最終章

3/7
前へ
/46ページ
次へ
 大学の講義やバイト中、八十達と過ごしている時も、食事も、眠る瞬間も。ずっと、ずっと桜介は同じことばかりを考えていた。  見送りに行った時、梗一に聞いてみようか。いや、それはできない。  生きていたかもと言う、奇跡を知っただけでも十分じゃないか。  ぐるぐる考えていると、あっという間に二人が京都へ行ってしまう日を迎えてしまった。  送られてきた地図を頼りに来てみると、遥子が言っていた通り、一級河川の広い川沿いは見晴らしがよく、川辺にはジョギングする人、犬の散歩をする人がチラホラ見える。  早朝の時間だと、広いこの場所は貸切状態だ。  土手に佇んで眼下を見ると、散歩中の老夫婦の横を小学生の少年がニ人、ランドセルを揺らしながら走り去って行くのが見えた。  早い時間に学校へ行くんだなと、感心していると、小学校時代の自分達が蘇ってきた。  ——俺も桔平とよく一緒に川で遊んだな。秘密基地なんかも作って……。  懐古に浸っていると、後ろから車の音が聞こえた。振り返ると、見慣れた車種が桜介を通り過ぎて少し先で停車した。  真っ直ぐ前を向いて運転をしていた梗一の横顔は、桜介のことなど眼中にないように見え、寂しくなって俯いてしまった。  直視できずに地面ばかり見ていると、車のドアが開く音に反応してパッと顔を上げた。  車から降り立った人物が朝日を背に立つ姿に、桜介は言葉をなくした。  ──梗一……桔平……。  前方からゆっくりと歩み寄る梗一を捉えると、無意識にデニムを掴んで覚悟した。  込み上げてくる涙を必死で堪えていると、「……桜介」と、名前を呟かれた。それがきっかけとなり、耐えていた表情筋は限界に達して涙が一雫、頬を伝って落ちていく。  梗一が近付いて来ると、桜介は手の甲で目頭を乱暴に拭った。  涙なんか見せられないと、必死で平静を装った。 「桜介。見送りに来てくれたんだってな、ありがとう、電話が最後にならなくてよかった。顔を見てちゃんとお別れがしたかったから……」  変わらない優しい微笑みに対し、桜介は首を横に振ることで精一杯だった。  よかった泣いていたのはバレていない。ただ、見送りに来いと言った遥子が車から降りて来ないのが気になった。 「梗一。遥子さんは? 彼女に時間とこの場所を教えてもらったんだ」 「……遥子さんは、もう桜介と二人で話して十分だから、今度は俺の番だって。二人でゆっくり話してきたらって言われたよ」 「……そっか。でも、俺も電話じゃなくて、梗一の顔を見れてよかったよ。最後……だから。それに会って話したかったし……」 「は……なし?」  目の前まで梗一が辿り着いた途端、体が発酵しそうなほど熱を帯びた。  生まれたての空気を介してこの秘めている思いが、梗一に伝わってしまうのではと焦る。  悟られないよう、半歩分後ろへ下がって回避しようとしたのに、その分、梗一の足が一歩前に出た。  話があると言ったものの、『梗一が桔平なのか』と、聞くことができない。  短い質問は重過ぎて、唇が動かない。  それでも、もう一度顔を見たかったし、声を聞きたかった。  見送りに来て欲しいと言ってくれた遥子には感謝しかない。  戸惑いを滲ませていると、手を差し伸ばせば掴める距離に梗一がいた。  静かに微笑む顔は玲瓏で、紫がかった黒髪は風に撫でつけられなびいている。初夏の朝に相応しい爽やかな匂いが揺蕩い、やっぱり梗一は美しくてかっこいいなと思った。  雑談でも何でもいい。話題を絞り出そうとした時、梗一が先に口を開いた。 「……この河川敷、きれいだろ。遥子さんはこの景色が気に入って、近くの家を借りたんだ。でも、彼女はこの先、美しい景色を見れなくなるかもしれない。目の病気を抱えている遥子さんを、俺はひとりでは行かせられないから。だから、一緒に京都へ行くことを決めたんだ。それに——俺は雨宮の家に恩があるし……ね」  宣言のような、決意表明のような言葉を、真っ直ぐな目で見てくる梗一に言われた。  桜介は口をつぐんだままで、黙って聞いていた。   「親のいない俺が雨宮邸を出る話になった時、遥子さんが雨宮様に頼んでくれたんだ、自分の家庭教師になってもらうから、側に置いて欲しいと。