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「やっぱ金曜は忙しかったな」  疲弊した体を自転車に預けながら、八十が大袈裟な溜息を横で吐いた。  桜介も賛同するよう、何度も首を縦に振って見せる。毎週繰り返し、作業には慣れても体が疲れるのは慣れない。  マッシュショートの髪が汗を含み、ワックスで癖毛風に仕上げていたスタイルは跡形もない。何より汗の匂いと焼き鳥の煙とが相まって、おしゃれな東京の大学生からは程遠い。 「金曜にシフト入れると店長喜ぶもんな。でも今日の賄い、あのパスタで救われたー。八十めっちゃ食ってたよな」 「あれ美味いよな。何だっけ、ほら缶詰の——」 「アンチョビだろ? バイト始めてもう二年目なんだし、食材くらい覚えろよ」 「俺はカタカナ苦手なんだよ。美味けりゃ何だっていいんだって」 「その男前の顔からは想像出来ないよ、お前の大食漢っぷりは」  僅かな星が瞬く下、控えめに笑い合う二人は高校からの付き合いで、同じ大学への進学を機に共に上京し、二年目の春を迎えていた。  東京という都会(まち)に気後れしながらも、童顔で世間知らず、おまけに寺育ちで奥手な桜介にとって、見た目も思考も大人っぽい八十は、頼り甲斐のある大親友だった。  都会での暮らしで初めてのことばかりに奮闘しながらも、毎日を楽しく過ごして来れたのも八十のお陰と言っても過言じゃない。  一つの(わだかま)りを除いては……。 「でも、さっきの心臓は俺もちょっとグロいって思ったな——と、悪い。また思い出させたか」 「もう平気だって」  覇気のない声で呟くと、八十が口を手で覆って声を封じている。  彼の姿を見ながら気を遣わしてしまったと反省し、「ほんと、平気だ」と、微笑みながら八十の肩をポンっと叩いた。  定番のメニューでは、あれほど大きなものの解体することがなかったせいか、不意打ちを食らってしまった。しかも皿まで割ってしまう失態をするとは。  テレビで不意に流れるグロテスクなシーンは、目を逸らせば済むけれど、血の匂いがしそうなほどのモノを間近で見るのは強烈過ぎた。  胃液が込み上げてくるまでの感覚も初めてだった。 「まあ、俺の自論だけどさ、美味いもんて見た目がブサイクだよな。ほらナマコとかさ」  気を取り直すよう、八十が得意げに説を唱え出す。いつもだったらまたかと呆れ顔をしてしまうところだったが、今日はその心遣いが有り難く「お前と同じな」と、秀麗な横顔に向かって言ってやった。 「まあな、俺ほどの美形ともなればな——って、桜介、お前なー」 「ぐえっ、く、苦しいって。もーごめん、ごめんって。ほら男前。よ、モテ男! なあ、ほら、自転車危ないってばっ」  高校の時から八十の周りに、女子の影がない日は一度もなかった。  長身で飛び抜けた優美さは、入学当初から上級生にも噂されるほどの男前っぷりだった。大学生になって短かった前髪も少し伸ばし、緩いウェーヴスタイルに変わると、更に磨きのかかった男前に仕上がった。  当の本人はそれをひけらかすことなく、三枚目の一面の方が素だと自負しているのがまた女子をの何かをくすぐるのだろう。  現に、今もふざけた仕草で腕を再び首に巻き付けられ、戯れつかれる始末だった。自業自得と知りながらも、桜介も彼を冷やかすことを楽しんでいる。  だから許して欲しい。童顔でおまけに身長も百七十を満たない桜介の、やっかみ半分、冗談半分の暴言で茶化すのを。 「俺様のモテっぷりを忘れたってんなら、思い出させてやろーか。秘技! フロントネックロック!」  自転車の存在も忘れ、八十が必殺技を仕掛けてくると、桜介は耐え切れず「ギブ、ギブ」と、降参のポーズをとった。  「分かったんならよろしい。