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次の日は、用事があって山野さんの家に一人で出向いた。
ピンポーン。
「はーーい」
「すみません。こちらの書類にサインをいただいていなかったもので」
「はい。上がってください。すぐに書きますから」
「すみません。失礼します」
俺は、男だという自分の事を忘れていた。
そして、山野さんが一般的な主婦だと言う事も忘れていた。
近所から、どんな目で見られているのかをもっと意識するべきだったんだと思う。
「これでいいかしら?」
「はい、大丈夫です」
「コーヒー淹れるから待ってて」
「ありがとうございます」
山野さんが淹れてくれるコーヒーは、ホッとした。
この出会いから、あっという間に月日は流れ……。
俺は、山野さんにデザインを教えてもらう事になったのだ。
きっかけは、簡単だった。
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「深森君は、どう思う?私としては、このピンクを強調したいのよ」
「そうですね。確かに、このピンクはインパクトありますね」
「でしょう。やっぱり、お菓子って目にとまらなくちゃ、買ってくれない気がするわよね」
「そんな考えでいいんですね」
「えっと……皆さんは違うわよね。私は、デザイン学校に通った訳じゃないし、就職もしていないし」
「いえ……。そう言った考え方でデザインを考えていいんだなって思っただけです」
「自由でいいんじゃないかって思うの。仕事として働けるぐらいのスキルは、これでも私も教えてもらったのよ。デザインの学校ではあったから。でも、本格的のとは違うかな。私は、趣味程度のものだから」
自由でいい。その言葉に救われた。
今もまだ雑用をやっていて……。
社内の皆が話す内容にもついていけてなかった。
トリミングやグラデーションとかは、わかるけど。
これを目立たせる為に背景をボカシてとか……。
俺には、よくわからなかった。
本は読んだりもしたけど……。
難しいと感じた。
俺には、向いていないんだと……。
「深森君、こうすれば女子高生が買ってくれそうな気がしない?」
「確かに、この文字だとそんな感じがします」
「でしょう!こんなんでいいのかなって時々思うんだけどね。私が習った先生が、デザインに決まりはあるけど別に決まりどうりにやらなくていいって言ってくれてね。この枠の中に収まっていれば自由だって。そう考えないと堅苦しくてマニュアル通りのデザインになっちゃうって」
枠の中に収まっていたら自由……。
山野さんの言葉に、俺は初めてデザインを学んでみたいと思ったんだ。
他の誰でもない。
山野さんから……。
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「カレンダーを販売したいの?それは、凄いね。あっ、でも、副業とか厳しくないの?」
「そこは、自由なんで」
「私でいいの?」
「山野さんがいいんです」
「わかった。休憩中とかでもよかったら」
「はい」
こうして、俺は山野さんからカレンダーを作成する為のデザインを教えてもらう事になった。
まあ、カレンダーを販売するなんてのは嘘なんだけどね。
でも、そういうしか出来なかったんだ。
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山野さん……いや。
先生のマネージャーになってから、七年。
デザインを習ってから、俺はどんどん先生に惹かれていった。
理屈とかじゃなくて、感覚。
先生がくれる驚きや発見に刺激を受ける日々。
それが、先生をもっともっと知りたいって気持ちにさせた。
好きだって気持ちに気づいてからは、とにかくバレない事を意識するように努めた。
「あーー、甘いもの食べたい」
「お疲れさまです。紅茶入れましたよ。後、前に先生が話していた夢咲堂のシュークリーム買ってきました」
「嘘!覚えててくれたの?あれ、めちゃくちゃ並ぶのに……。よく買えたね」
「たまたま並んでなかったんですよ」
好きだから、先生が話した言葉は一つ、一つ覚えている。
並んでなかったなんてのは大嘘だ。このシュークリームを2つ買うのに二時間は待った。
でも、待つのさえ苦にならなかったのは先生のこの笑顔が見たかったから……。
「美味しいーー。本当に、幸せ」
「今日も、お疲れさまです。先生は、納品をきちんと守ってくれるので助かります。社内の人なんて、デザインがまだだってバタバタしてますもん」
「まあ、私は他の人と違って小さな仕事だからね」
「仕事に大きいも小さいもありませんよ。デザインの仕事なんですから」
「深森君、ありがとう」
先生の笑顔が見れるだけで、俺は何もいらない。
だから……。
このままでいよう。
一生、このままで。
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