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「さくらー、掃き掃除終わったよ」
ホウキと同じ目線になった体を翻し、本堂に向かって桜介が声を張り上げている。
「声でかいよ、桜介」
草履を履き、軽快な砂利の音をさせながら朔羅は甘く叱った。
「だって早く掃除終わらせなきゃ、準備する時間がなくなるだろ」
「そっか。でもありがとな、毎日桜介が手伝ってくれるから本当に助かるよ」
頭を撫でる距離も一年前より近くなり、桜介の成長を朔羅は心から嬉しく思った。
「住職のお墓も掃除しておいたよ。あと桔平のお墓も」
太陽のような笑顔が、鼻の下を擦り嬉しそうに報告してくれた。
「ありがとう、じゃ一緒に手を合わせようか」
朔羅は桜介の手を握り、無縁墓の隅にたてた二つの小さな墓石に向かった。
郭純の体が癌に蝕まれていたのを知ったのは、一年前の事件後だった。
その時はもう、手の施しようのない状態だった。
彼が時折乾いた咳をし、食事の量も減っていた異変に気付けなかったことに悔しい思いをした。積み重なる病魔の進行を知っていたから、鉢須賀を道連れにしようとしていたのかもしれない。
暗い気持ちになったけれど、ずっと側にいた桜介の存在に朔羅は救われ、今日まで過ごしてこれたのだ。
「住職、桔平、おはようございます。今日も勉強がんばります」
無邪気な瞳が閉じられ、小さな体から真摯な心が滲み出ている。
朝日に煌めいた祈る横顔を横目に、朔羅は二人で何とか過ごしている報告をしていた。まだ寺のことは満足に出来ないけれど、懸命に務めて寺を守っていくと。それに——。
「あ、そうだ桔平! 今日、柾貴先生が帰ってくるんだ。一応報告しとくな」
伝えたい言葉を桜介に先こされ、朔羅は口元を綻ばせた。
凄惨な出来事から一年が経とうとしてる初春に、待ち侘びた人が帰ってくる。けれど、過去の別れが朔羅を不安にさせた。
——本当に帰って来るのだろうか……。
思いを閉じ込めて生きて行くしかなかった日々で、育ってしまったのは苦痛を経験した心だけだった。
自然と危惧の念に囚われ、もしも帰って来なくても恨むことも憎むこともしないと、一年前に離れた時から覚悟はしていた。
人の心を縛り付けることなど出来ないのだからと、大きな傷にならないよう、別れを何度もシミュレーションした。
遠くそびえる山の雪解けを眺めながら、朔羅は自分の弱い心に何度も言い聞かせていた。
「憎みあった果てには、何も生まれない……」
口を突いてでた言葉の意味が分からず、桜介がキョトンとしている。少しの惑う心が伝わったのか、桜介の手のひらが朔羅の手を優しく握り締めてくれた。
「さくら、今日オレが卵焼くよ」
彼の言葉と温もりで慰められ、優しさと気遣いと与えてもらった心強さに心から感謝した。
「桜介の卵焼き、俺好きなんだよな。楽しみー」
無邪気に会話をする二人の側を、突然の突風が巻き上がり、境内の中を風が駆け巡ると雪柳の蕾を揺らしていった。
「うわっ! すごい風! 春一番かな、桜介、目閉じてなよ。砂埃が入っちゃう——」
庇うように桜介を抱き寄せると、縹渺とした視界に人影が見えた。
「さくら、もう目開けてもいい? ……ねえさくら?」
桜介に返事も出来ず朔羅の視線は、焦点を絞り込むよう門の方を見つめていた。境内に舞う風が周りの小枝達を揺らし、景色の向こうにいる輪郭を浮かび上がらせてくる。
門から近付いてくる存在を自分自身に問うより早く、朔羅の心は喜びに震えていた。
「た——」
名前を口にするのが怖くなり、唇を閉じてしまった。
「あ、先生! 柾貴先生だ! さくら、先生だよ——」
作務衣の裾を引っ張られると、見下ろした桜介の頬にポツリと雫を落としてしまった。
「……った……だ……」
「朔羅、泣くなって。先生が帰ってきたんだぞ」
虹彩を滲ませながら、桜介の言葉に何度も何度も頷いた。
声にすると涙は視界を閉ざし、愛しい姿の輪郭を滲ませるから。
「朔羅ー、桜介ー」
リュックを背負った唯志が、風の中で大きく両手を振りながら近づいて来る。
桜介が無邪気にかけよってしまっても、朔羅は両手で顔を覆い、その場を動けずにいた。
「先生ー、おかえりー」
「ただいま」
声が近づき、唯志の熱が風と共に朔羅の元へ運ばれてきた。
日々思いを馳せて来た愛しい存在を前に、体中で喜びを実感した。
大好きな人の息遣いや体温を感じ、手を伸ばせば掴める距離が憂苦だった心に多幸感を与えてくれる。
「先生どうしよう、さくらが泣き止まない」
心配げに見上げる桜介の側で、顔を覆った手の隙間からポタポタと雫を溢し、肩を震わせていた。
「朔羅、ただいま。これらかよろしく。桜介もな」
凛とした声で唯志が言ったかと思うと、一年前と同じように両手で二人は包み込まれ、大きな手のひらは二つの体を抱き締めてくれた。
「お……かえ……り、ただしぃ」
積雪な気持ちを声に載せると、悲しみは陽だまりで清らかに溶けていく。
受け止めてくれる腕を握り締め、朔羅は堰を切ったように泣いた。
「もうずっと一緒だからな……」
込められた手の力や温もりで、体と心全てに幸せが満ちていく。
不安だった日々も、唯志の言葉だけを頼りに奇跡を祈っていた。
焦がれていた瞬間を今、この手で実感し、言葉にならない喜びを全身で受け止めていた。
「もー、だから苦しいんだってば。先生、さくらもー」
いつの間にか春一番は通り過ぎ、晴わたる境内には穏やかな風で揺れる雪柳と、こぼれ落ちる陽だまりが三人を柔らかく包んでいた。
了

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