けど、俺は彼女一筋だってのも忘れんなよ。美人で気高い俺の彼女をな」  「はいはい、わかったよ。八十はいい男、彼女はいい女。はい、脳裏に刻みました。ってか、もう早く帰れよ。その愛しい彼女が部屋で待ってんだろ」 「あ、そうだった。寄り道すると怒られる」 「何だそれ、小学生かよ」 「ははは、確かに」  二人は顔を見合わせて笑い出し、音量が道路から聞こえる走行音に勝りそうになると、慌て人差し指を唇に当て、桜介はシーシーっと声を沈めた。 「明日は土曜で学校もバイトも休みなんだから、たまには彼女孝行しろよな」  そう言って、手のひらで思いっきり八十の背中を叩いた。 「痛って! お前なあ、自分は彼女いないからって僻むなよ。あ、けど桜介は気付いてないかもだけどな、お前のこと可愛いくて優しいって密かに女子が囁いてるらしいぞ。あ、これは彼女情報な」 「密かにねー。ってか、男なのに可愛いって言われてもなー」  桜介は少し低い位置から腕を伸ばし、人差し指を親指にひっかけると、八十の額目掛けて(はじ)かせた。 「痛ってー。そのデコピンは一生禁止だ。お前のそれは昔から効果絶大なんだぞっ」 「痛いか? よしよし、腕前は衰えてないな……」  自慢げに言い放った言葉もどこか迫力はなく、桜介の視線は自転車のライトが照らす仄暗い道に目を落としていた。 「桜介?」 「あ、ああ、ごめん、ごめん。一瞬トリップした」  心ここに在らずな表情を、八十が顔を覗き込んでくる。その視線で我に返った桜介はぎこちなく口角を上げた。 「……そうか。あ、なあ。そう言えば朔羅(さくら)さん達は元気か」  桜介の態度に何かを察した八十が、矛先を変える話題をフッてきた。 「あ、うん元気、元気。昨夜も電話で少し話したよ。二人とも相変わらずだった」 「朔羅さんってまだ若いのに、一人で寺を切り盛りしてるんだろ? あの人って何歳だっけ」 「俺を引き取ってくれた時、確か二十一歳だったから今は三十二歳くらいか……」  宵夏の静かな夜空を見て、寺で暮らすことを決意した幼い日を思い描いた。  見知らぬ町で過ごすことになった桜介を引き取りたいと言ってくれた。  朔羅の温かな心を知ったとき、施設の教室でわんわん泣いたことは一生忘れられない。 「住職にしては若いよな。見た目も男にしとくのもったいないくらい可愛いし。俺初めて見た時ビビったもん」 「美人過ぎてだろ?」 「そうそう。少し日本人離れした雰囲気と、寺の住職ってのがギャップ萌えだよな。でも、血は繋がってないのに、桜介ってどっか朔羅さんと似てるよな。可愛い系なとことか、髪の質感? とかさ」 「ホントに? それはめっちゃ嬉しいな。けど可愛い系か……それは複雑だ。ま、でも他の人からも朔羅さんは美人って言われてるけどさ。俺は小さい頃から知ってるからよくわかんないわ。何たって親代わりの人だしね」 「親か……。それはそうと、お前は実の親を恨んだりしないのか」 「恨む……か。そんなこと一度も思った事ないなぁ。あの人——母親も父親が死んできっと辛かったんだと思うし」  まるで他人のことを語るように、桜介は淡々と話した。  偽善でも体裁を装うためでもなく、心からの真意だった。  親元ではまともに暮らせなかった桜介は施設で育ち、ようやく馴染んだ場所もなぜか閉鎖されることになってしまった。  仲間もみんなバラバラで別の施設に移ることになり、桜介も行き先が決まっていた。  桜介は施設の隣にあった永尊寺の朔羅が大好きだった。  学校から帰ると施設ではなく、朔羅の元へただいまと帰っていたくらいに。  幼いながらにも周りに迷惑をかけると思い、口にできなかった願いがあった。それは、知らない街へ行くより朔羅の側にいたいこと。    