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「やあ朔羅、久しぶりだね元気だったかい?」  メモにあったホテルの部屋に着いた朔羅は、棚倉の笑顔から逃げるよう、「……こんばんは……」と一言だけ言って会釈をした。 「他人行儀だな。弥勒(みろく)って呼んでよ」  目線を合わさないことで拒絶を見せても、棚倉は動じない。  朔羅の心情などどうでもいいんだと、お前はやることだけすればいいんだと思わせてくる。それを証拠に拒む朔羅の背中をぐいぐい押して、部屋の奥へと乱暴に押し込まれた。  ハイクラスなホテルだけあり、玄関から部屋の中まで床は大理石でできており、鏡のように姿を映してくる。豪華さに戸惑いながら先へ進むと、白を基調としたリビングが広がり、絢爛(けんらん)さに息を呑んだ。  黒で統一された家具が際立ち、その中でも存在感のある皮張りのソファに目をやると、一人の男が寝そべっているのが見えた。 「誰がつけたんだか『みろく』なんて名前。そんなの呼びたくないよな、お坊さん」  皮張りの擦れる音と同時に声が聞こえ、むくりと男が起き上がると、朔羅の方を向いて手のひらをはためかせてきた。 「え、えっと……」  棚倉だけだと思っていた朔羅は嫌な予感がし、咄嗟に足袋を後退させていた。 「(じん)。お前はまたくだらない事を言う」  法衣の胸元を握り締め、全身を警戒させながら、朔羅は二人の男のやり取りを睨むように凝視していた。 「かわいいー。震えちゃって子猫みたいだねー」  仁と呼ばれた男が肩まで伸びた髪をかき上げながら、朔羅の方へゆっくり近付いてくる。  細身の体にあつらえられたような黒いデニムと、白く浮き出る鎖骨が映えるシャツ。その姿はモデルさながらの美しさで、もしや芸能人ではとたじろいでしまった。  朔羅が思考を張り巡らしていると、仁が口づけでもするかのよう顔を近づけてきた。強引に顎を捉えられると、品定めするかのよう何度も顔を左右に揺さぶられる。 「や、やめて下さい」  仁の手を払い除け、法衣を翻しながら朔羅はテーブルの影に素早く隠れた。 「うわ、本当に猫みたいだ」 「いい加減にしろ、仁。朔羅、こいつは南斗(なんと)銀行の三男坊で、相馬(そうま)(じん)って言う、親に寄生して生きている出来損ないの男だ」 「寄生って……酷い言い方だな弥勒、彼が変に思うだろ。初めましてお坊さん。俺、相馬仁、三十五歳。よろしくな」  悪態を突かれてもそれを軽く受け流す飄々とした態度に、朔羅は訝しげな気持ちを顔全面に出していた。 「朔羅、君は今夜はこの仁と過ごしてもらうよ」 「え!」  棚倉の指し示す指先を辿ると、ペットボトルを口にしている仁が片目を瞬かせてきた。 「本当は僕も朔羅を独り占めしたいんだけれど、お金をたくさん持ってる人達からぜひ君をって要望があってさ、そうもいかなくなったんだよ」  棚倉の言葉の意図が不本意にも理解でき、朔羅は恐怖で絶句した。  あの悍ましい夜に棚倉が言った言葉。それが耳鳴りのように脳を揺らし、あの日は始まりに過ぎなかったのだと突きつけられた。 「朔羅は今夜、僕のかわいい子猫ちゃんになるんだよ」  和やかに笑う仁を不気味に思い、咄嗟に踵を返した体は、無意識にドアへと向かっていた。 「いいのかな帰っても。それとも朔羅は、施設の子ども達が泣くのを見たいのかな。かわいそうにね、あの子達。どうなるんだろうな、朔羅がこのまま帰ってしまうと」  棚倉の声が朔羅の進む足を止めた。  神経がピリピリしているせいか、後ろを振り返らなくても、棚倉がどんな顔をしているのかわかる。  脅迫とも取れる棚倉の言葉は、足元からずぶずぶと泥濘に引きすり込んでくる。水かさはもう胸にまで達し、もがいても沼から出ることはできない。  子ども達を盾にされる度に、従順するしか道はないと思い知らされる。   何よりも脅威なのは、棚倉の背後で牛耳っている鉢須賀がいることだった。 「おいおい。そんな言い方するなよ弥勒。可哀想に震えてるじゃん。もうお前帰れば」 「わかった、わかった。じゃ、僕は先に帰るよ。