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大学の講義やバイト中、八十達と過ごしている時も、食事も、眠る瞬間も。ずっと、ずっと桜介は同じことばかりを考えていた。
見送りに行った時、梗一に聞いてみようか。いや、それはできない。
生きていたかもと言う、奇跡を知っただけでも十分じゃないか。
ぐるぐる考えていると、あっという間に二人が京都へ行ってしまう日を迎えてしまった。
送られてきた地図を頼りに来てみると、遥子が言っていた通り、一級河川の広い川沿いは見晴らしがよく、川辺にはジョギングする人、犬の散歩をする人がチラホラ見える。
早朝の時間だと、広いこの場所は貸切状態だ。
土手に佇んで眼下を見ると、散歩中の老夫婦の横を小学生の少年がニ人、ランドセルを揺らしながら走り去って行くのが見えた。
早い時間に学校へ行くんだなと、感心していると、小学校時代の自分達が蘇ってきた。
——俺も桔平とよく一緒に川で遊んだな。秘密基地なんかも作って……。
懐古に浸っていると、後ろから車の音が聞こえた。振り返ると、見慣れた車種が桜介を通り過ぎて少し先で停車した。
真っ直ぐ前を向いて運転をしていた梗一の横顔は、桜介のことなど眼中にないように見え、寂しくなって俯いてしまった。
直視できずに地面ばかり見ていると、車のドアが開く音に反応してパッと顔を上げた。
車から降り立った人物が朝日を背に立つ姿に、桜介は言葉をなくした。
──梗一……桔平……。
前方からゆっくりと歩み寄る梗一を捉えると、無意識にデニムを掴んで覚悟した。
込み上げてくる涙を必死で堪えていると、「……桜介」と、名前を呟かれた。それがきっかけとなり、耐えていた表情筋は限界に達して涙が一雫、頬を伝って落ちていく。
梗一が近付いて来ると、桜介は手の甲で目頭を乱暴に拭った。
涙なんか見せられないと、必死で平静を装った。
「桜介。見送りに来てくれたんだってな、ありがとう、電話が最後にならなくてよかった。顔を見てちゃんとお別れがしたかったから……」
変わらない優しい微笑みに対し、桜介は首を横に振ることで精一杯だった。
よかった泣いていたのはバレていない。ただ、見送りに来いと言った遥子が車から降りて来ないのが気になった。
「梗一。遥子さんは? 彼女に時間とこの場所を教えてもらったんだ」
「……遥子さんは、もう桜介と二人で話して十分だから、今度は俺の番だって。二人でゆっくり話してきたらって言われたよ」
「……そっか。でも、俺も電話じゃなくて、梗一の顔を見れてよかったよ。最後……だから。それに会って話したかったし……」
「は……なし?」
目の前まで梗一が辿り着いた途端、体が発酵しそうなほど熱を帯びた。
生まれたての空気を介してこの秘めている思いが、梗一に伝わってしまうのではと焦る。
悟られないよう、半歩分後ろへ下がって回避しようとしたのに、その分、梗一の足が一歩前に出た。
話があると言ったものの、『梗一が桔平なのか』と、聞くことができない。
短い質問は重過ぎて、唇が動かない。
それでも、もう一度顔を見たかったし、声を聞きたかった。
見送りに来て欲しいと言ってくれた遥子には感謝しかない。
戸惑いを滲ませていると、手を差し伸ばせば掴める距離に梗一がいた。
静かに微笑む顔は玲瓏で、紫がかった黒髪は風に撫でつけられなびいている。初夏の朝に相応しい爽やかな匂いが揺蕩い、やっぱり梗一は美しくてかっこいいなと思った。
雑談でも何でもいい。話題を絞り出そうとした時、梗一が先に口を開いた。
「……この河川敷、きれいだろ。遥子さんはこの景色が気に入って、近くの家を借りたんだ。でも、彼女はこの先、美しい景色を見れなくなるかもしれない。目の病気を抱えている遥子さんを、俺はひとりでは行かせられないから。だから、一緒に京都へ行くことを決めたんだ。それに——俺は雨宮の家に恩があるし……ね」
宣言のような、決意表明のような言葉を、真っ直ぐな目で見てくる梗一に言われた。
桜介は口をつぐんだままで、黙って聞いていた。
