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呼び鈴を押すと数秒後にドアは開かれ、仁が両手を広げたスタイルで、大袈裟な出迎方をしてくれた。そんな対応されると部屋に入ることに躊躇われる。
一瞬怯んでしまった朔羅は、無理やり口角を上げたあと、深々と頭を下げた。
「こ、こんばんは、仁様。先ほどはすいませんでした」
「やあ、朔羅。さっきぶりだね」
相馬家の御曹司を寺まで足を運ばせ、今日の約束を伝えさせてしまったのだ。郭純に知られたらそれは鉢須賀の耳に入る。それが何を意味するか。
想像しただけで怖くなり、朔羅は下げた頭を戻すことができずにいた。
「いいんだよ、俺が勝手に行って帰ってきただけだし。それより朔羅に話があるんだ。ほら、頭を上げて。入って入って」
初めて来たときと同じように、リビングにはワインと料理が既に並べれられ、未使用のグラス一つとペットボトルが一緒に並んでいた。それらが手付かずなのに気付いた朔羅は、嬉しそうに自分を迎え入れた仁の人柄に嬉しく思った。
「取り敢えず再会に乾杯しよっか」
「再会って……。つい先程お会いしたじゃありませんか」
笑顔を崩さない仁の態度で心に余白の出来た朔羅は、辿り着くまでに蓄積された緊張を徐々に弛緩させることができた。
「あはは、そうだったね。はい、かんぱーい」
手渡されたグラスとペットボトルを重ねてはみても、朔羅はグラスの中で揺れる紅い水面に目を向けたままだった。
「どうしたの、朔羅。飲まないの?」
「あ、いえ。ここ何年も乾杯なんてしてなかったから、なんだかこそばゆくて」
アロマのような香りのディープルビーを見つめながら、グラスを照明に掲げると、朔羅は口元を綻ばせた。
「そうなんだ。誕生日とか祝ってもらわないの?」
「寺で暮らすようになってからは一度も……」
「あいつは?」
「え? あいつって……」
「あいつだよ、今日寺にいたろ。あの教育実習生」
あからさまに不機嫌そうな口調で言った後、仁が水を一口含む。
「唯志……ですか」
「そう。あいつは祝ってくれなかったの?」
「いえ。子どもの頃は何度か……」
「ふーん、そういえば幼馴染なんだよね」
料理を口に運びつつ、仁の口調はまだ拗ねたままだ。
「はい、俺が小学三年に転校してこの町に来てからずっと。ずっと一緒でした……」
一緒に過ごした幾重もの思い出に耽っていた朔羅は、頬に刺さる視線に気付き、微笑む仁と目が合った。
「幼馴染か、いいな。俺にはそんなやついなかった」
投げやりな口調で言う仁が、ペットボトルの水を喉に流し込んでいる。
「仁様はお酒飲まないんですか。この間もお水でしたよね」
「ああ、俺アルコール飲むと喘息が出るんだ。だからもっぱら水だな。まあ、酒飲むと太るし。太って朔羅に嫌われたくないもんね」
頭の後ろで両手を組む仁が、冗談混じりに言い片目を瞬かせた。
「仁様は細すぎます。もう少し脂肪があっても——」
「ダメダメ。ゲイは太るとモテないし。せめて見てくれだけはカッコよくないと。でないと頭のいい兄貴達と比べられて、見た目も出来損ないって罵倒されかねない」
そう言って笑顔を見せた後、仁が遠くへ焦点を合わせている。まるで寄る辺ない相手が一人もいない、そんな寂しげな顔に見えた。
明るく振る舞う仁の表情が一瞬、色をなくしたように見えたけれど、それはほんの僅かなことで、すぐにいつもの明るい表情を見せてくれた。
「俺には自由に友達を作ることも許されなかったからね。まあ、金は腐るほどあったけどさ」
自分より幾つも年上の仁が寂しげな子どもに見え、朔羅は思わずソファの上にあった仁の手へ自身の手のひらを重ねていた。
「自由はお金で買えませんものね……。友情も……」
「朔羅は優しいね。君にもっと早く出会いたかったよ。そしたら、俺は……」
仁の言いかけた言葉が気になったが、踏み込むことに躊躇われた。
「仁様、俺なんかでよかったら——ってすいません。本来の仕事はこんな事じゃなくて……」
「仕事……か」
いつの間にか重ねた手は骨張った手に包まれ、グッと握り締められると、朔羅は言葉を途切れさせる仁の顔を見つめた。
「仕事……です。俺にしか出来ない……」
朔羅は包まれたままの手をこぶしに変えて言った。決意を絡めるように。
「朔羅は強いな。それに本当にかわいい。あいつにはもったいないよ」
