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「郭純さん、朔羅です」  襖の前で部屋の主人に声をかけた。 「入れ」 「失礼します。これ今日の新聞です」  朝一番に読む新聞を机の上に置き、朔羅は彼の口が開かれるのを待った。 「今夜、(はち)須賀(すか)様から呼ばれている。十九時に間に合うように行きなさい」 「え、今日ですか? ですがこの間も法事で——」 「いいから行きなさい」  「は……い。あの、郭純さんは一緒ではないのですか。俺——私ひとりでは……」 「客が来るそうだ、お前に是非来いと言っている。それに読経は必要ない」 「鉢須賀様のお客様がどうして私なんかに——」  趣旨のわからない訪問に質問を繰り返していると、新聞に目を落としていた眼光が、上目遣いに叱責してくる。その視線からは拒否できないものを感じ取れた。 「あ、いえ。分かりました」  慌てて頭を下げ、部屋を出ようとした朔羅に、「法衣は『黒』で行くように」と後ろ手に告げられた。 「え、でもそんな略式だと失礼じゃ——」 「で来いとの指示だ」  意味深に誇張される言葉に「はい」と返すしかなく、朔羅は会釈して部屋を後にした。  自室に戻り法衣を準備しながら、朔羅は首を傾げた。  読経はいらないし、法衣で行けと言う。それもひとりで……。  鉢須賀家は朔羅の住むこの町一帯に留まらず、県内中にもその名が轟く程の名家だった。  代々受け継げられている大地主、それに加え多くの不動産を持つ投資家だ。  鉢須賀家は天尊院の檀家でもあり、郭純にも把握できないほど古くから寺との関係を築いている。  格式高い家柄と言うこともあり、鉢須賀邸へ赴く時は郭純と一緒に行くのが当たり前だった。それが今日は何の要件かも分からず、しかも客が来るのに朔羅ひとりだけで出向けと言う。 「俺に一体どんな用事があると言うんだろう」  高くなった陽を浴びた雪を窓越しに見つめ、朔羅はふと忘れ難い顔を思い浮かべた。  夏の陽射しを思い出させる笑顔。側にいるだけで寒風が晒す真冬でも不思議と寒くはなかった。  目を閉じると胸をくすぐるような想い出と、悲しくて苦い感情が混沌となって滲み出てくる。  ずっと忘れられず、こうやって思い出してまう自分の執着に嫌気がさす。  この虚しさだけは、いつまでも居座り続けて一生、消えてはくれないのだろう。  鉢須賀邸へ行くことに、腑に落ちない気持ちで窓に背を向けようとしたとき、癒しを与えてくれる無垢な声が外から聞こえた。 「おーい、さくらー」  声の主に目をやると、朔羅は早足で部屋を出てぬれ縁まで移動した。 「おかえり。桜介(おうすけ)」 「ただいまー。さくらは仕事サボってんのか?」  ガサガサとランドセルの中身を揺らし、梅原(うめはら)桜介(おうすけ)が白い息を吐きながら中庭に姿を現した。 「サボってないよ、これから庭の掃き掃除するんだ」 「本当かよー。ま、いいや俺も手伝ってやるよ」  邪気を吹き飛ばしてくれるような笑顔で、桜介がいつものように戯れてくる。 「ありがと。でも今日って学校終わるの早くないか? あ、お前こそサボって——」 「ち、がーう! 今日終業式だったんだ。小学生は明日から冬休みなんだって」  鼻の穴を膨らませる桜介に「そっか」と、朔羅は自然と笑みを溢した。 「そ。だから休みの日は、さくらを手伝ってやれるからさ」  ぬれ縁にランドセルを勢いよく放り投げた桜介が、背丈より高いホウキを持ち、庭の枯れ葉を集めだしている。 「あー、またその大きなホウキ持ち出して。小三の桜介には大きすぎるっていつも言ってるだろ」  掃除というより、ホウキに弄ばれてる光景を笑いながら朔羅は柄を引き取った。 「オレだって出来るって言ってんのに」  唇を尖らせながら、手持ち無沙汰になった桜介が、素手で枯れ葉を集め出した。 「こら、手が汚れるぞ」 「だってさくらがホウキ使わせてくれないからじゃん」  土のついた手を叩くと、拗ねた態度でぬれ縁に座り、まだ地面まで程遠い足をプラプラさせている。朔羅はその小さな体の横に座ると、短く切り揃えた柔らかな髪を撫でた。 「桜介の髪は綺麗な黒色で手触りもいいね。撫でてるとふわふわで気持ちいいよ」  撫でられることで至福の顔を一瞬見せてくれたものの、桜介の頬はまだ膨れたままだ。 「さくらはオレが桔平(きっぺい)よりチビだって思ってんだろ」 「そんな事思ってないよ。桜介にはいつも助けて貰ってるんだ、頼りにしてる。今は小さいけど、お前は大人になったらいい男になるよ、きっと」 「本当? 桔平よりも背、高くなるかな」 「うーん、それはどうか分からないけど。でもきっと俺よりは大きくなるよ。これは保証する」 「さくら大人なのにチビだもんな」 「チビってひどいな」  たわいのない会話の中、いつの間にか拗ねた顔はどこかへ行ったが、代わりに腹から豪快な音が空腹を主張してきた。 「そうだ、桜介お腹空いてないか。ぜんざい作ったんだよ、檀家さんから沢山小豆貰ってさ。桜介、食べるの手伝わないか」 「ぜんざい! 食う食う、手伝う!」  目を輝かせながら、朔羅に飛びついてくる無邪気な笑顔。この幼い彼に、これまでどれだけ救われてきたことか。  朔羅は肩を抱き寄せ、感謝を込めて額と額を擦り寄せてみた。 「じゃ、桔平やカナリア園のみんなも呼んどいで。一緒に食べよう」 「うん、わかった。すぐ呼んでくるよ」  言うよりも早く体が反応し、中庭の来た道を小さな背中が駆けて行った。 「あ、桜介ランドセル——って、まあいっか」  寺からカナリア園に繋がる小道を下って行き、木立を駆け抜ける葉音が遠ざかると、あっという間に小さな背中は消えてしまった。  朔羅は桜介から視線を庭の奥にある墓地に変え、植栽されてある雪柳の葉を見つめた。  はらはらと綿雪が葉に舞い落ち、それが花びらの代わりを装っているように彩られていく。雪が積もる光景に、忘れられない過去が重なり、朔羅はもう呼ぶことのない名前を口にしてしまいそうになった。
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