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「随分あいつと仲いいんだな」
車が去るのを待っていたかのよう、木陰から顔を出す唯志が面白くなさそうな顔をしている。
「……もう帰った方がいいよ。じきに暗くなる。寒いし——」
「誤魔化さないでちゃんと話してくれよ。俺のことが迷惑なのか? 許せないか。顔も見たく……なかったか……」
切なそうな顔で訴えてきても、朔羅は素直に応えられない。答えた先に、また同じ痛みを味わうことを簡単に想像できてしまうから。
「許すとかじゃない……。もう俺のことはほっといてくれ」
投げやりに言うと、朔羅は階段を上り始めた。
「そんな曖昧な理由じゃ俺は引き下がれない。寺で住んでいる理由くらい教えてくれてもいいだろ。親父さんたちはまた出張に行ってるのか」
意思の強さを感じる声で、唯志が言葉をぶつけてくる。
拒んでも食い下がってくるならもう、全部話して楽になりたい。今、朔羅が置かれている状況を知れば、唯志は呆れて去って行くだろう。
「……唯志が東京へ行った後、俺の両親は亡くなったんだ」
「う、嘘だろ……親父さん達が……。お前に……何かあったとは思っていたよ、朔羅が寺に住んでるのを知って。でも何で寺なんだ——」
朔羅は階段をゆっくり上りながら語り出した。その後ろから朔羅の言葉を逃さぬよう、唯志が駆け上ってくる。
会話の狭間の静寂な空間に、階段を踏みしめる二人分の足音と、木々の隙間からジュルルジュルルと鳴く、エナガの声が間を繋いでくれた。
唯志の気配を感じながら、姿の見えない鳴き声を探すよう、階段の中程で止まり、朔羅は空を見上げた。
「交通事故だよ、出張先で。父さんの運転ミスだった……」
「う……そだろ」
「本当だ」
「そんな……」
振り返ると、蒼白した顔の唯志がいた。
幼い頃から互いの家を行き来し、朔羅の両親からも唯志は可愛がられていた。その記憶が彼にショックを与えているのが手に取るように分かる。
「仕事に行くのも買い物に行くのも、ましてや死ぬ時も二人一緒って……。どんだけ仲良いんだろーね」
精一杯の空笑いで唯志を見下ろすと、静かに流涙する姿がそこにあった。
小さな頃に何度か見たことのある泣き顔とは違い、大人の男が悲しむ哀愁溢れた顔だった。
「ご……めん。俺、そんなこと知らなくて——」
「唯志は知らなくて当たり前だろ」
朔羅は語られる先の言葉を遮り、強い意思を込めた虹彩で見つめ返した。
「もう俺は必要ないのか。やっぱりもう遅いのか……」
「遅いとか早いじゃないよ。もう終わったことなんだ。幼馴染の唯志は実習が終われば東京に帰る。それだけだよ」
突き放すような言葉を選び、朔羅はもう一度唯志を見下ろした。だが、交差した眼差しは強い光を纏い、どこか覚悟をした色に見える。
「そんな言い方しても、お前にとことん拒絶されるまで俺は諦めない。そう決めてここに来たからな」
いつの間にかエナガの声は遠ざかり、冬の貴重な光りは、厚い雲の背へと隠れてしまった。そのせいか、吹く空気は一段と冷たく感じ、木枯らしが二人の間を通り過ぎて静謐した空間が再び生まれた。
「唯志と俺は住む世界が違う。この先も俺はこの町から出ることはできない。そんな人間とお前はどうなりたいんだ」
「できない? できないってどういうことだ」
二人の間にある階段分の距離が、唯志の踏み出す一歩で徐々に縮まり、いつの間にか朔羅の目の前に真っ直ぐな眼差しがあった。
「両親が死んで、施設に行く俺を引き取ってくれたのは郭純さんだ。俺は永尊寺で過ごすことを引き換えに、この寺を守ることを約束したんだ」
「寺を守る? それは養子だからか」
「いや、籍は入ってない。俺は望月朔羅のままで、郭純さんとは『他人』なんだよ」
「だったら寺を継ぐのは絶対じゃないだろう」
「唯志には分からない。このことは俺の意思に関係ないことだから」
