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境内に戻った朔羅は、乱れた呼吸を整えながら、まだ夢を見ている感覚に陥っていた。
濡れ縁に腰を下ろし、膝を抱えてその中に顔を埋めると、教訓のように自分へと言い聞かせていた。喜ぶな、喜ぶなと……。
昔と変わらない、太陽のような笑顔に会えた喜びが朔羅を苦しめ、それ以上に嬉しさを突きつけてくる。
変わってない——いや、昔より背が高くなっていた。中学の頃よりずっと男らしく……不覚にも凛々しい姿に目を奪われ、封印していた感情が綻び始めているのがわかる。
忘れたくても忘れる事なんて出来ない。会いたくなかったのに、顔を見て、声を聞いて喜ぶ自分が腹ただしい……。
幼い頃に自覚し、募らせ、そして諦めた特別な想いは、本人を見ただけで簡単に浮上してくる。
名前を呼んでくれて嬉しかった。別れを告げられた過去を思い出しても、会えて泣きそうになった。
ただの友達として、久しぶり——なんて、気軽に声を掛ければよかったのかもしれない。けれど、自分の体は薄汚れてしまった。
——こんな体、恋人どころか親友でも、穢らわしいと思うに決まっている……。
虹彩が膨れ上がり、手の甲で抑えた途端、涙が指の隙間を伝っては地面に落ちた。
少しずつ日が傾く中、柱に体を預けたまま朔羅は幼かった日を思い出していた。
目を閉じると、唯志が瞼の裏で微笑んでいる。
それは愛しくてかけがえのない、大好きな宝物……。
『朔羅、お前、今日父ちゃんと母ちゃんいないんだろ? 俺の母ちゃんが言ってたぞ』
永尊寺の境内で、やっと見つけたクワガタを虫かごに入れながら、唯志が言った。
『うん。二人で『しゅっちょう』に行くんだって』
『じゃ、お前今日一人じゃん、寝れんの?』
虫かごの中で暴れるクワガタを覗きながら、朔羅は悲しげな表情を浮かべた。
『……うん』
『ご飯は?』
『カレーあるからチンして食べろって、母さんが』
今にも泣きそうなことが伝わったのか、唯志が沈む朔羅の頭をそっと優しく撫でてくれる。
『じゃあさ、今日俺ん家に泊まれよ。一人だけで留守番は怖いだろ。俺だってそんなの怖いもん』
『え、いいの!』
『母ちゃんが、朔羅がいいならそうしろって』
夏の太陽のように、輝く笑顔で唯志が微笑む。
『い、行きたい!』
『じゃ、決まりだな。今日はご飯も風呂も一緒だ』
唯志の言葉に数分前にいた泣き虫はどこかへ行き、代わりに安堵したような笑顔が朔羅から生まれた。
『……よかった。俺怖がりだから、今日寝れるかなって考えてたんだ。だから誘ってくれて嬉しい。ありがと、唯志』
眸と声を喜びで震わせると、勝手に涙が出てこようとした。気付いた唯志が、ポケットから出したハンカチで拭ってくれる。
『もう帰るか、母ちゃんに朔羅が泊まるって言わないと』
『うん。ありがとう唯——うわっ』
前を歩く唯志の背中を慌てて追いかけ、境内の門で朔羅の足は段差に引っかかり、砂利の中へと豪快に転んで膝を擦りむいてしまった。
『大丈夫か、朔羅』
『だ、大丈夫……これくらい』
『膝から血が出てるじゃん。うわっ、これ風呂で染みるやつだ』
『えー』
朔羅が眉を八の字にさせていると、唯志に頭頂部をクシャリと撫でられた。
『俺がおぶってやるよ、ほら』
唯志が後ろを向くと、おぶされと背中を差し出してきた。
『ダ、ダメだよ、重いもん。俺、一人で歩けるから』
『平気だよ、俺は朔羅よりデカいんだし。それに毎朝走って鍛えてるから大丈夫だぞ』
背中に乗るよう促す動きを見せ、ほらと、朔羅を急かしてくる。
