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「——い、おい! 桜介、これ三番さんに急ぎで」
張りのある声で呼ばれ、上の空で食器を洗っていた梅原桜介は泡まみれの皿を手から滑らせてしまった。
「す、すいません!」
厨房に鳴り響く皿の割れる音で、スタッフの視線が一斉に洗い場の桜介へと注がれる。
幸いにも金曜日の夜を陽気に過ごす店内は、食器の割れる音くらいではビクともせず、大勢の客の視線までは浴びずに済んだ。
「どうしたボーッとして。具合でも悪いのか?」
焦点の定らない桜介を心配し、千葉が焼き場から声をかけてくれた。
「だ、大丈夫です……すいません、これ三番ですね。すぐ持っていきます」
茶色みがかった前髪の奥から眸を右往左往させ、泡の付いたままの手で皿を受け取ろうとしたから、千葉がヒョイっと上に上げて皿を遠ざけられた。
「おいおい、どうした、どうした。いつもの愛くるしい顔が強張っているぞ。ん?」
コスパと接客が自慢の居酒屋『吾一』を切り盛りする千葉が、マシュマロでも摘むように頬をつねってきた。
こんな風に弄られてもいつもは笑顔で対応できるのに、今日はその余裕がない。
色味を失いかけた唇を微かに震わせながら、すいませんと、頭を下げた。
「俺が行きますよ」
心の一部を何処かに置いてきたような桜介から皿を引き受けてくれたのは、同じ大学に通う親友の南條八十だった。
片目を瞬かせ、颯爽と客席へ向かう八十の、スラリとした長身の背中を見送りながら、サンキュと言ったもののまだどこか呆けている。硬く握りしめたスポンジから泡が滴るのにも気付かないほどに。
「おい、調子悪いなら早退するか? 今日、人数足りてるし」
焼き鳥を盛り付けながら、千葉が気遣いを眉間のしわに表している。
「あ、いえ。平気です、ちょっと寝不足が続いただけなんで……」
「寝不足って課題か何かか? 大変だなぁ大学生も。けどあんま無理すんなよ、体調崩したら元の子もないからな」
大人な微笑みをくれる千葉に「ありがとうございます」と、硬い笑顔を返した。
坊主頭にタオルを巻き直し、程よく付いた筋肉の腕で包丁を手にする千葉が、無理すんなよと、強面にそぐわない柔らかな口調で言ってくれた。
ひと回り歳が違うこととサバサバした性格は、バイトが皿を一枚割ったことくらいじゃ動じない。気付かされた桜介は、いつもの明るい口調で「すいませんっしたっ」ともう一度頭を下げた。
寝不足なのは事実だったけれど、原因は課題のせいじゃない。
退路を断たれた小動物のような気分になったのは、さっき、千葉の手でさばかれていた、まだ血が付いていた生々しい食材を見たからだった。
居酒屋だから勝手に、ないだろうと思っていた生肉を捌く光景。
これまで平気だったテレビや映画でたまに目にする、手術や肉食動物が捕食するシーンはある日を境に目を背けたくなる事象に変わってしまった。
大学入学を機に、八十と一緒に探していたバイトの条件は、賄いが出る飲食店と、もう一つは生肉を店で扱わない店ということ。
入学して程なく見つけた吾一は、桜介と八十のアパートからも近く、大学から帰りに立ち寄れる好都合な店だった。
一般的なチェーン店の居酒屋をイメージして面接を受け、採用されたことに喜んだものの今日みたいに気分が悪くなったことが何度かある。
八十と一緒に働くのに都合の良かった焼肉屋も寿司屋も避け、ようやく見つけた居酒屋でまさか苦手な場面を見るとは夢にも思わなかったのだ。
けれど桜介はバイトを辞めようとは考えなかった。
我慢しても続けていたのは、八十と一緒と言うことと、店長である千葉の人柄がだった。
グロテクスな場面以外は、桜介にとって最高の職場なのだ。
