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 永尊寺の麓に建つ絵本に出てくるような建物。  唐茶(からちゃ)色の鱗屋根に太陽熱が加わり、溶けた雪がキラキラと輝いている。軒下には干し柿がぶら下がり、雫を避けるように揺れていた。  垣根に囲まれた広々とした庭には子ども達の楽しげな姿が見え、朔羅は無邪気な声に耳を傾けていた。  柵に取り付けてある板には、温かさを感じる手書きの文字で、『カナリア園』と描いてある。  弥生が描いたのか、お手製の看板が風に揺れた時、背中に人の気配がして朔羅は振り返った。 「さく……ら……だよな。俺だよ、柾貴(まさき)唯志(ただし)だよ」  突然目の前に現れた存在に瞠目し、朔羅は時間が止まったように動けずにいた。 「朔羅……俺、俺だ……よ。もう……忘れちまったのか……」 「た……だし……」  口にした名前が震えた。  目の前でこちらを見ている男は、生まれて初めて好きになった人。初めて想いを通じ合った人で、全てをささげたいと思った相手だ。忘れるはずがない。  短く切り揃え、清潔そうな髪型。切長で凛々しい二重瞼に、太陽の欠片のような眸。全部、朔羅が好きだった頃の面影を持った唯志だった。 「朔羅、会いたかった……。俺、ずっと——」  嬉しそうな顔をして差し伸べてくるその手を、朔羅は冷たく払い除けた。 「あ、ご、ごめん。つい……」 「あ、いや……」    思わず視線を背けてしまい、頭の中で後悔と諦めがせめぎ合った。  もう二度と会うこともない、そう思っていた相手が目の前にいる。これ以上ない悲しみと切なさが朔羅の心を激しく揺さぶってきた。  なぜここへ戻ってきた——? 聞きたいけれど口にすることができない。  甘い声で気軽に名前なんて呼ばないで欲しいっ。覚えてるかなんて……聞かないで欲しい。  どんな別れ方をしたのか、唯志はもう忘れてしまったというのか。  様々な言葉が頭の中に浮かんでは消え、唇まで到達させることができない。  朔羅が逡巡していると、小さな足音と、はしゃぐ声が聞こえてきた。 「わーっ! 桔平ずりー。本当はオレの方が速いのに」 「今日はボクの方が速かった!」 「くそー、悔しいー」  状況に対応できないでいる朔羅の耳に、活発な少年二人の声が飛び込んできた。  「桜介……桔平……」  かけっこでの勝敗を競い合っていたのか、朔羅まで辿り着くと、二人が鼻頭を赤くさせて満面の笑みを向けてきた。 「ねえ、さくら。オレと桔平ってちょっとの差だった——あれ、お兄さん誰?」  白い息を吐き、桜介が無邪気に声をかけている。 「え? あ、俺? 俺は——」 「ねえ、ねえお兄さんってば、背高いね。さくらの友達?」  好奇心溢れる桜介の声を聞きながら、朔羅はダウンの裾を掴んで奥歯を噛み締めていた。唯志との関係に名前をつけるのは、友人でも恋人でも、もう違うのだから。 「ああ、ごめん、ごめん。俺は朔羅の幼馴染だよ。で、三学期からこの町の小学校の教育実習生なんだ」 「えっ! お兄さんが新しい先生? やった男の先生だ! 桔平よかったな」 「教育実習……」  喜ぶ二人を横目に、朔羅は複雑な心境で三人を見つめていた。  弥生が言っていた学生とは唯志のことだった……。  生まれ育った町に戻って実習を受ける。それはよく聞く話だ。けれど東京に住んでいる人間が、片田舎をわさわさ選ぶ理由がわからない。せっかく東京と言う、よりどりみどりな都会にいるのに。  生徒の人数も比べものにならないはずだ。なのに、唯志はなぜこんな田舎を選んだのだろう。  朔羅が黙ったままでいると、唯志が不意に幼い二人の前に屈んで、「何で男ならいいんだ?」と、目線を合わせて尋ねている。  「えー、だって男同士の方が遊ぶの楽しいじゃん。な、桔平」 「う、うん」 「それは光栄だな。じゃ頑張らないと、遊びも勉強も」  二重の片方を(しばた)かせて、二人に微笑んでいる。幼い頃にも見たことのある、自信がある時の唯志の癖だ。 「げ! 先生、いきなり勉強の話かよー」  苦い薬でも口にしたかのよう、顔を歪ませる桜介の言葉に、唯志が陶酔するように両目を閉じて空を仰いでいる。 「んー、『先生』か。いい響きだ。なあ、君もう一回呼んでみて」 「先生、『キミ』じゃなくて桜介だよ。梅原(うめはら)桜介(おうすけ)。梅の花に桜だよ」 「ごめん、ごめん。