「仁様……」
「朔羅、棚倉が何を企んでるかは前に話たよね」
「は、はい……」
「でも、あれからあいつに呼び出されてないだろ?」
「あ、はい、そうです。仁様と初めて会った日以降は何も……」
仁と初めて会った日以来、郭純からは何も話はなかった。それでもいつ『男娼』の仕事を彼から命令されるか、朔羅は毎日気が気でなかった。
「約束したんだよ弥勒と」
「約束?」
「そう。一ヶ月間は朔羅を俺が独り占めできるようにってね」
「えっ! そ、それはどう言うことですか?」
「今、弥勒はある会社を買収しようと計画してるんだけれど、それには俺の親父と政治の世界にいる兄貴の力が必要なんだよ」
「買収……ですか」
話の内容が朔羅には難しすぎたけれど、仁の話す中から朔羅は理解できる単語で意味を繋ぎ合わせて聞いていた。
「まあ、親父達も棚倉家の力が必要だからね。俺が弥勒と親しいからってアイツら、こういう時だけは俺を利用してくるんだ」
「仁様は棚倉様とは友達なんですか?」
「友達? それは違うな。ただの腐れ縁だよ、金持ち特有の家繋がりさ。まあ、ややこしい話しは置いといて、とにかく弥勒と約束したから一ヶ月間は朔羅は安泰……いや、俺に手を出されるから安泰じゃないのか、フハハ」
真面目なのかふざけているのかよく分からない。
仁を訝しげに見つめていると、彼の顔が子どもみたいに微笑んでくる。
一か月だけとは言え、棚倉の手から逃れられるのは、朔羅にとって感謝してもしきれないことだ。ただ、そうする事で仁に何かメリットがあるのかが分からず、困惑しながらも朔羅は頭を下げるしか出来なかった。
「ありがとう……ございます。でもどうしてこんな事までしてくださるんですか」
朔羅は前から思っていた疑問を口にした。
「うーん、どうしてって。そうだな、強いて言うなら、これまでの厭世的に生きてきた俺が、生まれ変われるきっかけかな。嘘で上部だらけの世界にうんざりだった。息をするのも人と言葉を交わすのも嫌気がさして、このまま人生を放棄してもよかった。でも——」
「仁さま……」
「ある日、弥勒に君の写真を見せられたんだ。俺がゲイってあいつは知ってるからね。あ、あいつはバイだからね、タイプでもないし。現役の寺の修行僧が男娼してるなんて聞くと、大抵の人間は興味を惹くだろ」
チーズを一欠片かじり、仁が正直に話してくれる。眸の奥の輝きに、嘘を吐いていないことが伝わってきた。
「鉢須賀や弥勒に好き勝手されてるお坊さんに会ってみたいと思ったんだよ」
仁が頬を摘んで言うから、
「い……いひゃいれ……す」と、変形した顔で仁を見た。
歪んだ顔の朔羅がおかしかったのか、仁が「いいね。朔羅かわいい」と、爆笑している。
「お話って言うのは、そのことだったんですか」と、腫れた頬を労りながら話の矛先を戻そうとした。
「いやこれもそうだけど……クックク」
まだ笑っている仁が、目頭を指で拭っている。
「笑上戸なんですね」
少し呆れたように言いながら、朔羅はティッシュを差し出した。
「いや、こんなに笑ったの久しぶりだよ。何年も忘れてたな」
涙を拭ったティッシュで鼻をかむと、気持ちを切り替えるように仁が深い深呼吸をした。
「あのさ、話ってのはあの養護施設のことなんだ」
「養護施設? カナリア園ですか」
「そうだよ、桔平君や桜介君がいる施設」
さっきまでの態度とは打って変わり、物静かな口調で仁が真面目な顔を見せてくる。
「園がどうかしたんですか」
「どうかしたって程のことじゃないかもだけど、ちょっと気になることあってさ」
「何か子ども達が失礼なことでも——」
常に郭純から粗相のないようにと言われ続けている朔羅は、背筋をヒヤリとさせた。
「違う違う、そうじゃないよ。前に寺に行った時、桔平君に養子縁組の話しをしてただろ?」
「……はい、つい先日カナリア園を卒業しました」
「その桔平君の引き取り先の夫婦を、知ってる人だなって言ったの覚えてる?」
「はい。遠目だったけど、優しそうな人達に見えました」
「あの人は雨宮って言って、俺の親が懇意にしている京都の老舗旅館の大旦那だった。あ、これも話したっけ」
「はい。仁様は教えてくれましたよ、桔平はその、立派な旅館の家に引き取られたんですよね? 新しい家族のもとで幸せになるために」
朔羅の語気が強まるとそれに反し、仁の眉は八の字になり、深い溜息を吐いた。
