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少し遅くなってしまった。
退社前、トラブルが発生し、人手が足りず現場に駆り出されていた。一時間程度で問題は解決し、開放。
外は夕日も沈み、月が顔を覗かせていた。
確か今日は満月だ。通りで明るく大きいわけだ。
十月も下旬となり、本格的に冬の足音が近づいていた。初雪がいつ降ってもおかしくない季節まで進み、北海道に長い冬が訪れようとしていた。
今夜は風が強く、雲の流れが速い。まるで、目に見える風のように、次々に雲が月を横切っていく。
帰りが遅くなったことにより、里来を風呂に入れることができなかった。我が家の決まりで、十八時までに風呂に入れることになっている。里来と一緒に風呂に入ることは俺の癒しであり、拙いおしゃべりをゆっくりと聞ける、貴重な二人きりの時間でもある。毎度、あと何回一緒に入ってくれるのだろうと考えては、勝手に胸を痛めている。
肩を落としながら、玄関を開ける。
「ただいまー」
「ととー!」
パジャマ姿の里来が、ペタペタと足音をたて走ってきた。足に抱きついた里来を抱き上げ、「今日は何して遊んでたの?」と聞く。
「かかとこうえんいってきた」と、目を大きくする。
里来の目は正真正銘、奈々未の目を引き継いだ。俺の目は細くて小さい。
生まれてきた里来を見た時、心底喜んだ。奈々未の目は日本人離れした茶色い瞳をしており、引き付ける大きな目をしている。
将来モテること間違いない。
抱きかかえたままリビングへ行くと、奈々未が少し不機嫌そうな顔をしていた。
「ただいま……」
「おかえりなさい。ねえ、さっきから何回も電話してるんだけど」
「えっ?」
里来を降ろし、いつも入れてある鞄のポケットを確認する。
「ない」
慌てて、上着やズボンのポケットを探すも、入っていない。
「やべ、会社かも」
「会社ならいいけど、無くしたら大変よ」
「そうだな。ちょっとスマホ貸してくれるか? 事務所に電話して確認してみる」
この時間なら、まだ事務所に誰かいるだろう。
「お疲れ様です、咲原です」
「お疲れ様です妻鳥です。あら、どうしたの?」
「僕の机にスマホあるか確認してもらえますか? すみません」
「ちょっと待ってね」
電話に出たのは、営業主任の妻鳥梨香。四十五歳でシングルマザー。俺なんかよりずっと仕事ができ、頼りがいのある人気の高い上司だ。
「お待たせ。あったわよ」
「ありがとうございます。妻鳥主任、まだいますか?」
「あー、もう帰るところ。だから、家まで届けてあげる。ちょうど通り道だし」
「えっ! それは悪いですよ」と顔の前で軽く手を振る。
「いいのいいの。それに、もう帰らないと娘たち待ってるから」
「じゃあ……お願いします。すみません」
スマートフォンを持ったまま頭を下げる。
我が家と妻鳥主任の家は確かに近く、歩いて十分もかからない。
一度、公園で娘さんと来ている所に出くわし、奈々未も紹介済みだ。
「奈々未、妻鳥主任が届けてくれるって」
「そうなの? なんだか悪いわね」
「ああ。でも助かった。今度から気を付けるよ」
いつもよりマシな部屋着を着て待つ。
ほどなくしてインターフォンが鳴り、急いで玄関に向かい、ドアを開けた。
「はい、どうぞ」
「お疲れさま。はい、これ」
「ありがとうございます。すみません、助かりました!」
深々と頭を下げる。
「いいのよ、通り道なんだから」
主任は、ひとつにまとめていた髪の毛をほどいていた。はじめて見る姿に、少し緊張する。
「もしよかったら、昨日、妻の実家からぶどうが送られて来たのでもらってくれませんか?」
「えっ!? いいの? 子どもたちぶどう大好きなのよ。遠慮なくいただくわ」
「よかった。三人じゃ食べきれなくて。玄関に入ってちょっと待っててください」
「ありがとう。お邪魔するわね」
妻鳥主任は、綺麗に磨かれた黒いヒールをコツンと鳴らし、一歩、家に足を踏み入れた。
「え……」
片足をたたきに乗せたまま微動だにしない。
「主任?」
「──悪いけど、この家には入れないわ」
一瞬、主任が何を言っているのかわからなかった。数秒後、思わず、「どういうことですか?」と聞き返す。
「明日、詳しく。とりあえず、帰るわね。じゃ」
「あっ、ぶどう……」
踵を返すように、目の前に停めてあった車に乗り込み走り去っていった。
「あれ? 妻鳥さんは?」
ぶどうの入った袋を手にさげた奈々未が、立ちすくんでいた。
「あ、ああ。子どもたちが待ってるから急いで帰らなきゃいけないって」
「えっ? でもぶどう……喜ぶ声したけど……」
「あ─、電話きて慌てて帰ったよ」
しどろもどろになりながらも、なんとか誤魔化す。
「あら、そうなの。残念ね」
首を傾げ、不思議そうな顔をしながらキッチンへ戻っていく。
一抹の不安が胸をざわつかせ、じとっとした脂汗が額に滲み出る。
「奈々未、悪いんだけど、先にシャワー入ってきていいかな?」
「いいけど……」
だめだ。このままでは誤魔化しきれない。シャワーに入り気持ちを切り替えなければ、奈々未に感づかれてしまう。ただでさえ奈々未は鋭く、俺のつく嘘などすぐ見抜くに違いない。
脱衣所で服を脱ぎ捨て、洗面台の鏡に映る自分を見つめた。
──あの時の主任。
家に足を踏み入れた瞬間、恐怖を全身で浴びたように硬直し動かなかった。直前までの笑顔は、スッと消え、顔を強張らせていた。
あの時、主任は何を感じとったのだろう。もしかすると、見てはいけないものを見てしまったという可能性もある。
明日、詳しくと言っていたが、なんて声をかけていいかもわからない。
「家に何かいたんですか? おばけでもいました?」なんて、軽く聞けるような様子でもなかった。一秒でも早くこの場から逃げ去りたくなるほどのことがあったのだ。
越してきてから、不可解なことが多すぎる。もう、見て見ぬふりはできない。
目を見開き、深淵を覗く覚悟を決める時が、近づいているのかもしれない。
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