俺は柾貴唯志、よろしくな。桜介君は名前に『さくら』と『うめ』を持つなんて美しいね」 「あ、それさくらもよく言うよ。な、さくら」  突然話を振られ、一驚してしまった。 「あ、ああうん。だって本当にキレイだよ、桜介の名前。桔平の名前も花の漢字が入ってて美しいよね」  初対面の唯志を前に、ずっと黙ったままの桔平の頭を朔羅は優しく撫でた。  「そうか、きっぺい君。君の名前は『桔梗』の桔平なんだね。うん、確かにそれも美しい」  名前を褒められ、小さな頬が赤らんでいる。けれどその姿は一瞬で桜介の影へと隠れてしまった。 「朔羅は『さくら』だもんな。先生は名前に何にもないの?」 「俺? 俺の名前は……何にもないな、残念ながら」 「えー。先生も花の名前あればよかったのになー」  がっかりする桜介の背中を桔平が突き、何か耳打ちをしている。 「先生、桔平が先生の名前、上の名前も下の名前みたいだってさ」  桜介の背中に隠れながら、恥ずかしそうに桔平が顔だけ覗かせている。 「え? あ、そっか。『まさき』と『ただし』か。本当だね桔平君。でも俺も君達みたいな花の名前がよかったなー」  初めてみる大人、それだけで緊張する桔平の性質を悟ったのか、唯志が適度な距離を保ちながら表情筋を緩めている。おかげで桔平から、ちょっと硬めの笑顔が引き出されていた。  相変わらず相手が初対面であろうが、子どもであろうが、スッと懐に入って自然と仲良くなっている。唯志の得意技は健在だなと、朔羅は口元を綻ばして見ていた。  髪を撫でていた桔平が恥ずかしくなったのか、朔羅の足にしがみついてくるから、朔羅は答えるように小さな体を抱き締めた。 「あー、いいな。オレもオレも」  桜介が強引に朔羅の背中におぶさってくると、二人分の体重で潰されそうになった。 「ほら二人とも、買って来たジャガイモとニンジン弥生さんに渡しといで。カレー作れなくて困ってるよ」  かけっこではなく、お使いを頼まれていたことを思い出した桜介が、朔羅からエコバックを受け取ると、桔平の手をキュッと握り締めた。 「桔平行こ! 早くカレー食べたい」  手を繋いだままの二人が手を振り、とびきりの笑顔で去った後、残された二人にはとびきりの気まずさが漂っていた。  互いに言葉を切り出すことが出来ず、朔羅は俯いたままだった。 「……あの、さく——」  意を決して唯志が口火を切る。言葉の先を聞く自信のない朔羅は、 「あ、相変わらず、姫莎草(ひめくぐ)とって振り回してんだね」と、唯志が手にしていた草を見て言った。 「え? あ、これ……」  遮られた言葉を飲み込んだのか、唯志が手の中にある姫莎草を見つめている。 「昔からその草見ると、摘んで指揮棒みたいに振ってたよな」 「俺そんなことしてたっけ?」 「うん、してたよ……昔から」  周りに人影もなく、どこからかエナガの、ジュルルジュルルと鳴く声が微かに聞こえてくる。  静謐な山々の景色を見渡し、鳴き声を辿ろうしたけれど、本当は唯志と目を合わすのが怖かったからだ。 「……元気だったか」  静かに聞かれたから、朔羅も、うん……と、小さく返した。 「中三以来だから五……六年ぶりくらいか」 「……うん」  一言返したっきり、何も言えないし、聞けなかった。話しずぎるときっと、涙が出てくるのがわかっていたから。 「朔羅、あの俺さ——」 「も、もう戻らないと。住職に怒られる」 「あ、ああそっか——って住職? お前、今寺にいんの? あ、だからその作務衣(かっこう)か」  ダウンの隙間から覗くいかにもな服装に気付いた唯志が、離れていた間に何があったのか確かめようと唇を動かそうとしていた。 「……じゃ仕事あるから」  次の一手を出させないよう、その場から逃げるように朔羅は踵を返した。 「朔羅! 俺、お前に伝えたい事があるんだ」  遮るものが何もない静寂な道で、唯志の声だけが山間に響く。その声にさっきのエナガだろうか、鳴き声と一緒に羽ばたく音がし、朔羅の体はピクリと反応を見せた。 「俺はないよ、話すことは……何も」  ひと言だけ告げると、朔羅は寺へ続く石段を駆け上って行った。 「朔羅! また会いに来るからなっ」  駆け寄ってきそうな気配がしたから、朔羅は振り向くこともせず、一気に門まで駆け上がって境内へと逃げ込んだ。
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