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永尊寺の無縁墓から遺体が発見されたことは、小さな町をあっという間に震撼させた。
疲弊し切った乗松が朔羅のもとを訪ねて来たのも、交番にあれこれと尋ねてくる町民を宥めた後だった。
「乗松のおじさん……見つかったのはやっぱり——」
「ああ。中里だった……。状態は酷いもんだったんだよ。まるで逃げられないよう、手足が切断されてた……」
「……ひどい」
膝の上に置いたこぶしを震わせる乗松のその目は、悲しみを纏った怒りにも見える。
朔羅が土の中から掘り起こしたのは、切断された中里の手首だった。奥には同じように全身も埋められていたらしい。
人が人にできることじゃない残虐さに、激しい怒りと虚無感を覚える。
中里の笑顔が、最後に見た誇らしげな警察官の顔が、朔羅の中で鮮明に蘇って涙が止まらない。
「よりによって永尊寺に埋められてるとはよぉ……」
「おじさ……ん」
泣き崩れる乗松を見つめながら、恐怖と怒りが湧きがる。
仏の教えで心を鍛えても、未熟な朔羅には制御出来ない。
雑巾を握りしめたまま立ち竦んでいると、「お前は座ってろ」と、ぬれ縁へと唯志に無理やり座らされた。
「でも、掃除が——」
「掃除は後で俺がする、だから今は駐在さんのそばにいろよ」
境内を掃除中だった朔羅は、様子を見に来た唯志に諭されると、疲弊する乗松を見た。
「鑑識の話では死後三日だった……」
定年前を感じさせない、日頃から元気で若々しいことが自慢の乗松だったが、中里の捜索が始まり、急展開した結果にその風態は実年齢を一気に越えてしまった。
「駐在さん、土の中からスマホもあったんですか?」
「ああ。あの音は中里のお袋さんが……ずっとかけてた音だった」
乗松の言葉を聞いた瞬間、朔羅は目の縁で耐えていた雫を静かに流涙させた。
「中里……さん……」
「犯人の見当はついてるんですか?」
朔羅の手から雑巾を引き受けながら、唯志が乗松に問いかけた。
「……分からん。本署と県警が合同で捜査を始めてるがな」
「何の理由があって中里さんをあんな目に——。犯人は中里さんが警察の人間って知ってたんでしょうか……」
「……分からん。何も……何も分かんねーよっ」
唯志の言葉に過剰に反応した乗松が、口角飛沫を飛ばし、怒りで眼を剥いた。
「す、すいませ——」
「くそっ! 絶対俺が犯人をとっ捕まえてやる!」
「おじ……さん」
憤怒で頭に血が上っている乗松に、朔羅や唯志の声は届かず、外気で冷めたお茶を怒りと共に一気に流し込んでいた。
「何であいつがこんな目に遭うんだ。まだまだやりたい事あったはずなのによぉ……」
「おじさん、中里さんは今どこに……」
「……司法解剖が終わってまだ警察署にいるよ」
「まだ家には帰れないんだな」
ポツリと口にした唯志の言葉で、朔羅は最後に見た中里の笑顔を思い出した。残された家族の悲しみを知る朔羅は、彼の母親の心情に胸が苦しくなる。
「朔羅、お前さんが土の中の音に気付いたから中里は見つかったんだ。ありがとうよ」
「先に気付いたのは桜介だよ。桜介が俺に教えてくれたんだ……」
垂れ下がった瞼を額の筋肉で持ち上げ、乗松が朔羅を凝視した——が、すぐにその表情筋は憂いてしまう。
「そうか、桜介か……。実は俺も昨日、聞こえた気がしたんだ。でも気のせいだと思って調べようともしなかった……」
耳にした相棒の救いを求める声。それを気のせいにしてしまったことに、乗松が臍を噛んで顔を歪ませている。
「子どもの方が、小さな音って聞こえるそうですもんね」
乗松の懺悔の籠った言葉を聞き、そっと唯志が口にした。
「そうだな、子どもには敵わねーよな」
「朔羅にも聞こえたんだから、お前も子どもって事か」
「こ、子どもって——」
