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「こんにちはー。朔羅くーん、いる?」  玄関から甲高い声が聞こえ、朔羅は濡れた手を前掛けで拭きながら声の主を出迎えた。 「弥生(やよい)さん、こんにちは」 「よかった、朔羅君いたのね」  鍋を持って玄関に佇んでいたのは、サンダルに厚目の靴下を履き、割烹着姿の加茂(かも)弥生(やよい)だった。  雪が舞い散る季節だと言うのに、彼女は袖をまくり、剥き出しになった頼り甲斐のある腕で、朔羅に鍋を差し出してきた。 「これは?」 「甘酒だよ。酒粕たくさん貰ったから、お二人にもお裾分け」  豪快な笑顔で鍋を握らせらてくると、徐に弥生が深々と頭を下げてくる。 「な、何、いきなり。どうしたんですか?」 「朔羅君ありがとね、いつも子ども達のことを気に掛けてくれて」  会うといつも冗談めかしに振る舞う弥生が、今日は真剣な眼差しで朔羅を見つめてくる。 「い、いや、俺は何も……」  これまでも弥生から礼を言われる事はあったが、今日ほど神妙な表情で頭を下げられたのは初めてだった。 「お礼言わせてよ。だってまた園に寄付して貰ったもの。郭純さんや朔羅君のお陰ね」  そう言うと弥生が再び頭を下げてくる。仰々しい態度を目にし、朔羅は自分のしたことを弥生が知ってるのではと鼓動を逸らせた。 「お、俺なんか何も役には立ってないよ。弥生さんこそ園長としていつも大変じゃないですか。ほら、前に腰も痛いって言ってたし」  口にするのも悍ましい行為を誰にも知られたくない。咄嗟にそう思い、朔羅は慌てて話を逸らそうとした。 「子どもの面倒は性に合ってるのよ。それにこの歳になれば、どっかしら体にガタがくるんだし。腰痛の原因なんて六十歳って年齢のせいでもあるのよ」 「弥生さんはまだまだ若いって。でも、小さい子を見守るのは並大抵のことじゃないよ。だから無理だけはしないでよ」  二十人足らずの子どもの面倒を、弥生と他に二人の従業員で面倒をみるのは苦労もあるだろう。近くで見ていたらよく分かることだ。  寺のすぐ側にカナリア園が出来たのも縁だと思い、朔羅も微力ながら役に立てばと、子ども達の遊び相手など買って出ていた。  ——あんな歪んだ方法ではなく、健全とした形で役に立ちたいのに……。  悍ましい夜を思い出し、唇を噛み締めていると、弥生が一瞬浮かない表情を見せる。だがそれはほんの僅かで、すぐに彼女はいつもの豪快な笑顔になっていた。 「大変だけど頑張るしかないしね。あ、郭純さんにも伝えといてよ、棚倉さんって社長さんからの寄付の件。ありがとうございますって」 「うん……伝えるよ」 「お寺の仕事の合間にあちこち講演して、寄付を募ってくれてるんだろうね。鉢須賀さんともよく一緒にいるし。あの二人は本当に心強いよ」 「……そうだね」 「あ、そうだ、朔羅君知ってる? 今度小学校に東京から教育実習生が来るんだって」 「えっ、教育実習生? こんな季節に珍しいね」  話の矛先がコロコロ変わる弥生に慣れっこでも、朔羅はこの話題には目を丸くした。 「そーなのよ。本当は十月に来る学生がいたんだけど、家の事情で来れなくなってね。でもどうしても教員が必要だから、校長が大学に依頼してたみたい。時期が時期だけに、校長か誰かの血縁者かかもしれないわね」  うふふと期待を込めた笑いを見せ、まだ見ぬ新参者にはしゃいだ後、割烹着を翻しながら弥生は早々に帰って行った。 「相変わらず賑やかだな、弥生さんは」  甘い香りの鍋を抱え、朔羅は棚倉が口にした約束を思い出した。  約束を守ってくれたことは感謝する。でもあの夜の出来事は、怪我が治癒したよう元に戻るわけじゃない。非道で屈辱的な行為は、一生忘れることなど出来ないのだ。  重い溜息を吐き、引き戸を閉めようと朔羅は土間に降り立った。  目の前に風が運んできた雪が降り込み、朔羅はそれを手のひらで掬ってみる。触れた冷たさで忘れられない景色が甦り、熱で溶け出す雪の欠片を見つめていた。  もしあの日、雪がやまなければ何か変わっていたのだろうか……。   朔羅は重い足取りで上がり(かまち)に足を乗せると、鍋を手に薄暗い庫裡(くり)へと戻って行った。 「さ・く・らー」 「桜介。桔平も一緒だったんだ。宿題終わったのか?」  中庭を掃除している手を止め、朔羅は恥ずかしそうに桜介の背中から顔を出す湯山(ゆやま)桔平(きっぺい)に頬を緩ませた。 「終わったー。さくら何か手伝う事ある?」 「宿題終わったんだな。