仁、さっき話した件、お父上やお兄様方に話を通しといてくれよ」 「はいはい」  手のひらだけで返事をする仁をよそに、「じゃあね」と棚倉の手は朔羅の髪を愛おしそうに触れて去っていく。  権力者から受ける些細な仕草でさえも、甘んじて受け入れるしかない。  奥歯を噛み締め耐えていても、ちぎれるほど唇を噛み締めても、朔羅には何の力もないのだ。 「さあ、邪魔ものはいなくなった。朔羅、こっちおいで。このチーズ美味いよ」  テーブルの上に置かれた料理を差し出す仁を、なけなしの気力で睨んだ。  部屋に入った時から崩さない彼の和かな雰囲気は、棚倉とはまた違ったタイプの人間に思える。  笑顔が豹変し、いつ牙を剥くかもしれない。欲望のためならちっぽけな人間が壊れようが、彼らにはどうでもいいことなのだ。  朔羅の警戒をよそに、デニムの長い足を組み変え、鼻歌まじりに柔らかそうな髪を耳に沿わせている。  法衣の裾を握りしめたまま立ち竦んでいると再び手招きされ、隣に座るように指示された。  このまま彼を交わし、後ろにあるドアを開けてここから逃げたい。けれど桜介達の顔を思い浮かべると、心に反して体は引き寄せられるよう、仁の隣へと腰を下ろしていた。 「朔羅はワイン好き? お酒飲める歳だよね。いくつだっけ?」 「二十一になります……」  差し出されたワイングラスを受け取り、朔羅は揺れる赤い水面だけを見ていた。 「二十一か、若いね。だからお肌もツルツルモチモチだ」  言いながら仁が頬を摘んだり撫でたりしながら、「柔らかいねー」だの「気持ちいいな」と、朔羅の感触を楽しんでいる。 「あ、あの相馬様……これはいつまで続くのでしょうか」 「だって朔羅のほっぺた、柔らかくて気持ちいいんだよ。ずっと触ってたいな。あー癒されるぅ」  朔羅の想像する、『行為』が一向に始まらない。  眉目秀麗の男は、恋人にせがむよう肩に持たれたり、膝枕を要求したりと甘えるだけだ。 「そ、相馬様……。今日って……その……」 「仁って呼んでよ、朔羅。ほら、サンハイ!」  絹のような髪をかき上げると、ふわりといい匂いがした。オレンジのような、ライムのような清々しい香り。緊張をほぐしてくれる芳しい香りと微笑みに、朔羅の心からいつのまにか怯えが消えていた。 「じ……」 「じ?」 「じ……仁……様」  物怖じする朔羅がイジらしく見えたのか、仁が可愛いーと、いきなり抱き締めてきた。 「仁様っ!」  驚いて突き放そうとしても、仁が抱擁を解く気配はなく、可愛い、可愛いと何度も囁いてくる。とどめに啄むような唇が頬に触れてきた。 「仁さまっ! あ、あの……」 「ごめん。可愛くてつい。でもね、これ以上はしないよ」 「えっ……」  朔羅の頬にそっと触れてくる細い指先が、不安に潤む虹彩の縁を撫で、指の腹でそこを優しく数回往復してきた。 「棚倉が君にしたことや、させようとしてることに俺は興味ないからさ」 「させようと……それは——」 「君はまだちゃんと理解してないのかな。あのね朔羅、棚倉は君を男娼にして金持ちの(やから)の餌にしようとしてるんだ。俺もその内の一人だけどね」 「男娼……」  何となくは分かっていた。けれどその意味を知りたくないと、考えることを避けていた。意識すれば何もかも投げ出して、この町から逃げてしまいそうになる自分がいるからだ。 「詳しくは知らないけど、君の保護者? との密約なんだってさ。俺みたいな男が好きな金持ちに紹介して、棚倉が美味しい思いをする。朔羅はあいつが儲けるための撒き餌なんだよ」 「撒き餌……」  朔羅は目を伏せ、膝の上で作ったこぶしを硬く閉じた。 「朔羅は知らずにここへ来たの?」  仁の問いかけに朔羅は黙ったまま首を縦に振った。 「……こうすることが郭純さんへの恩返しですから。俺に出来るのはこんな事しか……」 「恩返し? その理由を聞いてもいいかな」  鼻先同士が触れ合うほどの距離で顔を覗かれ、朔羅は思わず視線を逸らしてしまった。 「……いえ。仁様にお聞かせするような話ではないので……」  グラスの水面(みなも)に目を伏せ、朔羅は口を閉ざした。  仁に話したところで、状況は今と何も変わらない。  虚脱感を漂わせた瞼を閉じると、オレンジの香りが濃くなり、同時に肩へと軽い重みを感じた。  