唯志の言葉をきっかけに、たわいもない会話で空笑いをしてみたけれど、三人には虚無感が纏うだけだった。
「じゃ俺は帰るわ。県警からお偉いさんも来てるしな」
「おじさん、あんまり無理しないでよ」
門を出ようとする背中に朔羅は声をかけた。
「ああ。分かってるさ」
無理やり作った笑顔を見せる尊老の背中を見送ると、いつの間にか唯志が側にいた。肩に手が伸びてくるのに気付くと、朔羅は空を見上げるフリでその手を遠ざけた。
「なあ、朔羅——」
「そ、そうだ。昼食の用意しないと……」
上擦る声で唯志の言葉を遮ると、逃げるように背を向けた。その瞬間、背後から熱の籠った腕で抱き竦められた。
「……やめろ、唯志——」
「ごめん、ごめんな朔羅」
「何で謝るんだ……」
「こんな時にごめん。でも俺はずっとお前に謝りたかったんだ」
耳元で囁かれる懐かしい周波数に、朔羅の心臓が勝手にドクドクと跳ね上がってくる。
「謝られることなんて……ない」
朔羅は拘束からすり抜けると、キッと唯志を睨み付けた。虚勢にしか過ぎない眸は憂いて、それを隠すように朔羅はまた背を向けた。
「今、ここが大変なのは分かってる。だからこそ俺はお前の側にいたい。お前を支えたい。それを許してくれないか」
踵を返したまま、朔羅は投げかけられる言葉を背中で聞いていた。
「もう子どもじゃない……。平気だ」
「俺が平気じゃないんだ、お前がいないと、俺は——」
甘い声に対して怒りがこみ上がり、勢いよく振り返ると上目遣いで唯志を睨みつけた。
「そんなのは嘘だ。お前は俺なんかいなくても平気だろ。だから離れていったんだ。それともまた俺を苦しめたいのかっ」
「そんな訳ない!」
真っ直ぐに訴えかける唯志の視線が突き刺さっても、朔羅は手のひらに爪を食い込ませ、過去に受けた苦味を思い返して耐えた。
「俺の事なんて忘れたかったんだろ? あの時そう言ってたもんな」
吐き捨てた瞬間、朔羅の手首がキツく握り締められた。
「——確かに言った。でも、忘れたことなんてなかった。あの時の俺は、男を……男のお前を好きだと周りに知られたくなかった。親や友達にバレるのが怖かったんだ……」
握られた手に力が込められ、朔羅はそれを振り払えない自分を歯痒く感じていた。
「……だから俺とのことをなかった事にしようとしたんだろ」
掴まれたままの手を脱力させ、自分を心底情けなく思った。
見つめてくれた眸も、髪に触れる指先も、自分にとってはかけがえのないものだった。でも唯志にとっては、体裁を守るためなら、簡単に切り捨てられる程度だったと改めて知らしめられたからだ。
「何を行っても言い訳になる。それは俺も分かってる、分かっててここへ戻ってきたんだ。それでも、もう一度朔羅に会いたかったから」
苦しく、切なそうに語られる言葉。綴られる文字に何一つ心に響かない。もうあの頃のように純粋で、無垢な自分はいなくなったのだから。
「……もういいよ。唯志の言うこともわかる……」
込み上げる感情に抗い、踏ん張って立つことだけで許容範囲を超え、今すぐこの場から逃げ出したくなった。
「中学になって、幼馴染のお前を違う感情で見ていることに気付いた。そしてそれが朔羅も同じだったことがどんなに……」
必死で思いを伝えようとする唯志が今でも愛おしい。ずっと忘れられない存在なのも自覚がある。もしあのまま二人の関係が続いていたら、どんなに辛くても生きて来れた……。でもそれは自分だけが願っていたことだった。
「中三になった時、お前はすぐ転校した。それが家庭の事情でも、俺を避けたかった唯志には好都合だったろ——」
「クラスの女子に見られたんだっ。中二の終わり頃、お前とキ……スしているのを」
言下に唯志に言われ、朔羅はぬれ縁に乗せかけた足を止めた。
「女子……」
「いつもお前と一緒にいたから、俺達がゲイなんじゃないかって噂してた女子がいたんだ。その子に……見られた」