『で、でも…うわっ! た、唯志、危な——」
躊躇していると強引に背中へと乗せられ、朔羅をおぶったまま、唯志が軽快に階段を降りて行った。
『お前軽いな。ご飯ちゃんと食べてるか?』
『た、食べてるよ』
『本当か? 今日は唐揚げだぞ。母ちゃんのは美味いんだ。満腹になるまで食えよ』
『ま、満腹? 困るよ……』
『ハハハ、冗談、冗談。さあ、早く帰ろ』
首から虫かごをぶら下げ、唯志が勇しく先へと進んで行く。
晩夏の田舎道、寒蝉の細かく鈴を振るような声が聞こえる中、一つに折り重なった影が長く伸びていた……。
——あの日を境に、唯志への独占欲が増していったんだ……。
擦りむいた膝が治るのを待たずして、唯志の家で世話になる日は再び訪れ、多忙で留守がちだった朔羅の両親も、初めは柾貴家に恐縮していたが、気の良い唯志の両親は朔羅を不憫に思い、出張の度に快く自宅へと招いてくれた。
学校も風呂も、眠る時も、目覚めた朝も、いつも朔羅の側には唯志の笑顔があった。
小学校の門に続く桜並木、裏山の川ではしゃぐ水しぶき。柿色の空や、凍えそうな夜空の星達を眺めること。たくさんの思い出を、二人で寄り添って何度も経験した。
輝いていた毎日には唯志が必ずいて、その一瞬一瞬は朔羅にとって何にも変え難い宝物のようだった。
別れを告げられるまでは……。
ほろ苦い思い出がチラつき、朔羅は払拭するようかぶりを振った。
「今更、どうして帰ってきたんだ……」
「誰が帰ってきた」
頭の上から聞き慣れた声がし、朔羅は慌てて見上げた。
「か、郭純さん。すいません、すぐ夕食の用意をします」
郭純の視線から逃げるよう、朔羅はその場を去ろうとした。
「まだ質問には答えてないだろう」
声の質は変わらない、なのに命令されているように聞こえ、朔羅は拘束されたようにその場に固まった。
「す、すいま——」
「柾貴が戻ったか」
「ど、どうしてそれを……」
「教育実習生としてこの町に戻って来たんだろ。みんな知ってる、小さな町だからな」
「そう……でしたか」
「小さい頃はお前とここでよく遊んでいただろ。早速会ったのか」
「……はい。たまたまカナリア園で」
「何か話したのか」
「いえ、特には。挨拶程度です……」
「思い出話をするのは構わないが、深入りしない事だな」
「ど、どうしてですか」
朔羅の問いかけに郭純の口角は上がり、不敵な冷嘲を生み出した。
「お前はあんなことをする人間だと、柾貴に知られてもいいのか」
「あんなこ……と」
突きつけられた言葉が、棚倉との夜を蘇らせた。
「何も持たないお前は寺を離れることはできない。分かっているだろう」
郭純の言葉に、か細い体は小刻みに震えた。
そうだった。自分には何もない。ここで生きていくしか術はないのだ。
夢見るのも、願いを祈ることさえも許されない身なのだ。
「……ちゃんと理解してます」
「ならいい。それと夕食の支度はしなくていい、すぐこの場所に行くように。棚倉氏がお呼びだそうだ」
名前を聞くだけで身震いする、そんな相手とまた会うのかと、朔羅は眉間にシワを生んだ。
逃げることも抗うことが出来ない手は、差し出されたメモを受け取っていた。
「あの、鉢須賀様はこの事を——」
「承知の上だ。もう少ししたら迎えの車が来る、早く支度をしなさい。法衣は——」
「黒……ですよね」
「そうだ。随分と察しが良くなったな。それと出かける前に夕刊を持って来なさい」
「わかり……ました」
濡れ縁から立ち上がると軽く会釈し、朔羅は重い足取りで郭純の前から去った。
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