第二章 

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「あの日、事件は十九時半頃に起きたんだ。彼が会社から帰ってすぐに。警察の話では、会社を出た時間と死亡推定時刻から考えて、家に着いてすぐに犯行に及んだんじゃないかって」  朗らかで柔らかな表情が、一気に固い表情に変わる。 「私はまだ会社にいて、メールに目を通していたんだ。そうしたら、会社に電話があったんだ、警察から」 「警察から?」 「ああ。この町の駐在所にも、仕事をもらっていたから知り合いが多くてね。それで、すぐに連絡をくれたんだよ」 「──なるほど」 「知り合いの警察官の話では、子ども部屋で奥さんと息子さんが。キッチンで仁崎君が倒れていたそうだ。息子さんはベッドの上で窒息死。奥さんは全身を激しく殴られたことによる、内蔵破裂で……」  言葉を失う。  内臓が破裂するほど殴られただなんて、奥さんはどれだけ怖かったか、痛かったか。 「仁崎君は……キッチンで……」  深瀬さんは、足の上に置いていた握りこぶしをさらに強く握りしめ、その手は小刻みに震えていた。 「片方の耳は削がれ、もう片方は……アイスピックが。自分の耳にアイスピックを刺して死んだんだよ。刺さったまま倒れていたらしい……」  思わず自分の耳を押さえていた。    あまりにも痛々しく、動悸が激しくなる。  だが──  自分の動作に覚えがあった。耳を押さえるこの動作、こめかみあたりが痛くなる感覚……。   ──ああ、わかった。  この町に越してきた当日。  奈々未と二人で晩酌をしようと、氷を砕いたあの時だ。アイスピックで氷を刺した瞬間、激しい頭痛がしたんだ。理由はわからなかったが、まさか、仁崎がアイスビックで耳を刺していたとは。 「どうしてそんな死に方を……」  気づくと、そう呟いていた。  家族を手に掛けたあと、自殺するにしたって、もっと違う方法があっただろう。なぜわざわざ耳を削ぎ落し、アイスピックで耳を刺すようなことをしたんだよ。 「これは、あくまでも私の推測だということを念頭に聞いてほしいんだが、彼はずっと音に悩まされ続けていた。家に帰った時、音に関する何かがあったんじゃないだろうか。それで、今まで抑えていたものが爆発し、家族を手に掛けた。そのあと我返り、この耳が悪いんだと、自分の耳を恨み、刺したんじゃなかろうと思ってるんだよ」  深瀬さんの推測は、俺の胸にすっと、落とし込むことができた。  両親と一緒に病院に行ったことがあると言っていたことから、学生の頃から悩まされていたことになる。辛いことも多かったはず。もしかすると、自分が話す声も、鬱陶しく感じていたのかもしれない。だから、話すことを極端に避けてきたのかもしれない。 「なんだか、辛い事件ですね」 「──ああ、そうなんだよ。だが、私が仁崎君を許せないことが一つだけあってね」 「ゆ、許せない?」  険しい表情に変わる。 「息子さんはベッドで亡くなっていたと言っただろう?」 「──はい」 「恐らく、手で口を塞がれでもしたんだろう……それだけなら、それだけならまだ救われる」  深瀬さんの声が震える。 「息子さんの口……黒い糸で縫われていたんだ」 「そ、そんな……」 「恐らく……子どもの声さえも、彼の中では許せなくなったのだろう」  今まで起こった不可解な現象が、アルバムを開くように次々と頭の中に浮かび上がる。  口を縫われた心霊写真。  子ども部屋に落ちていた、針と糸。  あれは、息子がこれ以上喋らないようにと、父親が口を縫って塞いだんだ。  なんて、非道なことを……。 「自分で、殺しておいて、更に口を塞ぐなんて。死んでしまったら、もう話すことなんてできないのに……」 「──違うんだよ」 「えっ……」  俺の目を見て、頷く深瀬さん。 「──生きている時に縫われたんだよ」    思わず目を強く瞑った。嫌でも想像してしまう。  どうして……どうして生きている時に縫う必要があったんだよ。どうせ殺すなら、わざわざ痛い思いをさせる必要なんてないじゃないか。  これではただの、拷問だ。  人間の所業じゃない。 「普通の人間に、そんなことができるはずない……」 「そうだね。さすがの私も、彼を非道だと感じたよ。長年、彼を近くで見てきて、心根は優しいと思っていたんだ。でも、あの騒動の時に気づくべきだったよ。その片鱗は、実は何度もあったんだから……」  深瀬さんは、ソファの背にもたれ、暖炉に目を向けた。  沈黙が落ち、暖炉のオレンジ色の炎、パチパチと薪が燃える音が、静かな部屋の中に響いていた。  もう、言葉を見つける力も残っていないほど、心は疲弊していた。 「おかわり、いかがですか?」  ゆり恵さんだ。  その明るい声に、汚れた心が洗い流されるようだった。 「あ、ああ。そうだな。私には紅茶を。咲原さんはコーヒーでいいかな?」 「あっ、はい。ありがとうございます」 「わかりました。ちょっとお待ち下さいね」  腰を落としながら聞いていたゆり恵さんは、立ち上がり、キッチンへ向かった。 「そうだ! ゆり恵さん、クッキーあっただろう、それも一緒に頼みます」  くるっと振り返り、ゆり恵さんは「承知しました」と、微笑んだ。 「ゆり恵さんはね、お菓子を作るのが得意なんだよ。特に、私のお気に入りはクッキー。