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朔羅の暮らす永尊寺は、都心から離れた地方にあり、山間を上風が舞う静かな場所にあった。
都会とは違い、公共交通機関が潤ってなく、移動手段は田舎鉄道と呼ばれる二両編成のローカル電車と、二時間に一本しか運行しないバスだけだ。
見渡す景色は田畑が多く存在し、夕方にもなれば殆ど人とすれ違うこともない。
そんな閑散とした田舎町を賑やかにしてくれているのは、数年前、寺の麓に建てられた、養護施設『カナリア園』から聞こえる子どもの声だった。
朔羅が関西の高校に行っている間にできた施設には、親に縁のない子ども達が二十名ほど暮らしており、桜介もそのひとりだ。
寺に隣接していることから、朔羅も子ども達と交流を持ち、その中でも特に桜介は朔羅に懐いていてた。学校が終わると施設ではなく、ただいまと寺へ帰って来るほどに。
不便な場所でも順応能力の高い子どもは、あっという間に土地に見合った遊びを覚え、そんな姿を朔羅も日々の糧にしていた。
賑やかだった子ども達も夕食どきになれば姿を見せず、道を歩いていても、やはり誰ひとり出会うことはない。
朔羅は今日最後のバスに乗り、貸切状態のまま停留所を五つ見送ると、少し開けた町に到着した。
バスを降りると、景色は次第に人工的になり、ひしめき合う樹々は減って、乾いた土の香りもいつの間にか薄れている。
通い慣れた道を歩きながら、朔羅は鉢須賀の客や、自分だけが呼ばれた理由を考えていた。
思考をあれこれあぐねいていると、大通りの手前にある路地に差しかかり、朔羅はその場で歩みを止めて来た道を振り返って見た。
沈もうとする丸い橙に目を細めると、逃げ場を求める風が法衣の裾をかすめる。
ひんやりとした冷気に押し出されるよう、つま先は自然と目的地へと向いた。
ふと、草履の先に触れるものに気付き視線を下ろすと、路傍の側で儚げに咲く姫莎草が目に入る。小さな葉を見ていると、朔羅の脳裏に手折った葉を振り回し、笑顔を振りまく少年が浮かんだ。
──あーもう。また思い出すっ。
『考えない』と思うことは、『考える』と同じこと。忘れようと思うから、忘れられるはずがない。この無限ループから脱出するには、命を断つしかないのだろうか。
若しくは、もう一度──
「あー、そんなことありえないって」
道端なのも忘れ、朔羅は映像を払拭するようかぶりを振った。深く深呼吸をし、思いっきり背筋を伸ばすと、仕切り直すようつま先に力を込め再び路地を進んだ。
閑静な住宅街に辿り着くと、そこから少し高台を上がれば、圧倒的な存在感を放つ和風邸宅が姿を現す。
古よりそびえ建つ外壁が障壁のように構え、中に広がる広大な庭を含めた敷地は全てが鉢須賀家のものだ。
「こんなに広いお屋敷なのに、鉢須賀様と静真さんしか住んでないなんて勿体ないよな」
通いのお手伝いさんがいても、皆夕食の支度が終われば順に帰ってしまう。そうなると屋敷は一気に静まり、人の気配すら感じない。灯りが灯っていなければ、孤高に建つ古城のようなシルエットは、世界遺産の城を思わせる。
永尊寺も鉢須賀邸ほど敷地は広くないが、やはり郭純と桜羅の二人だけでは心許なく、鉢須賀も同じではと常々思っていた。
「郭純さんも鉢須賀様も独身だから、家族がいればもっと賑やかになったんだろうに」
そんなことを考えながら朔羅は屋敷の表門を通り過ぎ、長い塀をなぞり歩いた。
数メートル歩いたのち、塀の途切れ目に着くと、ドアが現れ朔羅は呼び鈴を押した。
「こんばんは、永尊寺の朔羅です」
名乗った後、生唾を飲み込んでると鍵の開く音がし、秘書の不動静真が出迎えてくれた。
「こんばんは、朔羅様。裏口からで申し訳ありません」
オールバックで額を顕にし、糸のような細い目で見られると身を竦めてしまう。威圧感のある声とスーツ姿が相まって、緊張してしまうのだ。
「こ、こんばんは、静真さん……」
用意されたスリッパを履き、庭園を望む内縁の赤い絨毯を進むと、突き当たりにある重厚なドアの前で静真が立ち止まった。
「あれ、今日は仏間ではないのですか」
「……はい。本日はこの部屋で旦那様がお待ちです」
郭純と訪れる時は、煌びやかな仏壇が鎮座する、二十畳ほどの和室へ通される。
朔羅はこの屋敷ではその部屋以外に足を踏み入れたことがなく、薄暗い廊下を不安げに見渡していた。