視線を向けると、仁の頭頂部が肩の上にあった。  しなだれた首は、全身で朔羅に甘えるように擦り寄せている。 「じゃあ俺の話を聞いてもらおっかな」  朔羅の肩を抱き寄せると、仁が絵本の書き出しのように語り出す。 「むかし、むかし——って、まだみんな生きてるか。ゴホン、では仕切り直して。相馬家には三人の男兄弟がいました。一番上と二番目の兄は優秀で、末っ子の仁少年だけ出来が悪く、父親に愚息呼ばわりされていました。上の兄は父親の後継者、下の兄は政治家と言った、絵に描いたような経歴の兄弟でした」  明るく振る舞っていても、自分自身で卑下する仁の目は鈍色に曇り、一人膝を抱える小さな子どものような印象の眸をしていた。 「仁少年は成長しても愚息のままで、挙句、同性にしか興味がなく……ねえ、朔羅。もう普通に話していい? 物語風は疲れる」  自分から始めたくせに、飽きたら強制終了。自由奔放なのはいただけないけれど、仁のソレはどこか憎めない。朔羅はクスッと笑い、いいですよと答えた。 「じゃ、続きを。でね、高校の時に先輩とキスしてるの、母に見られたんだ。相手が男だった事にショックを受けた母は、その場で倒れてしまったんだ。元々心臓の悪い人だったしね」 「仁……さま」 「で、そのまま入院して死んでしまった。親父はそれを俺のせいだと言うんだ。だから葬儀にも出してもらえなかったんだよなぁ」 「そ、そんな! 親子なのに——」 「まあ、悲しかったけど俺が殺したようなもんだからな」  顎までの髪が仁の表情を隠し、寄りかかる肩越しに擦れた声が振動で伝わる。耳へと音波のように浸透し、朔羅は仁の表情を確認しようと身動(みじろ)いだけれど、軽口でカモフラージュした心を覗き見するような気がして、顔を見ることはしなかった。 「初対面なのに暗い話しちゃった、ごめんね、朔羅」 「い、いえ。すいません。俺、なんて言えばいいか……」  どんな言葉が相応しいのか分からず、朔羅は眉根を寄せるだけだった。 「優しいね、朔羅。でも俺は君の方が気がかりだ。棚倉から聞いてたからね」  ここへ来た本来の目的を一瞬でも忘れていた朔羅の耳に、鉢須賀の杖の音が聞こえた気がした。 「ねえ、他に方法はないのかい? きみがこんなことをしないでいられる方法って」 「……分かりません。でも俺には何の力も知識もないから。この町で恩を返すにはこうするしか。それに——」  それにカナリア園の子ども達の未来、それを左右するのは自分の行動次第だと棚倉が言っていた。彼の企みは、鉢須賀の命令と同義語なのだ。どうやってもそれには抗えない。逆らえば、恩を返すどころか、永尊寺を潰されてしまうかもしれない。  それほど、鉢須賀には計り知れない力があるのだ。 「朔羅は住職さんにどんな恩があるんだ?」 「……仁様、俺なんかの話に興味あるんですか」 「あるある! 修行僧が恩返しのために身を売るなんて、小説のネタになりそうじゃん」  明け透けな仁の言葉に、苦笑しながらも朔羅はゆっくり口を開いた。  「……俺が中三の時、両親を事故で亡くしました。他に親戚もなく、知らない町の施設に行くしかないのを、郭純さんが引き取ってくれたんです」 「それはお気の毒だったね。辛かったでしょ」  背中に添えられた手のひらの温かさが、じんわり伝わってくる。けれど所詮、彼も自分を慰み者にする側の人間だ。それを忘れてはいけないと、朔羅は自分に言い聞かせた。 「郭純さんには感謝しかありません。他人の俺を高校まで行かせてくれましたから 「だから恩返しか。でもそれで朔羅自身を差し出すのは——」 「高校を卒業した今も寺で働けて、俺に帰る場所を作ってくれました。だから——」 「だから?」 「いえ、これでいいんです。じゃないと——」  突いて出ようとした言葉を両手で閉じ込め、朔羅は隠れるように仁に背中を向けた。 「じゃないとって何? 他に何かあるのか」  朔羅は両肩を掴まれ、仁の方へと強引に向きを変えられた。 「す、すいません。何でもないんです」 「ダメだよ、ちゃんと全部話して」  峻烈(しゅんれつ)に問いただしてくる仁の視線から(のが)れるよう、再び背中を向け、肩に置かれた手を振り解こうとした。   