「そう……。でもその先は言わなくていいよ。唯志がどう答えたかなんて聞かなくてもわかる。キスはしてないし、ゲイでもないって言ったんだろ」
わざと辟易している風を装い、朔羅は言葉を放った。
「……ああそうだ、俺は咄嗟に嘘を吐いた。怖かったんだよ、狭い町だしこんなネタはあっという間に広がっちまうって。でもそれが間違ってた、お前と離れるんじゃなかったって……ずっと、ずっと後悔していた」
「噂になるのが怖かったのは分かるよ。もう終わったことだ、忘れろ。俺も忘れるから」
キツい口調で言った投げやりな言葉。それは朔羅の精一杯の強がりだった。
「俺は終わったことになんか出来ない。東京に引っ越す日だって、雪で電車が遅延した時、最後のチャンスだと思った。だから会いたいってメールしたんだ」
朔羅は背を向けたまま、過去の風景に取り残された自分の姿を想像し、唇を噛みしめた。
「遅延……そうだったな」
「電車が来るまで時間はあった、あった筈なんだ……」
声が震え、唯志が泣きそうなのがわかる。それが分かったからと言って、もう元には戻れない。あの日、二人で過ごした公園に、唯志が来ることはなかったのだから。
「俺の意思が弱くて意気地がなかったから。朔羅を公園で待たして——」
「俺は公園に行ってない。行かなかったから……」
「えっ」
境内の砂利を踏む音が背後に迫って来たのを感じ、朔羅は小さく深呼吸し振り返えって笑顔を見せた。
「行くわけないだろ。俺は唯志にふられたのに。それに電車の遅延もすぐ解除された。きっと来ないだろうってわかってたから。だから俺は——」
「うそだ!」
「本当だ。嘘じゃない。だから唯志が気に病むことはないんだ。俺達は中二の冬で終わってたんだ」
——まだだ、まだ泣くな……。
朔羅は瞼を固く閉じて口を手で覆った。作務衣の裾を破けそうな程握り締め、燻る感情に飲まれないよう必死で泣くのを耐えた。
「……雪はすぐやんだ。そして電車は予定通りに出発した。お前にメールしたのに、俺は親に促されるまま電車に乗って、もう後戻りは出来なかった。でもそれが間違いだった。乗車せず公園に行けば——。でも親にどう言えばいいか分からなかったんだ」
「もういいよ。唯志が来ても俺はいなかったんだ。それだけ——」
「お前は公園にいたっ。見えたんだよ、ベンチの側で雪の中に佇むお前を……」
唯志の悲痛な声に、朔羅の心臓がドクンと揺れた。全身に駆け巡る血管が膨張し、破裂しそうな感覚に襲われる。
別れの日に届いた唯志からのメールに舞い上がった。
未練がましく公園に足を運んで浮かれていたのに、待ちぼうけする無様な自分を知られていたことにほとほと呆れる。
「朔羅……」
静かに舞い落ちる雪の中、唯志が近付く音と声が聞こえる。その声に期待しても、また同じ痛みを味わうかもしれない。
朔羅は耳を塞いで、心に巣食っているさもしい自分を排出しようとした。
「電車から見えたお前の体に雪が積もってた。髪の毛にも肩にも。俺のことをずっと待ってたんだろ……。雪の中のお前を見て、俺は自分の取った行動が情けなくて……」
背中に降り注ぐ微弱な電流は、耳を閉ざしても浸透してくる。
懐かしい声に振り返りたい衝動は、自分自身を追い詰めるものだ。
「朔羅を忘れたことなんて一度もない。でも俺は怖くて連絡も出来なかった。それでも忘れられなくてこうして戻って来たんだ。許されるなら今度は絶対お前の側を離れな——」
「へー、たいした自信家だね。でもそれって相手に迷惑かなって思わなかったの?」
境内にある石灯篭の陰から、皮肉めいた声が唯志の言葉を遮った。
「仁様……」
「やあ朔羅、迎えに来たよ」
和やかな笑顔で手を振る仁が、二人の間に割って入ると、唯志から隠すようにして朔羅の前に立ちはだかった。
「あんた、何しに来たんだ」
「やめろよ、唯志」