──迷子になりそうだな……。
ひとりきりなことに不安を募らせていると、静真が重厚な扉をノックした。
部屋の中から入室を許可する低い声が聞こえ、朔羅はぶるりと身震いしてしまう。
何度聞いても萎縮するその声にいまだ慣れず、全身を緊張が駆け巡る。
「時間通りだな」
扉が開け放たれると、真正面に鎮座していたのは、着物を纏う居丈高な年配の男性。
貫禄を醸す白髪の容貌に、手に持つ凝った銀細工で作られた柄の杖は、還暦前でも尊老の風格を表し、鉢須賀二郎を威圧的に演出していた。
窪んだ目は暗黒のように闇を放ち、視線を向けられると、朔羅は楔で打ちつけられたように動きを封じられてしまうのだった。
底知れない彼の迫力は、相手を簡単に制圧させる威力を持っており、いくら柔和な口調で語られても震撼を味わうだけだった。
「……こんばんは、鉢須賀様」
奇々怪々な絵画達が囲う、仄暗い部屋の中に通された朔羅は、初めて目にする異様な雰囲気に飲まれていた。
心許ない目で辺りを見渡すと、ソファに背を預ける、一人の男がいることに気付く。
──例のお客様かな……。
朔羅の視線に気付いたのか、ソファの男が肩越しに振り返り、目が合うと反射的に頭を下げた。
「へー、彼があなたお気に入りの『さくら』ですか」
朔羅を品定めするかのよう、男の目が全身を見てくるのがわかる。口の端だけで微笑み、ゆっくりと立ち上がって近付いてきた。
「棚倉さん、彼は美人でしょう」
「ええ。少年の名残りを残した躯体が、中性的な性質を醸し出してるのがそそりますね。それに白い肌に黒の法衣がよく似合ってる。鉢須賀さん、彼は想像以上ですよ」
棚倉と呼ばれた男が、指の腹で自身の唇を撫でながら、朔羅を舐めるように見つめてくる。
妙な雰囲気に戸惑いの表情を浮かべ、意図を探るよう朔羅は鉢須賀へと視線を向けた。すると、漆黒の目は怪しく光りを放ち、棚倉と言う男に目配せをしている。
「朔羅、こちらは棚倉グループの棚倉弥勒氏だ。四十歳の若さで、取締役になった偉業を成し遂げた才気溢れる人物だ」
鉢須賀に説明されるまでもなく、育ちの良さを漂わせる佇まいは、生まれた時から身についていたのだと一目瞭然だった。
あつらえられた上質なスーツは、逞しく鍛えられた体を覆い、後頭部へと向かって撫で付けられた髪が少し額に垂れ下がり、見据えてくる眸に色香を添えている。
くっきりした二重に泣きぼくろが、妖艶な空気を漂わせていた。
「棚倉グループってあの、ホテルとか旅館とかを沢山経営してる——」
「へえ、修行僧の割には博識だね」
然程、感心もしていない口調で距離を縮めてくる棚倉の指が、不意に朔羅の顎を捉えられ、強引に顔を上に向けられた。
唇が耳朶に近付くと、そこへ熱い吐息がかかり、生ぬるい舌が侵入してきた。
「っな、何を——」
反射的に棚倉の体を跳ね返すと、朔羅は素早く後退りした。焦って怯んだ背中が静真にぶつかると、様子を見ていた鉢須賀が顎で指図を出し静真を人払いする。
「薄茶色の髪に白い肌、神秘的な美しさだ。理想のお人形さんだよ」
再び棚倉に頬を両手で挟まれると、蛇のように冷ややかなその指先に朔羅は身震いした。
「あ、あの鉢須賀様……」
「朔羅、お前は今日から棚倉氏の言うことを聞きなさい。そして彼のような客人の要望に応えるために人事を尽くすのだ。天尊院のためにな」
「それはどう言う——」
「説明しないとわからないのか。お前達が暮らすあの寺が、平穏に維持出来ているのは誰のおかげだと思っているんだ」
「それは……鉢須賀様が援助してくださっているから——」
「そうだ、分かってるなら黙って従え。支援してくれる人間が増えれば、寺も一層潤うだろう。それに孤児になったお前を郭純が引き取ったのだ、彼に恩義を返すのは当たり前だと思うがな」
「恩義はわかってます、ですが——」
言いかけた朔羅の背後から衣摺れの音が聞こえ、反射的に振り返った。
そこにはジャケットを脱ぎ、ネクタイを襟に滑らせて微笑む棚倉の姿があった。
脳裏にある一つの悍ましい行為が浮かび、ゾッとして咄嗟に逃げようと身を翻したが、棚倉に腕を捕らえられ、強引に引き寄せられた体は、襖の奥へと投げこまれてしまった。
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