「すいません、本当に何でもない——」  言いかけた時、急に立ち上がった仁が床に跪くと手を取られ、そのまま自身の額に当ててかしづいてきた。  忠誠を誓う家臣のように。 「大丈夫、俺はこう見えて口は堅いんだ。それに朔羅を構うのは俺の気まぐれだ。家族から必要とされない人間は、毎日やることもなくて暇だしね」 「でも……今日会ったばかりの俺なんかに」  仁の手が頬に触れてくる。指先から放つ温もりが、真綿に包まれるように思えた。  初対面なのに、仁からの優しさが心のこもったものだとわかる。でもこの手に縋るには、あまりにも住む世界がかけ離れている。彼が言う通り気まぐれなら、頼った後に傷つくのは自分なのだ。 「言っただろ、俺は暇だから朔羅の相談相手になるだけだよ」  両腕を頭の後ろで組み莞爾(かんじ)を向ける仁が、朔羅の横に戻ってきた。  何処か浮世離れしたこの男に胸の内を吐き出すことで、少しは気が紛れるのかなと、躊躇いながらも朔羅は唇を開いた。 「……寺の隣にカナリア園って言う養護施設があって、幼い子ども達がそこで暮らしています。でも永尊寺と同様に裕福ではないから、鉢須賀様に援助して貰ってるんです。郭純さんは、そのことできっと鉢須賀様に頭が上がらないんだと思います」 「ふーん。でも寺が施設を運営してるわけじゃないでしょう? 社会福祉法人とかが運営者なら、資金はあるんじゃないのかな。それに鉢須賀って弥勒と仲良いよね。もしかして君を弥勒に紹介したのは鉢須賀? で、鉢須賀に君を差し出したのが住職ってことか」 「……よく分かりますね。カナリア園は鉢須賀様が設立の際に、陣頭指揮を取ったと聞いてます。難しいことはわかりませんけど、あの施設はきっと鉢須賀様が、子ども達のために作ったんだと思います」 「まあ、それが本当なら、素晴らしい志しだと思うけど。でもさ、君も大人なんだしあの町を出てもいいんじゃないのか? 恩なんて外からいくらでも返せるし。それとも、町を出れない理由が他にあるとか?」  この町を出ること、それは過去に何度も考えた。だが、朔羅を支える幸せだった思い出がこの地に留めさせた。その結果、予期せぬ事態を生んでしまい自業自得なのも、自分が一番分かっている……。わかっていて、ここを離れる選択肢は、今も朔羅には生まれなかった。 「……郭純さんの願いは寺を守ることです。だから鉢須賀様に従えば寺を守ることができる。それはカナリア園を守ることにも繋がるんです。子ども達が二度と不幸にならず、幸せに暮らせるように……」 「そんなのおかしい。維持するために、朔羅一人が犠牲になることはないよ。それに養護施設なんて他にいくらでも——」 「仁様、ネグレクトって知ってますよね?」 「あ、ああもちろん。親が子どもの世話を放棄するんだろ?」 「あの施設にいる子どもは、親がいない子どもじゃないんです。親はいてもネグレクトや虐待された子達がほとんどなんですよ」 「え?」 「鉢須賀様が、親に恵まれない子ども達を保護するためにあの園を作った。それを郭純さんが手伝ってる。俺はそう聞いてます」 「保護……」 「はい。保護して、心を癒して、普通の子どものように生きていくための場所を作った。それは尊敬する、素晴らしいことです」 「良い事……に思える。でもそれで朔羅だけが代償を払うのはおかしいよ。資金を調達する方法なんて他にもあるのに」  さっきまでの柔らかい空気は消え、仁の眉間にはシワが深く刻まれている。眼差しは青く揺らめく焔のようで、どこか遠くを灯しているように見えた。 「それでも成果はあって、何人かの子どもは、家族を欲してる家庭に引き取られました。つい先日も五歳の女の子が、中国人のご夫婦のもとへ養子へ行ったんです。その子——美咲ちゃんが可愛いく着飾ったのを見て、俺、本当によかったって思ったから……」  嬉しそうに話しはしても、その代償は自分の身を捧げること。  体は悍ましい行為を忘れてはくれず、今日、仁を回避しても、この先に控える悪夢のような行為から逃げることは出来ないのだ……。
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