしているおじいさん。人として、一つ上の段階にいる、そんなオーラがあった。  年齢は、七十は越えているだろう。 「足が悪くてね。まあ、入ってください」 「──お邪魔します」  中に入ると、玄関から既に暖かった。  木のぬくもりを感じる、内装。バリアフリーで、境目が見当たらない。廊下や階段、全てに手すりがついている。   「どうぞ。ソファに座ってください」  開放感のあるリビング。立派な暖炉の横にあるソファに座る。 ──なんて座り心地がいいんだ!と、心の中で叫ぶ。  深瀬さんは一人用のソファに座った。定位置なのだろうか。  俺の家だと二人用になりそうなサイズだが、あれは恐らく一人用。  暖色系の灯り、パチパチと薪が燃える音……。  はじめて来たというのに、すっかり癒されている。 「お気に召しましたかな?」 「──あっ、すみません」  暖炉を見つめ、つい目を閉じていた。 「暖炉は心を落ち着かせてくれます」 「は、はい。そのようです」 「色々、大変なようですしね」 「──はい」  このまま目を閉じ、眠ってしまいたいと思うほど、最近は眠りが浅い。今ならぐっすり眠れそうだ。  だが、今日の目的は違う。 「突然のお電話に対応していただき、ありがとうございます」 「いえ。大崎さんからも聞きましたが、奥様も相当悩んでいらっしゃるとお聞きしましたから」 「ええ……。息子のことが一番心配でして」 「そうでしょう、そうでしょう。私に聞きたいことがあれば、なんでも聞いてください。わかることなら、なんでもお話しますから」  深瀬さんは、何度も頷く。 「では、さっそく仁崎さんについて教えていただけますか?」  俺は指を組み、ぎゅっと握る。 「仁崎さんのお話をする前に、私の会社についてお話しておきましょうか。私の会社は印刷会社でした。小さい町ですが、ここには工場が多く、おかげさまで仕事の依頼は絶えず、忙しい日々を過ごさせてもらいました。そして──うちの会社に、仁崎君もいたのですよ」  これでやっとわかるのか、男の人物像が。 「仁崎君は札幌の生まれだったんですが、訳あって、この町に引っ越してきました。高校卒業と同時にうち会社に入ってくれたので、十年は働いていたかな」 「えっ? 彼って何歳で亡くなったんですか?」 「二十九歳でしたね」 「僕と同じだ……」  殺人犯と共通点が見つかるのは、いい気がしない。 「先程、訳あってといいましたが、仁崎君は大きな音に非常に敏感で、静かな場所で暮らしたいということで、この町を選んだんですよ。確かにここは工場の町なので、特に観光客が来るわけでもないですし、夜になれば虫の鳴き声が聞こえるほど静かですからね。心地よかったのでしょう」 「彼は何かの病気だったんですか?」 「ご両親が病院に連れて行ってくれたようですが、特に異常は見当たらなかったようですよ」  この話を知っているということは、仁崎は社長に深い信頼をおいていたということになる。 「彼は、まじめな性格でしたね。特に仕事はよくできましたし、繁忙期でも弱音を吐かず、一生懸命働いてくれましたよ。ただ、不満や弱音を吐かないだけでなく、自分の気持ちを話すことがとても苦手でね。例えば、感謝の気持ちを伝える『ありがとうとう』や、自分の非を認める『ごめんなさい』も言えませんでしたね。とても……とても静かな子でした」  当時を思い出したのか、深瀬さんは少しだけ悲しげな表情で、暖炉に視線を移した。  暖炉を見つめながら、話を続ける。 「意外だったのは、結婚。正直、人と付き合うこと自体、彼の性格では無理だろうと思っていましたからね。でも、知らない間にパートナーを見つけていたんです。結婚の報告を聞いた時、あまりに驚いてすぐにおめでとうの言葉が出ませんでしたよ」  ほほほと朗らかに笑い、こちらを見た。 「その後、二年後には子どもが生まれてね。父親になるなんて、入社した頃の彼からは想像もできませんでした。でも、少しだけ彼に変化があったんです。『ありがとう』を言うようになりましてね。一緒に働いてきた従業員はとても驚いていましたよ。大人しい彼でしたが、嫌われていたわけではなかったですから。みんな、少しずつ変わっていく仁崎君を微笑ましく応援していたんですよ」  それが、あんな残虐な事件を起こすんだから、何を信じればいいのか、わからなくなる。 「奥さんは、どんな方だったんですか?」  唯一、仁崎が心を開いた女性。  どんな人だったのか、気になる。 「実は、あんまり知らなくてね。うちの会社では年に二回、家族も招いて宴会を開くんですが、一度も来たことはなかったんです。恐らく、彼の性格を理解し、参加しなかったのでしょう。