第一章 

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「ただいまー」  不安に蓋をするのように、いつもより大きな声で帰宅を知らせる。 「ととー!」  ほら来た。かわいい声、かわいい足音。全てが愛おしい。 「里来ー。いい子にしてたか?」 「うん!」  全身で愛情を表す里来を抱きかかえ、リビングへ向かう。 「おかえりなさい。ずいぶんと元気だわね」 「そうか?」と、とぼけてみせる。 「今日、カレーなんだけどよかった?」 「ああ。ちょうど食べたかったから嬉しいよ」 「健太郎っていつもそう言ってくれるわよね」 「そうか? 奈々未が俺の気持ちをわかってくれてるだけだろ」  奈々未が吹き出すように笑った。 「どうしたの? 何かあった?」 「えっ?」 「やけに優しいから」 「俺はいつも優しいだろ」 「それもそうね」  エプロンで手を拭きながら、言い終わるか終わらないかのうちにキッチンへ戻っていった。  この、いつのも光景に、胸のあたりのざわつきも落ち着きを取り戻していた。  着替えを済ませ、お絵描きをしている里来の隣に座る。 「何を書いてるんだい?」 「とと!」 「とと? ありがとう。上手に書けてるね。このととは何をしてるの?」 「おしごと!」  よく見ると、制服に見えなくもない。  こんなに幼くても、ちゃんと見ているんだと、感心する。子どもは親の背中を見て育つというのは本当なんだろう。もっと、しっかり頼れる父親にならなければと、気を引き締める。  里来の小さな頭を優しく撫でると、顔を上げ、にこっと笑った。 「とと、だいすき!」 「とともー!」  屈託のない笑顔に、思わず膝に乗せ抱きしめる。親ばかと言われようが、里来は世界で一番かわいい。 「ちょっと、またー?」 「ん?」 「親ばか発動してるわよ」 「何言ってるんだよ。世界で一番かわいい息子を抱きしめて何が悪い!」 「はいはい、わかったから、ごはん食べるわよ。お箸とか準備してよ」 「わかったよ」  里来を椅子に座らせ、エプロンをつける。 「今、ご飯持ってくるからな」  テーブルに料理が並び、食べ始める。  奈々未は、学生の頃から料理が得意で、付き合いたての頃に作ってくれたお弁当に感動したことを、今でも鮮明に覚えている。特にこのカレーは絶品で、以前、本気で店を出した方がいいと勧めたこともある。 「カレーの味どう?」 「うまい。最高」 「いつもおいしいって言ってくれてありがとう。作り甲斐があるわ」 「里来もおいしいか?」 「うん!」  ご飯粒を頬につけながら、にこっと笑う。  この笑顔は奈々未にそっくりで、このまま性格も母親に似てくれたらと、本気で願っている。 「そうだ、健太郎」と、奈々未はスプーンを置いた。 「何? どうかした?」 「今日、子ども部屋の掃除してたら、変なもの見つけたのよ」 「変な物?」 「ちょっと待ってて」  奈々未はそう言うと立ち上がり、リビングの棚から小さな袋を持ってきた。 「これなんだけどね」  手渡されたのは、水色の生地に白い花柄がプリントされている、小さなきんちゃく袋だった。見たところ、手作りのようだが。 「これがどうした?」 「中身見てよ」  言われるがままに、きんちゃく袋を開ける。すると、更に白い紙の袋が入っていた。お年玉袋のようだ。 「なんだよこれ……」  お年玉袋を開けると、針と糸が入っていた。  直感的に、見ることを避ける。 「これがね、里来のベッドの下に落ちてたのよ。もちろん、私のじゃないわよ」 「引っ越しの時、無かったよな? ちゃんと掃除してからベッド置いたし」 「そうなのよ……」  針と糸。なんでそんな物が落ちているんだ。  引っ越し当日の事を思い返す。  確か──、ぬいぐるみも子供部屋に落ちていた……。 「もしかして、これも前の住人の物なのかな?」 「うん、私もそう思ったんだよね。でもさ、ちゃんと掃除したじゃない? その時はなかったのに、どうして一か月も経った今頃になって出てくるのかしら」 「確かにな……」  子ども部屋ということもあり、奈々未は毎日掃除をしている。だから、気づかないはずがないのだ。 ──なんだろう。この、胸がざわつく感じは。  ちょっと、待てよ。  針と糸。  針と糸って……。  写真……写真だ!  新嶋が撮ってくれた、あの写真。  黒い糸で三人の口が縫われていた。  まさか……写真と関係があるというのか?  それとも……ただの偶然か。  偶然にしては、出来すぎている。  目を素早くしばたたき、考えを巡らす……。   「あっ……」 「えっ? 何?」  思わず声が漏れ出た。 「いや、なんでもない」    慌てて咳ばらいをする。  ある考えが頭に浮かび、勝手に声が漏れていた。  あの写真。三人の誰かに原因があるのではなく、原因はこの家にあるのではないだろうか。  この家で撮った写真だから三人に異変が現れた。誰か一人ではなく、三人に。  家が原因と考えれば、落ちていた薄汚れたぬいぐるみも説明がつく。  不思議なことは、全て、この家で起きている──。   「すごい雨ね」  突然の、激しい雨。  カーテン越しに見える、白く光る稲光。    気づかぬうちに雨雲は頭上に立ち込め、激しい雨が襲う。  人は誰しも、突然の雨と思うだろう。本当は、少しずつ雨雲は近づいているというのに。  案外、人は、目の前のものしか見ておらず、悪魔が三叉槍を持ち、すぐ後ろに立っていても気づかないのかもしれない──。        
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