二人共偉い偉い」 「全部桔平に見せてもらった」  桜介の言葉に聞き間違えたかのよう目を(しばた)かせると、目の前でひとりは鼻の下を擦りながら得意げな顔をし、もうひとりはオドオドと遠慮がちに目を伏せている。  真逆の反応をする少年二人を交互に見て、朔羅は呆れた溜息を肩で吐いた。 「いやいや、それダメでしょ桜介。なあ、桔平」 「いい……んだ。いつも桜介は遊んでくれるから、お返し……」  耳を澄ませてようやく聞き取れる小さな声。だがこれでも会話が成立するようになった方だった。初めて施設に来た頃の桔平は、誰とも話すことが出来ない怯えた子どもだったから。  屈託のない桜介と一緒にいることで次第に彼の心はほぐれ、朔羅はそれを心底嬉しく思っていた。 「桔平は俺よりデカいけど、力は俺の方が強いから守ってやるんだ。だから勉強は桔平の担当。な、桔平」  桜介の背中越しに首を縦に振る仕草が愛おしい。心が安定すると、こんなにも豊かな表情を見せてくれる。それがとても嬉しい。  心が傷ついたまま施設に桔平がやって来た日、朔羅は着替えを手伝っていた時、思わず目を背けてしまいそうになった自分を恥じた。  痩せ細った体にあった無数の痣。その原因を知った時、彼の両親を怒鳴りつけに行きたくなった。  小さな体で耐えていたものを想像すると、涙が溢れて止まらなかった。  今では痛々しい痕はすっかり消え、ささやかな笑顔も見られるようになった。  本来の子どもらしい姿を目にすることが、周りにいる大人達の喜びだった。  掃除と称して桜介と桔平が戯れ合っている。子どもらしい幸せな風景を眺めながら、親に捨てられた境遇を跳ね返す強い力を育んで欲しいと、強く願う。  正しく成長するまで、朔羅は彼らを守らなければと改めて強く心に誓った。 「二人とも、そろそろ帰らないとおやつなくなるんじゃないのか」  木枯らしをものともしない少年達を心配し、朔羅が諭すように声をかけた。 「えー、もう? せっかく枯葉集めたのに。あ、でもこの前、さくらが作ってくれたぜんざいおいしかった。オレあれがまた食べたい」  太陽のように輝く笑顔で桜介が言う。そんな彼もまた、大人の勝手でネグレクトと言う虐待を受け、カナリア園にやって来た一人だった。  幼く健気でか弱い子どもを無下にする人間が許せない。その相手が親なら尚のことだ。  朔羅の胸には、今でも怒りと悲しみがこびり付いている。 「また作るよ、みんなで一緒に食べよう」  朔羅の言葉にコクリと頷く桔平。大人の些細な言葉や態度で傷付く脆い存在。彼ら以外の子ども達もみんな、大人から無情な扱いを受けて施設にやって来た。  カナリア園は無慈悲な人間から、小さな命を守るために作られた場所だったのだ。 「桜介、桔平、ちょっとおいで」  鼻の頭を真っ赤にしている二人を朔羅は手招きした。 「何、さくら」  冷たくなった小さな二人の手を握りしめ、朔羅は小さな手のひらに何かを握らせた。 「あっ、温っかい! カイロだ。な、桔平。温っかいな」 「うん……」  凍えていた頬がカイロで赤みを蘇らせる。子供たちのたわいもない変化も朔羅には喜びだった。 「もう雨降りそうだから二人は帰りな。風邪ひくと大変だから」  二人の頭をそっと撫で、朔羅は微笑んだ。 「うん、わかった。あーでも雨じゃなくて雪ならいいのにな」  空を見上げ、残念そうに桜介がボヤく。 「雪降って欲しいのか? もっと寒くなるよ」 「だってさ、雪降ったら雪だるま作ったり、雪合戦したりできるじゃん。な、桔平」 「でも……雪たくさん降ったら滑るよ。桜介ドジたから」  ポツリと呟いた桔平のセリフと、真剣に心配する表情がツボにハマり、朔羅と桜介は思いっきり吹き出してしまった。 「ボク何かおかしかった……?」  キョトンとした桔平の顔がまた笑いを誘い、二人はお腹を抱えて爆笑した。 「もー、桔平最高!」  朔羅の言葉に桜介も涙目でコクコクと頷く。 「桔平が笑わせるから、お腹痛いじゃん」 「さあ、たくさん笑ってお腹空いたろ? 本当に帰らないと、弥生さんに叱られるぞ」 「うん! わかった。桔平帰ろ! じゃあな、さくら」  小さな手と手を取り合うと、朔羅に手を振りながら、二人は中庭から去って行った。  彼らの背中を見守りながら、朔羅は腹の底から沸々と湧き出てくる熱い血潮を感じていた。  親を選ぶことのできない命を簡単に捨てる。痛めつけられても無抵抗で、親を恨むどころか愛を乞う幼い命。  そして彼らを盾に、穢らわしいことを朔羅へ要求してくる金の亡者達。  二人を見送りながら朔羅は唇を硬く閉じ、爪を食い込ませるほど手のひらを硬く握り締めていた。
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