第一章 

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─2─ 「行ってくるね」 「とと、いってらしゃい」 「ありがとう。いい子にしてるんだぞ」    里来の頭を撫で、大福のようにもちもちの頬を触る。  ニコッと笑ったあと、急に興味を失ったのか、踵を返しリビングへ戻っていった。俺も里来のように切り替えが早かったらと、心の中でぼやき、家を出た。  外は残暑が続いていて、少し蒸し暑かった。朝晩はだいぶ気温が下がるようになったものの、秋の声はまだ小さい。  工場までは車で十分ほど。  途中、コンビニに寄り昼ごはんを買う。サラダとカップラーメン、コーヒーを購入。涼しい店内から冷房がまだ効いていない車に乗り込み、発進する。札幌とは違い、コンビニから出るのもスムーズだ。どこに行っても人、人、人だった札幌。当たり前の光景に気づかなかったが、人混みもストレスだったのだと、今更気づく。  コーヒーを啜りながら、昨日考えた挨拶を頭の中で繰り返していた。昔から人前で話すのが苦手で、すぐにあがってしまう。おそらく、朝礼で紹介され挨拶をすることになるはず。どれくらいの従業員が朝礼に参加するのかは不明で、少ないことを願うしかない。  俺はおしゃべりなタイプではない。どちらかというと、静かな方だ。だからといって、よく喋る人が嫌いな訳では無い。楽しそうに話す人の話を聞くことが、好きなのだ。  妻もその一人。  妻とは高校の頃、知り合った。いつもクラスの中心でゲラゲラと笑い、彼女の周りはいつも笑い声が絶えなかった。そんな彼女をいつの間にか、当たり前のように好きになっていた。  それまで女性を好きになる事自体少なく、初恋に近い。  勝手に運命を感じた俺は、人生で最初で最後の猛アプローチをした。その頃を振り返ると決まって彼女は、「怖かった」と笑う。彼女は、この人と付き合わないと何をされるかわからないと思ったそうだ。誓ってそんなことはないのたが。  付き合ってからも彼女への愛は変わらなかった。そんな俺の態度に、誠実さを感じたようで、彼女も徐々に俺を信頼するようになり、今に至る。  工場が見えてきた。  何度か訪れたことはあるが、いつ見ても圧倒的な大きさ。  工場を囲むように松の木が植えてあり、全貌が見えず、不穏だ。  駐車場から事務所までも距離がある。これを毎日となると、なかなかいい運動になりそうだ。  工場内も迷路のように複雑で広い。階段も多く、五階まである工場内を全て階段で移動しなければならない。長く、一段一段が高い階段。気を抜くと躓きそうだ。  頭上には幾本もの配管が通り、中には劇薬も通っている。  工場は古く、前日に降った大雨によって、至る所が雨漏りで濡れていた。  何より、自分の部署への道のりを覚えることから始めなければ。方向音痴な俺にとっては、一番の難関なのかもしれない。  朝礼での挨拶、各部署への挨拶回り、全てのミッションが終了した。緊張で手がじとっと汗ばんている。  三十分の休憩をもらえたので、まずは一服へ。何度も禁煙に失敗している俺にとって、喫煙所が用意されているのはありがたい。  中へ入ると、先客が二人いた。  背が高く、頑健な体格の男性と、細身で眼鏡をかけたインテリ風な男性。 「お疲れ様です」 「お疲れ様です。あれ? もしかして、札幌から来た人ですか?」    体格の割に、柔らかくかわいらしい声をしている。 「そうです。咲原といいます。よろしくお願いします」 「新嶋です」 「戸田です。よろしく」  戸田は見た目通り、声が低く抑揚のない話し方。  二人とは歳が近そうだ。聞いてみたいが、ここでも人見知りが発動する。 「咲原さん、何歳ですか? 俺達と近そうですよね」  コミュ力……。  見るからに社交的で明るい雰囲気の新嶋。少し気難しそうな雰囲気の戸田。第一印象はそんなとこか。 「二十九歳です。お二人は?」 「俺達、同級生で二十七です。やっぱり近かったですね」    新嶋が、少しあどけなさの残る笑顔で、こちらに微笑みかける。  それからしばらく談笑し、二人は倉庫でリフトに乗っていることがわかった。同時期に入社し、ずっと仲がいいらしい。  俺には仲の良い同僚などいない。口下手がそうさせているのか、輪の中に溶け込むことが学生の頃から苦手で、友人は少数精鋭。   「せっかくだから、今度飲みに行きましょ! 歓迎会も兼ねて!」  新嶋はタバコの火を消しながら、こちらに近づく。さすが体育会系のノリ。 「おい、会っていきなり失礼だろ」 「いえ、嬉しいです。落ち着いたらおすすめのお店に連れてってください」  社交辞令だとわかっていたが、はじめから断るのはよくない。 「わかりました! 戸田も行くよな?」 「咲原さんが無理してないなら、俺は構わないけど。ほんとに大丈夫っすか?」  戸田は、人との距離を縮めることに慎重なタイプのようだ。 「大丈夫ですよ。ありがとうございます」  開催されないであろう歓迎会の話をしている間に、タバコは二本目に火をつけていた。左手につけている腕時を見ると、そろそろ戻らなければならない時間だった。少し早めに戻り、デスク周りの整理をしよう。 「それではお先に失礼します」  つけたばかりのタバコの火を消し、喫煙室を出た。今朝、妻に「タバコ臭いと女性に嫌われるのよ」と言われ、渡された消臭剤をポケットから取り出し、全身に振りかけ、事務所に戻った。        
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