幸せなことに朔羅も同じ思いで、桜介は晴れて寺に引き取られることになったのだ。  桜介のような過去を持った人間は普通の家庭で育った人からすれば、興味が唆られる話なのかもしれない。これまでもくだらない質問をしてくる連中は大勢いて、そんな相手には笑いで誤魔化す対応をしていた。  でもこの八十だけは別だった。  彼はいつだって真剣に聞きたいことだけを聞き、決してふざけたり茶化したりはしない。  桜介と八十の間にある友情は、高校の三年間で確固たるものになった。  八十が過去に踏み込んできても、込み入った質問をされたとしても、桜介は素直に答えることが出来る。 「お前はほんっとお人好しだな。俺がお前みたいな目に遭ってたら、速攻逆襲してるわ」  同情するでも嫌味でもなく、真っ直ぐな言葉を放つ八十に、桜介はいつも救われていた。  親がいても一緒に暮らせない理由を聞けば、大抵の人間は同情の色を浮かべ、言葉をあれこれ選ぶもの。でもこの八十は、変わらない態度で接してくれるのだ。初対面の時から今も。 「でも正直に言うと、親から離れて養護施設に住むようになった時は安心したんだ」 「安心?」 「ああ。家には食べる物がなかったからな。腹空かしても、水ばっか飲んでたし。だから園でご飯が食べれた時は感動したんだ。けど……」 「けど?」 「母親(あの人)は一人になって、大丈夫なのかなってのはたまに考える」 「子育てを放棄した人間を心配すんのか? 桜介らしいっちゃらしいけどな……」  自分勝手な親からネグレクトされたまま幼少期を生きてきた。  桜介のように心が壊れそうな経験をした大抵の人間は、どこか寂しさを抱えていたり、性格をねじ曲げてしまうものだ。けれど桜介は道を踏み外すこともなく、平凡で幸せな大学生になれた。  真っ当に生きてこれたのも、引き取ってくれる前から朔羅に与えてもらった優しさがあったからだ。 「カナリア園——養護施設には、俺よりもっと劣悪な経験した子どもがいたんだ。実の親から暴力を受け続けたり——」  言いかけた言葉が呼び水となり、桜介は幼い少年の顔を思い出してしまった。 「どした?」 「あ、いや何でもない。とにかく俺は幸せなんだよ。朔羅さんが俺を引き取ってくれた。それだけでも幸せなのに、唯志(ただし)さんて言う人生の目標になった人とも出会えたしな」  真っ直ぐ空に向かって枝を広げる楠木のように、桜介は胸を張って話した。   血の繋がりを持つ家族はいなけれど、自分はこんなにも幸せに生きている。  それが誇れる宝なのだ。 「その唯志って人、朔羅さんの彼氏だろ? 小学校の先生してて。子どもの頃から朔羅さん一筋って、めちゃくちゃ一途だよな」 「一回は別れたみたいだけどな。ちょうど俺らくらいの時、唯志さんが寺に押しかけて来たからね——ってか、八十は引かないよな、男同士の恋愛。俺は慣れてるけどさ」 「人を好きになることのどこに引く要素があるんだよ。性別は関係ない、人間を、その人の心を好きになるんだ。俺の持論だけどさ」 「お、出た八十の持論節」 「フフ、今日は二回も聞けたな、桜介はラッキーだ」 「何だそれ」  たわいもない会話でも、桜介は八十の性格に救われていた。  世間で言う『普通の家庭』から縁遠い桜介でも、彼は当たり前のように接して受け止めてくれる。  ——本当、いいやつ……。 「何か言ったか?」 「いいや、八十のそう言うとこ、好きだなって思ってさ」  桜介は口元を綻ばせ、心からの言葉を返した。 「惚れるなよ。俺には可愛い彼女いるんだから。でもま、どうしてもって言うなら親友のよしみでチューくらいはしてやるぞ」  ニカっと白い歯を見せる八十が、「ほら」と両手を広げて見せる。 「丁重にお断り致します」  桜介は仰々しく頭を下げると、二人は顔を見合わせて吹き出した。 