昨日、焼いてくれたのがまだ残っているから是非、咲原さんにも食べていってほしいんだけどいいかね?」 「ええ、もちろんです。ごちそうなります」  準備ができていたかのように、すぐに、運ばれてきた。この部屋の空気を変えようと、用意してくれていたのかもしれない。 「はい、どうぞ。お口に合うかどうか」 「ありがとうございます。いただきます」  ゆり恵さんがいる間に、一枚、口に運ぶ。 「──おいしい! おいしいです!」 「それはよかったです」  シンプルなバタークッキー。  トッピングついているわけでも、華やかな色がついているわけでもない。  だが、おいしい……。  バターの濃さが丁度いいのか、くどくない。 「おいしいだろ? 何枚でもいけるんだ」 「はい。その通りだと思います。これなら、息子も喜んで食べそうだな……」  あまりの美味しさに、つい、口からそう出ていた。 「ゆり恵さん、このクッキーまだあるい?」 「ええ、もちろんです」 「じゃ、包んであげてくれないか? 咲原さんの息子さんへのお土産に」 「えっ、そ、そんな申し訳ないです」 「せっかく気に入ってくれたんだ。息子さんにもぜひ、食べてもらいたいよ」 「じゃ、お言葉に甘えて──」 「包むもの探してみますから、もう少しお待ち下さいね」  ゆり恵さんはエプロンの裾を持ちながら、小走りでキッチンへ戻っていった。   「お土産まで、すみません」 「いいんでよ。美味しいと言ってもらえて私も嬉しいですから。作ったのはゆり恵さんですが」  「ほほほ」と朗らかな声で笑う。 「あのう……事件の後、会社はどうなったんですか?」 「辞めたんだよ。誰も私を責めたりはしなかったし、むしろ続けてほしいと言ってくれた人が多かった。でも、私自身が許せなくてね。それまで、従業員は家族だと思って接してきたんだ。でも、何も見えていなかった。誰も救えなかったんだよ、私は」  紅茶の香りを嗅ぐように、一口啜る。 「とりあえず、私に話せることはこんなところかな」 「ありがとうございました。辛いことを思い出させてしまって、すみません」 「いいんです。むしろ、胸の中に閉じ込めておくより、誰かに聞いてもらったほうが、苦しさも解消されるからね。それと……」 「えっ?」 「咲原さん、引っ越すかもしれないとおっしゃっていましたけど……」 「そうですね。色々、迷いはあるんですが、やはり、引っ越すことに決めました。事件の話を聞いて、決意は固まりました」 「そうですか。咲原さん、ここに来る前は札幌とおっしゃっていましたよね?」 「ええ、そうです」 「もし、そちらに引っ越すのでしたら、私、不動産を所有してますから、声かけてください。力になれると思います」  一瞬、この町じゃないのかと、勝手にがっかりしたが、札幌に帰るという選択はなかったと、ハッとする。  今の仕事は辞めることになるかもしれないが、三人で幸せに暮らすことのほうが、俺にとっては重要なことだ。 「お待たせしました!」  ゆり恵さんが、ジップのついた袋に入ったクッキーを手に持ち、戻ってきた。 「ごめんなさい。かわいい袋が見当たらなくて」 「じいさんしかいないんだから、あるわけないか」  深瀬さんとゆり恵さんは、顔を合わせて「ほほほ」と笑う。  どこか、似ている二人。   「ありがとうございます。ありがたくいただきます」  ゆり恵さんから受け取り、「では、そろそろ御暇させて頂きます」と立ち上がる。 「咲原さん、どうか、後悔のないように決断してください。咲原さん家族の幸せを願っていますよ」  深瀬さんは俺の手を強く握った。  その手はふっくらと柔らかく、俺の心を包んでくれるようだった。 「──はい」  玄関まで来たところで、深瀬さんが「咲原さん」と声をかけてきた。  靴を履いていた俺は立ち上がり、振り返る。 「また、話し相手になってくれませんか?」 「もちろんです。次を楽しみにしています」 「──ありがとう」  ドアを開けると、冷たい風が吹き込んできた。 「本日は本当にありがとうございました。またお会いできることを楽しみにしています」 「何かあったら、いつでも連絡してください」  ドアを閉じるまで、二人は手を振っていた。    外は風が強く、どんな光も通さないような厚い雲に覆われていた。  部屋の中があまりにも心地よかったせいか、気温差に体が驚き、ぶるぶる震える。  結局、仁崎が家族を手にかけた理由はわからなかったが、彼自身、音に敏感な症状に相当悩んでいたことだけはわかった。  突発的に家族を殺害し、それが本当に音に関することだったとするなら、横たわる二人を見た時、我に返ったはず。そして、自分自身の人生に嫌気がさした。音に左右された自分の人生を……。  ますます、妻と息子、どちらが先に亡くなったのか重要になった。  もし、妻の意識が残った状態だったら……。  口を縫われ、泣き叫ぶ息子の姿を見ていたとするなら……。  俺たちが考えている以上に、恨みは深いことになる。同時に、息子への執着も強いと思っていいだろう。  今頃、我が家では、奈々未が俺の帰りを、首を長くして待っているだろう。深瀬さんから聞いた話を早く伝えたい。  どんな反応を示すかわからないが、札幌へ戻る話も提案してみるか。    
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