「でも雨宮夫婦には息子がいる、これも話したっけ。えっと、何が言いたいかと言うと、桔平君は跡取りとして引き取られたんじゃない。それがどうも引っかかってさ……」
朔羅のグラスにワインを注ぎながら、仁が首を傾げている。
「どう言うことでしょうか。あ、ただ純粋に子どもが欲しかったとか——それとも、息子さんのための養子とか……」
「いや、それはないよ。息子には子どもがいるからね。桔平君と同じくらい? だったかな。後継者にしたって実の子どもが継げばいいだけだし」
「そ、そうですよ……ね」
「な、変だろ? だから俺ちょっと調べてみようかなって思って」
「調べるって……何をですか?」
不安気に聞き返す朔羅の唇が骨張った人差し指で塞がれ、視線の先にいる仁が屈託なく笑っていた。
「心配しなくても雨宮夫婦がちゃんと実子のように、桔平君を育ててるか確認するだけだからさ。俺ってば役職だけ与えられてる暇人だから、時間はあるんだ。ちゃんと朔羅にも報告するから安心してよ」
心配そうに仁の瞳を覗き込んでいると、華奢な体はそっと仁の腕に抱き竦められた。
「じ、仁さ……ま」
「朔羅はこんなに優しいのに、ほんとあいつにはもったいないよ……」
言葉と同時に、抱き締める腕に力が込められる。自分以外の人間に優しく接することができる仁の方が、ずっと優しい人だと思った。
「仁様は優しい人です。俺みたいな人間にここまでしてくださって……」
「……じゃあ朔羅、キスしていい?」
耳元で仁の声が甘えてくると、朔羅は戸惑いを隠せず、優しい腕からそっと離れた。
「……すいません。俺は——」
「あいつのことが好きなんだね」
仁の質問に虹彩が揺れると、朔羅はゆっくりと頷いていた。
「君を見てたらわかるよ、分かってて言ったしね」
「でも! でも……俺は、俺の仕事は——」
「今はそんなことは考えるんじゃないよ。朔羅を守るための期間を、たった一ヶ月だけで終わらせないように考えるからさ」
「仁さ……ま。もう……しわけありま……せん」
——ありがたい。本当にそうなればどれだけいいか……。
膝に頭を擦り付けて礼を言うと、よしよしと言いながら、仁が髪を撫でてくれる。無邪気な笑顔が表面上にあっても、仁の眸は朔羅を通り越し、この部屋ではない景色を見ている気がした。
仁のことや桔平、そして唯志のことを考えていると、不意に仁の唇が頬に触れた。
「じ、仁さま!」
「ハハハ。やっぱ朔羅はかわいい。今日はこれで許すよ。それであいつと上手くいかなかったら俺んとこにおいで」
陽だまりのように微笑む姿に、申し訳なく思いながらも、朔羅は体を差し出さずに済むことに安堵した。そして仁の優しさに心から感謝をした。
「とにかく雨宮家のことで何か分かったら連絡するから。桔平君が元気にしてるか気になるだろ? 朔羅も桜介も」
「はい。あ、でも本当に大丈夫でしょうか。仁様の家の方達に何か言われませんか?」
「平気、平気。あの人達は俺のすることに関心ないし、母親殺しで利益を生まないゲイの息子なんて邪魔なだけなんだよ」
「そんな悲しい言い方しないで下さい……。少なくとも俺には大切な方です、仁様は」
「あいつの次に?」
朔羅を御する言葉と知りながらも、口にしたことを後悔したのか「嘘だよ。ごめん」と、吐き出した言葉に上書きをしていた。
彼に抱いてしまう切なさが、ささやかな悪意のように思える。これ以上、仁の好意に甘えていいのだろうかと……。
「今夜はこのままこの部屋に泊まって行けばいいから」
「はい……でも」
「俺は彼氏のとこに行くんだ」
「か、彼氏……いるんですか」
「あれ? がっかりした? もう朔羅ちゃんはヤキモチ焼きだなぁ」
「ち、違います、心配しただけです」
軽口を言う仁から、また朔羅は抱き締められた。その腕は力を込めるでもなく、真綿に包むような優しい抱擁だった。
「朝になったら寺に帰っていいからね」
そう言い残すと、いつものように明るい笑顔で手をはためかせ、仁は部屋を後にした。
「ありがとう……ございます」
一人っきりになった部屋で、朔羅はドアに向かい深々と頭を下げた。
肩でそっと息を吐くと、シンとした部屋に唯志の声が聞こえた気がする。
行くな、朔羅……と。
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