「でもお前がいなくて寂しいんじゃないのか。あの人達桜介のこと大好きじゃん」 「そう言えば、電話で今度はいつ帰るって(しき)りに聞かれたよ」 「前の春休みんときもさ、俺が一緒に遊びに行って翌日帰る時なんて、見送ってた朔羅さん半泣きだったもんな」 「本当にあり難いよ、こうやって大学まで行かせてくれて……」  自分だけ幸せでいいのかと、多幸感を感じる度に大好きな笑顔が頭を駆け巡る。  一緒に成長して、一緒に幸せになって未来を生きていく。固く誓った約束は確かにあったのに、肩を並べて歩く横に彼の姿はない……。  八十の視線から隠れるよう、桜介は浮上する後ろめたさに唇を噛んだ。  胸の奥で燻るものが、心の中で湿気を帯び、気持ちの悪いものへと変化する。必死で押さえ込まないと、ネガティヴな心に支配されてしまう。 「でも養護施設って閉鎖するんだな。俺は隣町だったから存在すら知らなかったけど、やっぱ少子化か——って桜介聞いてるのか? おーすけ、おーい」 「あ、ああ。何だったっけ」  また上の空になった桜介は、慌てて八十と視線を合わせた。 「大丈夫か? 時々お前って今みたいにどっか行っちゃうよな。朔羅さんや寺のことで心配事でもあるのか?」 「いや全然。大丈夫、何もない」 「じゃ何を悩んでるんだ。お前とは高一からの付き合いなんだ、何かあったって、顔見りゃ直ぐにわかるんだからな」  徐に伸びてきた手で、桜介は頭をくしゃりとされた。 「本当に大丈夫、何にもないよ。でもサンキューな」  隠しても隠しても、胸の奥で渦巻く疑問は、付き合いの長い八十にはお見通しだった。  彼に話して解決するのなら聞いてもらいたい。けれどこんな話し、誰が信じられるだろうか……。 「そっか……。ま、でも何かあったら言えよな」 「ああ、分かってる。そん時は朝まで飲みに付き合ってもらうかな」 「おー、まかしとけ。ってか、お前酒弱いじゃん」 「あ、そうだった」  乾いた笑いで会話を終焉させ、桜介は目を眇めてくる八十に気付かないフリをした。 「じゃ、また来週学校でな。歯磨いてクソして早く寝ろよな」 「下品だな、八十は。やっぱお前は小三だ」 「ハハハ、じゃあなー」 「おやすみー、気をつけて帰れよ」  互いに手を上げ、軽く挨拶を交わすと二人は十字路を左右に分かれた。  自転車にまたがり、颯爽と夜道を帰る八十の後ろ姿を見送りながら桜介は反省した。  ダメだ、沈んでることが八十にバレバレだった。それも今日に始まったことじゃないからタチが悪い。  大学に通うようになってから、きっかけさえあればをすぐ考え込んでしまう。  勘のいい八十には誤魔化してもダダ漏れだ。ましてや一緒にいる時間も多いのだから気をつけないと。  店で見たネズミザメの心臓が頭をかすめ、あり得ない想像がまた蘇る。 「心臓……」  呟いたと同時にかぶりを振って、思考から逃げるように髪をかきむしった。    ——忘れろ……忘れるんだ……。  呪文のように繰り返し呟いても、簡単に忘れられない。寝て起きたら忘れている——なんて、そんな単純じゃない。  シャツの裾を掴んでくる頼りなげな手。振り返るとそっと笑う幼い顔がいつも側にあった。  ほのかな思い出も、あの日を境に身を切られるような感覚にとって変わってしまった。  体の中に沸々と燻る感情が怒りなのか悲しみなのか、それとも悔しさなのか分からず、混沌とさせるだけで日毎に肥大化していく。  いいようのない気持ちを吐き出すよう、桜介は重い溜息を吐いた。  自宅までの慣れた夜道が今夜は禍々しく見え、桜介は静寂の中に吸い込まれるよう、アスファルトを踏みしめて歩いた。
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