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「なあ、さっきの奴って誰?」  桜介や仁が去った境内に、唯志と二人きりの状況が落ち着かない朔羅は、予想していたその質問に鼓動を逸らせた。 「あ、あの方は……」 「夜って何だよ」  イラついている口調の唯志から、矢継ぎ早に繰り出される質問に困惑し、朔羅は必死で言い訳を探した。探しながら、なぜ、自分は唯志に責められるのだろうともよぎった。けれど、そこを口にすると、話がおかしくなる予感もし、ここは素直に唯志の質問に答えようとまた考えた。けれど、仁を説明するには、どうしても棚倉の名前を出さない訳にはいかない。  望んでなかったとはいえ、朔羅の体は快感を味わってしまった。自分でもそれが許せなく、この身の皮を剥いで切り捨てたくなる。  動揺が生まれて視線を外すと、すぐさま唯志に肩を捕まれ、朔羅の双眸は行き場を失った。それが呼び水となり、肩に籠められた手に力が増すのを感じた。 「朔羅——」 「た、唯志には関係ないよ。そ、それにもう……俺のことなんて興味はないだろ」  勇気を振り絞って出した声は掠れ、つい語尾がキツくなってしまう。 「関係ないって……」 「関係ないだろ……。離れて行ったのは、唯志の方なんだっ」  言ってて涙が出そうになった。口にすることであの時のことが蘇り、感情は口を突いて音となった。それが相手を傷つける言葉だとわかっていても、張り詰めていた糸は切れ、回顧した思い出は溢れて止まらない。 「関係ない……か。そう言われても仕方ない。でも俺はここへお前に謝りに来たんだ」 「謝ることなんて……ない。唯志の行動はだよ」  自身に言い聞かせてきた別れの理由。けれど事実を忘れようと意識する程、唯志と言う男が好きな気持ちが肥大して、朔羅の身体中に唯志を求める気持ちが溢れて窒息しそうになる。 「……あの頃はお前から逃げることで、全て忘れて解決できると思っていた。でも、自分の気持ちは変わらずお前を求めていたんだ」  必死で平静を装っていると、過去に触れないと先に進まないんだと、唯志が叫んできた。  明るくて頼り甲斐のある男の顔が、悩んで抱えてきた思いを伝えようと、苦悩に満ちた表情で見てくる。  罵倒される覚悟でここへ来たと、唯志の心の声が漏れ聞こえた気がした。けれどもそれは朔羅にとって、癒えずにいる傷口を無理やり押し広げられるものと同じ。ただ、痛いだけだ……。 「話すことはない……。それにここへは教育実習に来たんだから、それ以上でもそれ以下でもないだろ」  語気を強めて言い切ると、朔羅は背中を向けて剪定した雪柳の葉を拾い始めた。 「——ごめん、朔羅。俺……」  背中で拒絶を示し唯志の言葉を跳ねつける。これが自分に出来る、精一杯の抵抗だった。 「俺がガキで勇気がなかったから。だからお前を傷付けて辛い思いを——」 「おーい、郭純さんいるかー」  唯志の懺悔(ざんげ)を遮るよう、門の方から荒い息遣いを思わせる声が聞こえて来た。  途切れ途切れに叫んでいた声の主の制帽が次第に姿を表すと、朔羅が自然と駆け寄っていた。 「乗松(のりまつ)のおじさん。どうしたんですか、そんなに慌てて」  階段の頂上に辿り着いた乗松が、マトリョーシカのような体を支える膝に手をあて、制服で覆われた背中が苦しそうに細かく上下している。朔羅はその姿を心配し、背中を撫でた。  重い荷物を下ろした後のような息遣いが次第に落ち着くと、乗松が腰に手を当て、乾燥した唇をようやく開いた。 「さ……くら。お、お前さん中里を見なかったか。家にいねーんだ」 「中里さん? 数日前に猪の件で寺を尋ねてくれたっきり、会ってないですよ」  狼狽えながら制帽を握り締め、額の汗を光らせている乗松の様子に、朔羅は不安がよぎった。 「そうか……。ここにも来てないか」 「おじさん、中里さんがどうかしたんですかっ」 「……三日前からあいつと連絡が取れないんだ」  タオルで汗を拭う仕草に気付き、朔羅は乗松をぬれ縁へと座らせた。  二人の様子を心配げにみる唯志に、声にならない言葉で『ごめん……』といいながら。 「……家にもいないんですか?」 「ああ。スマホも電源が入ってないとかぬかしやがる」  ポケットから折り畳み携帯を取り出すと、朔羅の目の前に握り締めて突き付けてきた。普段は温厚な乗松が荒々しい口調になっていることに、朔羅も心配になってきた。 「電源が入ってない……」  朔羅と乗松が顔を突き合わせていると、「それって若い男の人か」と、唯志が二人の間に割って入った。 「あ、うん。若いよ、三十代くらいかな」 「中里は三十一だ」 「じゃ、その人かも、俺見たの」 「え! 本当か唯志」 「あんた、それはどこでだ?」  尋問するよう、同時に朔羅と乗松が唯志に詰め寄った。 「えっと一昨日の朝ですよ。久しぶりにこの町へ戻ったから、懐かしくて散歩してたんです。その時、男の人が姫宮岳(ひめみやだけ)の登山口辺りにいるのを見たんだ。ここにもまだ若い人いるんだなって、そう思って見てたから間違いないよ」 「姫宮岳? そこってこの間、猪が出たって中里さんが言ってた。県外から来たキャンパーが、ゴミを放置してたのが原因だって——」  朔羅は乗松の方を確認するよう一瞥した。 「あそこに何度かあいつがキャンプに行ってたのは俺も知ってる。だとしても非番は一昨日と昨日だけだ。それに、あいつはこれまで無断欠勤なんてしたことがない」   顔色を蒼ざめたまま言い切ると、乗松がそのまま口を噤んでしまった。 「まさか猪に——」 「唯志、やめろ」 「わ、悪い……」  つい口走った言葉を手で塞ぐ唯志を、朔羅がひと睨みした。 「とにかく本署に連絡して姫宮岳を捜索してみる。籠谷さんにも報告しないとな。手の空いてるやついたら協力してもらうさ」 「俺も中里さんのスマホ鳴らしてみるよ、おじさん番号教えて」 「わかった、頼むな朔羅」  そう言い残すと、再び丸い体を揺らしながら、乗松が早足で去って行った。 「朔羅——」 「ごめん、唯志。今日は……」 「ああわかってる」  状況を理解したものの、何か言いたげな唯志の視線を感じた朔羅は、唇を微かに動かしたものの、言葉を生み出すのをやめた。  肩を落として去って行く、以前より背の高い後ろ姿に、名前を呼んで手を差し伸べたくなる。逞しくなった背中に抱きついて、今でも好きなんだと言いたい。けれど、また同じように別れを告げられたら、今度こそ朔羅の心は壊れてしまう。  下唇を噛み締め、こぶしを固く閉じた。  記憶の少年と大きな背中が重なり、二人の間に出来た距離はもう縮まらないのだと自分に言い聞かせた。 「郭純さんに伝えないと……」  呟いて、朔羅は憂懼な気持ちのまま庫裡へと向かった。
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