「すいません千葉さん。溜まってた課題を夕べ一気に片付けたんで——。それより、さっき常連さんに出してた料理って——」
まな板の上で見た肉塊の正体を、恐る恐る聞いてみた。
「さっき? ああ、『もうかのホシ』のことか。あれは珍しいんだぜ、今朝仕入で市場に行った時見つけたんだ。今日のオススメはこれにすっかってな」
本日のおすすめと書かれた黒板を指差し、千葉が自慢げに言う。
「モウカノ……ホシ?」
耳慣れない名前に、桜介は首を傾げた。
「もうかってのはネズミザメの事だよ。で、ホシが心臓な。お前も食いたかったか?」
「い、いえ……」
桜介の問いかけで、千葉が思い出したように、心臓を捌いたまな板の汚れを流水で流している。まな板の上を滑る血液に混じって、コアグラや肉片が見え、ぬらぬらした固形物が流しに吸い込まれて行く様に、桜介は思わずえずきそうになってしまった。
「あれ? お前、血が苦手だったっけ? 何だ何だ、幼いのは顔だけじゃなく、心臓も子どもだったか」
顔を蒼白させる桜介を見ながら、千葉が冷やかすようにニヤついて言う。
彼の態度に反論する元気もなく、桜介は無言になったことで肯定を示すことになった。
「違いますよ、店長。桜介は血が苦手なんじゃなくて、臓器見るのが無理なんっすよ。な、桜介」
配膳から戻った八十に肩を組まれ、桜介が「うるさいな」と、バツの悪そうな顔をした。
「へー、そうだったのか。じゃ焼き鳥のハツなんて平気だったのか? 今までそんな素振り見たことなかったけどさ」
タイミング良く注文の入ったハツを掲げ、千葉が串焼きの準備をしながら見せびらかすように言ってくる。イタズラを仕掛ける小学生のように。
「鳥とか小さいのはまだ平気なんです。でも、さっきのモウ——」
「もうかのホシな」
見事な包丁さばきで、手際良く料理を仕上げてく千葉の手を見つめながら、桜介は気付かれないよう溜息を吐いた。
「その……さっきのは大きい……じゃないですか。人間のにも似て見えたし……」
リアルな形状が頭の隅に追いやっていた言葉を思い出させ、桜介の中で様々な憶測がマグマのようにボコボコと浮き上がってくる。
一旦心が囚われると、未だ克服できない不甲斐なさだけが頭を占める。
「お前なあ、そんなグロいこと言うなよ。アレめっちゃうまいんだぞ。珍味で酒のあてにちょうどいいし、レバ刺しなんかよりもな」
「でも店長、こいつ好き嫌いないんすよ。さすが寺育ち、きちんと完食だもんな」
肩にあった腕を首に巻きつけ、八十がふざけながら技をかけようとしてくる。
「苦しいって、八十。寺育ちは関係ないだろ。それに食いもんは残さないの当たり前だ。食べ物は大切にしないとな。お前こそブラックホールみたいな胃袋の持ち主だろ、細いくせにめちゃ食うしっ」
「バッ、バカお前やめろっ。くすぐってー」
悪ふざけ心が疼くと、さっきの仕返しだと八十の脇腹をくすぐってやった。
「はいはい、高校生のノリは終わりだ。お仕事お仕事!」
「はい、はーい」
千葉の号令で二人は揃って返事をし、桜介と八十はそれぞれの持ち場へ戻った。
ホールを仕切る八十に手で激励しながらも、桜介は血の匂いが鼻を突く錯覚を拭えずにいた。
蝿を追い払うように頭をブンブンと振ってみても、それくらいでは不快感は消えてくれない。
肩で溜息を吐き出しながら洗い場に戻ると、鬱屈した気分を汚れた食器と一緒に洗い流すよう、スポンジを持つ手に力を込めた。
何も知らず無邪気に過ごしてきた日々。それが一変したのは大学の合格発表の夜だった。耳にした言葉は頭を鈍器で殴られる程度では忘れられるものではない。
人熱と賑やかな会話の中、ひとり蚊帳の外に身を置いたまま桜介は、水草のように同じ場所で揺蕩っている感覚に陥っていた。
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