「親のいない俺が雨宮邸を出る話になった時、遥子さんが雨宮様に頼んでくれたんだ、自分の家庭教師になってもらうから、側に置いて欲しいと。俺のことをかわいそうだと言って、あの人は必死で頼んでくれたんだ。だから、俺は……遥子さんの目になる。そう……決めたんだ、恩返しになるかわからないけど……」
一気に言い終えた言葉は、これ以上もう、何も聞かないでくれと言っている気がした。
滔々と語られる梗一の言葉を聞いていると、桔平なのかと、確かめない方がいいと思えた。
梗一が進む未来に、友人としての自分はいない。梗一が歩む道を共にするのは遥子なのだ。その証拠に、さっきから梗一の語る言葉の節々で遥子への思いやりを感じる。
優しい梗一は、失明するかもしれない遥子をほっては置けない。
そんな状況で男の自分が告白しても、梗一は迷惑するだけだ。最後なのに、嫌な思いはさせたくない。困らせたくはない。
考えただけで泣きそうになったけれど、桜介は心を決めた。
——もう、何も聞かない。何も言わない。本当に、これでさよなら……だ。
唇をギュッと噛み締め、迫り上がってくる嗚咽を必死で押さえ込んだ。
すると、不意に目の前に手のひらが差し出された。
握手かと思って手を差し出そうとしたら、梗一がパッと手を開いて、手のひらを上に向けた。
開いた梗一の手には、黒い小さな粒がひしめき合うように入っているビニール袋があった。
「これ……は?」
悲しみを押さえながら聞いてみると、「朝顔の種だよ」と、梗一が笑って答えてくれた。
「あさがお……」
「そう。去年の夏、桜介に助けられた、あの朝顔から出来た種だよ」
一年前に初めて出会った朝顔市。忘れられない夏を思い出し、潤む眸で梗一を見つめた。
「あの時の……」
「そう。朝顔は一年草だから、来年も花を咲かせるために種はできる。それを収穫したんだ。また朝顔を見たいし、それに桜介が助けてくれた朝顔だから……な」
「そう……か」
「ずっとこの先も、朝顔を咲かせたいから。次の年も、またその次も、花を咲かせて種を植える……よ」
「……うん」
「桜介には会えなくなるけれど、朝顔を見る度に思い出せる。満開で元気に咲いた花は、桜介みたいだもんな」
明るく言われた言葉は、嬉しいのに悲しい。でも、そう思ってくれるだけで幸せだと思おう。
身勝手な告白をしても、それが無駄なことなのはわかっている。
焦がれる想いを伝えても、きっと梗一の気持ちは変わらない。痛いほど、それがよくわかる。
話があると言ったくせに黙ったままの桜介に、温かな視線を注いでくれるから、甘えることにした。
何も言えずにいると、また目の前に手が差し出された。
朝顔の種はもう梗一のポケットに収まっていて、今度こそこの手に触れられる最後の機会なんだと覚悟して、握手に応える。
ゆっくりと手を差し伸ばし、梗一の手のひらを掴んだ。
長くて細い指先が手に触れると、とうとう堪えきれずに涙が溢れてしまった。
温かい手のひらと、少し冷えた指先を忘れないでいよう。
しっかりと覚えておくんだ、形も、温度も、伝えてくれた友情も。
数秒間、別れを惜しむと、どちらからともなく、二つの手は離れた。
「一年だけだったけど、桜介と出会えて幸せだった。ありがとう。……じゃあ、俺、行くよ……」
「……うん。俺も幸せ……だった。ありが……とう、きょう……いち。運転、気をつけろよ」
さんきゅうと言い、梗一は踵を返し、少し先に停めてある車へと──遥子の元へと、ゆっくり歩いて行った。
「朝顔……嬉しかったな……」
運転席へ乗り込む姿を見ながら、自分を励ますように呟いた。
去って行く姿を見るのは辛すぎて、来た道へとつま先を向けると、アクセルを踏み込む音を背中で聞いていた。
——梗一、きょう——桔平。きっぺい……。
頭の中で二つの名前を繰り返し、梗一の……桔平の幸せを祈った。
桔平が『都倉梗一』とし生きていた。
確かめることはできなくても、生きていることが心から嬉しい。
でも、もっと……もっと……一緒にいたかった。離れたくなかった……。
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