今にも仁の胸ぐらを掴みそうな唯志の腕を引き留めた。だが相手は相変わらず飄々とし、その態度が更に唯志を憤慨させたのか、睥睨した視線を送り続けている。
「君には関係ないよ。約束を待ちきれなくて来ちゃったんだ。あ、弥勒には話してるよ」
「約束って何だよ、朔羅」
仁を睨みながら、不機嫌な声を唯志がぶつけてくる。
「そ……れは……」
仁と会う理由——それを唯志に言えるわけない。
「デートするんだよ。ね、朔羅」
口籠る朔羅をよそに、唯志を挑発するよう涼しい顔で仁が代わりに答える。それが唯志の怒りに火をつけ、「何言ってんだっ」と仁に食ってかかった。
「邪魔しないでよ、先生。ってまだ先生じゃなかったか」
「お前は誰だよ、この前から朔羅の前をチョロチョロしやがって」
「やめろ唯志。この方は南斗銀行の御子息で、相馬仁様だ……」
仁の肩書を聞けば、誰もが不躾な口調を閉ざすだろう。そう思って朔羅は仁を紹介した。
「南斗銀行……」
「そう。そこの三男坊の相馬仁です、よろしくな柾貴先生」
皮肉めいた口調で柾貴を煽情し、仁が右手を差し出して握手を求めている。
「……仁様は大切なお客様なんだ——その寺にとって……の」
客——これは間違いではない。朔羅は自分にそう言い聞かせた。
「下に車待たせてあるから、準備できたら行こうよ朔羅」
唯志の視線に動じず、肩を抱いてくる仁を朔羅は拒むことは出来ない。
もし、自分との関係を唯志に暴露されたら……。
事実が晒されることだけは絶対に避けたい。
「君は教育実習生だろ。朔羅に執着しないで研修に専念してろよ」
「……仁様、これから人が来るんです。まだ郭純さんが戻ってないので寺にいないといけないので。俺は後で……伺います」
仁の一言に、ぐうの音も出ない唯志を庇うよう、朔羅はこの場を収めようとした。
「そっか。じゃ住職が戻って来たらここに連絡してよ。迎えを行かせるからさ」
そう言って仁から一枚の名刺を握らされると、
「わかりました……。下までお見送り致します」と、唯志から引き離そうとした。
「ほんと? じゃ手繋いで行こうよ、朔羅」
「え、それは——」
「ハハハ、冗談だよ。じゃあ行こうか。俺の愛車、また見せたげるよ。前見た時よりグレードアップしてるんだ」
背中に唯志の視線を感じながら、仁と肩を並べ朔羅は境内を後にした。
階段を降りきると、反対側の道路に以前も見た鮮やかな黄色が目に飛び込んで来た。
「ほら。朔羅、わかる? ホイルを入れ替えたんだ、カッコいいでしょ」
仁の指の先には、シャープなフォルムに似合う、シルバーに輝くホイルを身に付けた外車が止まっていた。
「わぁ、ほんとだ。前見た時とは違う。前よりカッコよくなってるっ」
冬の陽の光を全身に浴び、煌びやかで精緻な異国の車に走り寄っると、付け替えたばかりのホイルを眺めていた。
「いいでしょ? この黄色にぴったりで」
「……はい、綺麗です」
「でしょ。この車で朔羅を迎えに来るからね——って言っても、運転はしないけど」
「そうでしたね、でもやっぱりもったいないですよ」
「運転できないけど車は好きだし、けど、この子はどーしても欲しかったからね」
「仁様に似合うのにな」
「教習所へ行ったんだよ。でも途中で挫折しちゃったんだ。俺、勉強嫌いだからさー」
あっけらかんと話す仁を見て、朔羅の口元はふわりと緩んだ。
「仁様が運転する姿は、カッコいいと思いますよ、やっぱり」
朔羅の言葉に仁の大きな手が、「ありがと」の声と共に頭を撫でてくる。
優しさに飢えていた朔羅は、素直に彼からの温もりを嬉しいと思ってしまった。
「帰り道、気をつけて下さいね」
「うん。じゃ朔羅、連絡待ってるから」
助手席に乗り込むと窓を全開し、陽気な笑顔で手を降ってくる。
朔羅は仁が小さくなるまで、深々と頭を下げていた。
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