「関係ない? どう言う意味だ。住職に恩があるのは分かるけど、お前を寺に縛り付ける理由にはならないだろう」
大人びた唯志の顔が怒りで歪んでいる。その顔を見て少し救われた気がした。自分のために腹を立ててくれた、それだけで朔羅には十分だった。
「いいんだ。俺は子ども達の笑顔があれば生きて行ける」
「子ども? カナリア園のか? 寺とあそこと何か関係——」
「日が翳ってきた。風邪引くからもう帰った方がいい……」
唯志の言葉を遮り、朔羅は階段を上った。
「話を逸らすな、ちゃんと俺に向き合ってくれ」
錫色の空が、生まれたばかりの雪を舞い落としてくる。振り注がれる綿雪は次第に数を増やし、しんしんと二人の髪を白くしていった。
「なあ、さくら……」
名前を呼ばれ、肩越しに見下ろすと、唯志が首をもたげている。
眼下に見える大好きな人。昔はふざけ合って気軽に触れることが許されたけれど、今は側に近付くことさえできない。
朔羅の中へ、ただ、ただ、離れ難い気持ちだけを植え付けていくだけの、愛しい人……。
切ない感情を押さえ込もうとした時、唯志の背後からゆっくりと姿を表す存在で、朔羅は肩を落として諦念を抱いた。
「……郭純さん。お帰りなさい」
朔羅の声で慌てて振り返った唯志の前に、冷えた目で射抜く郭純が、白い息を吐いて二人の横を通り過ぎようとしている。
「お、お久し……振りです。住職さん唯志です」
動揺を隠しきれない唯志が会釈をすると、顔色も変えずに郭純が一瞥し「随分と大人になったもんだな」と、言ってそのまま去って行った。
「ごめん、唯志。俺、出かけないといけないから……。それに乗松のおじさんも来るし」
「出かけるって何処へだよ。さっきの相馬ってやつのとこへ行くのかっ」
駆け寄って手首を取られると、朔羅の中で拒めない感情が生まれる。
「唯志には関係……ない」
振り解こうにもあまりの力強さに、心臓は別の生き物のように感情をひけらかしてこようとする。頭では早くここを離れろと思っても、心がそれを拒んでいた。
「何しに行くかだけ言えよ。そうしたら今日は帰るから」
真っ直ぐに見つめる唯志の眸が、朔羅をじわじわと追い詰めてくる。
「……かれに……だよ」
「……今、なんて言った」
もう終わりにしよう。たまらず朔羅は言った。けれども俯いて言った声は、唯志には届かなかった。
朔羅は掴まれた腕ごと引き寄せられ、再び意思の強い目で問いただされた。
「だ……抱かれにだよ、あの人に……」
自暴自棄に言った言葉は、掴んでいた唯志の手を緩めさせた。
「だ……抱か……」
「もういいだろ、俺はこんな人間なんだ。もうほっとけよ」
「——っだよ、それ、意味わかんねーよ。それはお前が望んでることじゃないんだろっ、絶対にっ」
一気に沸点に達した怒りが唯志の顔一杯に現れ、手首が折れそうなほど強く掴まれた。そこから微弱な震えが伝わり、悲しげに憤怒する男の唇に血が滲むのを見つけてしまった。
「——かせない」
乾いた声が風に紛れて耳に飛び込んできた瞬間、朔羅の体は唯志の胸の中にあった。
「た、ただし、何する——」
「行くな!」
焦がれた言葉が耳に溢れ、朔羅の体は発酵するように熱くなる。
好きな人の温もりに包まれていると、身のほどをわきまえろと、舞い落ちる雪の冷たさに咎められ、朔羅は我に返ると唯志の体を押しやった。
睫毛を濡らす雫が言葉の代わりに唯志へと訴えかけている。
静かに降る雪が唯志の上に積もるのを見て、朔羅は後ろ向きのまま階段に足をかけた。
「さくら……」
「俺は汚いんだ。唯志には相応しくない」
言い捨てると、朔羅は一気に階段を駆け上がった。
「さくら! 行くな! あんな奴のとこ行くなよっ!」
背中に降り注ぐ儚い雪と唯志の声が、朔羅の心に固く積もっていった。
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