俺のことをかわいそうだと言って、あの人は必死で頼んでくれたんだ。だから、俺は……遥子さんの目になる。そう……決めたんだ、恩返しになるかわからないけど……」  一気に言い終えた言葉は、これ以上もう、何も聞かないでくれと言っている気がした。  滔々(とうとう)と語られる梗一の言葉を聞いていると、桔平なのかと、確かめない方がいいと思えた。  梗一が進む未来に、友人としての自分はいない。梗一が歩む道を共にするのは遥子なのだ。その証拠に、さっきから梗一の語る言葉の節々で遥子への思いやりを感じる。  優しい梗一は、失明するかもしれない遥子をほっては置けない。  そんな状況で男の自分が告白しても、梗一は迷惑するだけだ。最後なのに、嫌な思いはさせたくない。困らせたくはない。  考えただけで泣きそうになったけれど、桜介は心を決めた。    ——もう、何も聞かない。何も言わない。本当に、これでさよなら……だ。  唇をギュッと噛み締め、迫り上がってくる嗚咽を必死で押さえ込んだ。  すると、不意に目の前に手のひらが差し出された。  握手かと思って手を差し出そうとしたら、梗一がパッと手を開いて、手のひらを上に向けた。  開いた梗一の手には、黒い小さな粒がひしめき合うように入っているビニール袋があった。 「これ……は?」  悲しみを押さえながら聞いてみると、「朝顔の種だよ」と、梗一が笑って答えてくれた。 「あさがお……」 「そう。去年の夏、桜介に助けられた、あの朝顔から出来た種だよ」  一年前に初めて出会った朝顔市。忘れられない夏を思い出し、潤む眸で梗一を見つめた。 「あの時の……」 「そう。朝顔は一年草だから、来年も花を咲かせるために種はできる。それを収穫したんだ。また朝顔を見たいし、それに桜介が助けてくれた朝顔だから……な」 「そう……か」 「ずっとこの先も、朝顔(この花)を咲かせたいから。次の年も、またその次も、花を咲かせて種を植える……よ」 「……うん」 「桜介には会えなくなるけれど、朝顔を見る度に思い出せる。満開で元気に咲いた花は、桜介みたいだもんな」  明るく言われた言葉は、嬉しいのに悲しい。でも、そう思ってくれるだけで幸せだと思おう。    身勝手な告白をしても、それが無駄なことなのはわかっている。  焦がれる想いを伝えても、きっと梗一の気持ちは変わらない。痛いほど、それがよくわかる。  話があると言ったくせに黙ったままの桜介に、温かな視線を注いでくれるから、甘えることにした。  何も言えずにいると、また目の前に手が差し出された。  朝顔の種はもう梗一のポケットに収まっていて、今度こそこの手に触れられる最後の機会なんだと覚悟して、握手に応える。  ゆっくりと手を差し伸ばし、梗一の手のひらを掴んだ。  長くて細い指先が手に触れると、とうとう堪えきれずに涙が溢れてしまった。  温かい手のひらと、少し冷えた指先を忘れないでいよう。  しっかりと覚えておくんだ、形も、温度も、伝えてくれた友情も。  数秒間、別れを惜しむと、どちらからともなく、二つの手は離れた。 「一年だけだったけど、桜介と出会えて幸せだった。ありがとう。……じゃあ、俺、行くよ……」 「……うん。俺も幸せ……だった。ありが……とう、きょう……いち。運転、気をつけろよ」  さんきゅうと言い、梗一は踵を返し、少し先に停めてある車へと──遥子の元へと、ゆっくり歩いて行った。 「朝顔……嬉しかったな……」  運転席へ乗り込む姿を見ながら、自分を励ますように呟いた。  去って行く姿を見るのは辛すぎて、来た道へとつま先を向けると、アクセルを踏み込む音を背中で聞いていた。  ——梗一、きょう——桔平。きっぺい……。  頭の中で二つの名前を繰り返し、梗一の……桔平の幸せを祈った。  桔平が『都倉梗一』とし生きていた。  確かめることはできなくても、生きていることが心から嬉しい。  でも、もっと……もっと……一緒にいたかった。離れたくなかった……。
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

58人が本棚に入れています
本棚に追加