でも、一度だけ、仁崎君本人から聞いたことがあるんです。奥さんのことを。その時彼はこう言ったんだ。『明るくて、一緒にいたら心が落ち着くんです』と。照れたように微笑みながら、話してくれたよ」  深瀬さんは、前かがみなり俯いた。  なんだろう──今のところ、俺の想像していた仁崎ではない。 「幸せだったんですね……」  俺がそう呟くと深瀬さんは、顔を上げた。 「幸せそうだったよ。表情も柔らかくなってね。口を開く回数も増えましたから。しかし……」  急に言葉が詰まる。 「だんだんと、様子がおかしくなってきてね。イライラしてるというか、落ち着きがないといいますか……。それでも、仕事はまじめにこなしていましたから、夫婦喧嘩でもしたのかと、軽く考えていました。それが、私の最大の過ちです。様子が変わりだした時点で、彼に声をかけていれば……。もっと気にかけていてやれば……」  顎に蓄えた髭をさすりながら、また、暖炉に視線を移す。 「あっ、何も出していませんでしたね。まったく、私としたことが」 「いえ、お構いなく」 「おーい、ゆり恵さん! ゆり恵さん!」  ゆり恵?  深瀬さんが呼ぶと、遠くの方から声がし、近づいてきた。 「はーい。信二さん。なにか御用でしょうか」 「悪いね。コーヒーと紅茶をお願いできるかい?」 「はい、わかりました」  エプロン姿のゆり恵さんは、深瀬さんより少し若いくらいの女性。背が低くふくよか、それと少し腰が曲がっている。 「奥様ですか?」 「いえいえ」と笑う。 「彼女は素敵な旦那さんと、かわいいお孫さんまでいる方です。私は妻に先立たれてから足を悪くしましてね。家のことが十分にできなくなってきたので、家事全般をお願いしてるんですよ。非常に助かっています」 「失礼なことを聞いてしましました。すみません」 「いいんです、いいんですよ」と、顔の前で手を振る。 「コーヒーが来るまで、咲原さんのお宅で何が起こっているか、お話していただけますかね?」 「あっ、もちろんです」  不可解な現象が起こっているということは、あらかじめ説明していたので、息子が狙われているかもしれないこと、引っ越しても意味がないかもしれないことなど、簡潔に話た。  ここちよい相槌のおかげで、緊張することなくスムーズに話すことができた。 「それは、怖いですね。なんとかして、息子さんを守らねばなりませんな」 「お待たせしました」  ゆり恵さんが、コーヒーと紅茶を運んできた。俺にはコーヒーを。深瀬さんには紅茶を。 「ありがとうございます」 「どうぞ、ごゆっくり」  ゆり恵さんは会釈をし、無駄なことは何も言わず、奥の部屋へ戻っていった。 「どこまで話したんだったかな」と紅茶をテーブルに置き、思い出すように上を向く。 「ああ、そうそう。仁崎君の様子が変わったって話たところだったね。ちょうどその頃問題を起こしてね」 「もしかして、女性に暴言を……」 「そうそう。彼女、入ったばかりでね。確かに独特な歩き方ではあったが、それは人それぞれだからね。特に誰も注意はしなかったんだよ。でもそれが、仁崎君には耐えられなかったようで、ある日突然、彼女に襲いかかったんだよ」 「襲いかかった?」  怒鳴っただけではなかったのか? 「怒鳴ったあと、彼女のことを突き飛ばしてしまったんだよ。そのまま後ろに転倒し、頭をデスクの角にぶつけて、切ってしまったんだ」  その時、日常的な暴力があったんじゃないかと言っていた、仲里さんの言葉を思い出していた。 「傷はたいしたことなかったんだが、彼女はそれをきっかけに退職。警察に被害届は出さないと言ってくれたから、大事にはならなかったんだが、あの時に私が然るべき対応をしていれば、あんな事件は起きなかったんじゃないかと、後悔しているよ」 「その時、仁崎さんは謝罪できたんですか?」 「血を見た途端、ひどく動揺してね。ずっとごめんなさいって言っていたよ」 「我に返ったというところでしょうか」 「そうかもしれないね……」  口を固く結び、鼻から大きく息を吐いた。 「それを境に、輪をかけて話さなくなってね。他の従業員も彼のことを怖がるようになって、避けるようにもなったし、どうにかしないといけないと思ってた矢先に、あの事件が起こったんだよ」  とうとう、事件が起きるのか。  今までの話を聞く限り、途中までは少なからず、幸せな時期があった。奥さんには心を開いていたようだったし、感情をあまり表に出さない彼でも、滲み出てしまうくらいに幸せだった。  それがどうして……。  深瀬さんから語られる話の中に、答えは見つかるのだろうか。    
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