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「桜介、お前午後の講義休講だって?」
キャンパス内にある食堂で、珈琲を堪能していると八十が声をかけて来た。
「おーす。もしかしてお前らも休講?」
「俺らは遅飯食いに。教授の講義長過ぎだったぁ」
八十の隣で眼鏡の奥からげんなりした表情をしているのは、二学年で既に学生会の役員を務める、賢才で有名な高邑煇だ。
「もしかして、また国際経済論の先生?」
同じように鬱屈している八十を見て、桜介は労うように二人に椅子を差し出した。
「そう! あの先生ほんと話出したら止まんねーの。それも毎回だぜ。桜介も受講したらわかるよ」
テーブルの上に置いた鞄に突っ伏した煇の頭を「よしよし」と撫でる桜介の行為も、毎度事だった。
「いつまでもへこたれてんじゃないって。ほら煇、メシ注文しに行くぞ」
「へーへー」
八十に首根っこを掴まれながら、廃人のように煇が引きずられて行く滑稽な様子に悪いと思いながらも桜介は肩を震わせた。
二人を見送りながら、「学年一の秀才も形無しだな」と、珈琲を飲みながら微笑ましく思った。
「で、桜介は何で休講になったんだ?」
空になった珈琲カップを弄んでいると、自己ベストを更新する勢いでカレーを平らげた八十が尋ねて来た。
「それがさ、教授のお客さんが急遽来るって中止になったんだ」
「はあ? 何だそれ! 客来るくらいで休講にするなんて大学は怠慢だな」
ラーメンの汁がついた箸を振り回しながら、煇が息巻いている。
「ちょ、ちょっと煇。汁が飛び散るって」
「あ、ああ悪い、悪い」
秀才と名高かった煇の第一印象は一見近寄り難く、彼とは会話も噛み合わないだろうと思っていた。だが、八十を通じて彼を知ると、イメージとは反対に悪戯好きで子どもっぽい面が、桜介の心をくすぐった。
三人三様の性格の違いも、継手で材木を嵌めるよう気持ちよく噛み合い、今でも入学当初から続く友情を深めてこれたのだ。
「でもそんな理由で休講なんて初めてだよな。きっとどっかの偉いさんが来たんだ」
カレーが辛かったのか、二杯目の水を入れて戻ってくると、それも一気に流し込んで八十が言った。
「さあな。生徒には何にも情報は降りてこないよ」
「だな」
「あー、こんなことならバイト入れとくんだった。暇だー」
今度は桜介が机に突っ伏し、持て余す時間に懊悩していた。
「付き合ってやりたいけど、俺らこの後まだ講義あるしな」
「ハハ、サンキュ。本屋かどっかブラついて帰るわ」
「桜介君、こんな時に彼女いたらなーって思うだろ。ん? どうだ、今度俺様が主催する合コンに参加してみないか」
悪巧みするような表情で誘う煇を手で制止し、桜介は首を左右に振って見せる。
「何回誘ってもらっても行かないよ、合コンには」
「はあー、また振られた。絶対来ないもんな桜介は。何で? 合コンに参加したら呪いがかかるとかか? なあ八十」
「俺に聞くなよ」
「彼女持ちは余裕だなって、おーおー、また幸夜ちゃんか」
澄ました顔でスマホを触る八十と、画面の間に割って入る煇が、自分の鼻頭を指で押し上げ変顔をして見せている。
「ブッ! 何だよその顔」
煇の顔がツボに入った桜介は、大声で笑いたいのを必死に堪え、小刻みに肩を震わせていた。
「お前バカ?」
煇の悪ふざけの対処法を心得ている八十が、子どもじみた行為を続ける頬を押し除けると、素知らぬ顔で電話に出た。
「あ、もしもし幸夜? うん、そう食堂」
彼女と楽しげに話す八十が、二人に向かって合図し席を離れて行く。
「仲いいねー、羨ましい。彼女って桜介と同じ教育学部だろ」
「ああ。結構モテるよな、彼女。美男美女でお似合いだし」
「はー、俺も彼女欲しい。桜介、頼むからお前俺より先に作るなよ」
溜息で曇ったレンズをシャツの袖で拭きながら、煇が釘をさしてくる。
この会話も何回繰り返して来たことか。
呆れつつも桜介は眼鏡スタイルに戻った頭を撫でてやった。
「よしよし。お互い慰め合おう。彼女なんて簡単に出来るモンでもないしね。こう言うのは運命なんだよ」
「へー、桜介って意外とロマンチストだな」
「俺は運命を信じてるだけ。だからもう合コンには誘うなよ」
桜介は引導を渡すよう、頬を膨らませる煇に言った。
「合コンも運命じゃん」
「それ、何か違うから。俺的には」
信念を曲げない桜介に「がんこモン」と煇にまた文句を言われた。
「煇も俺も出会ったらわかるよきっと。運命の相手はこの人だったんだーって、無理やり作ろうとしなくてもさ」
清々しく言い切ると、ぐうの音も出ない様子で煇が大袈裟に肩を竦めた仕草をする。
説得に成功したと満足し、桜介はチラリと八十の方に目をやった。
八十達のように、朔羅と唯志のように、自分にもきっといつかそんな相手と出会えると信じて。
「はいはい、天使な桜介には敵いませんよ」
「何だよ天使って。バカにしてる?」
からかうように言ってくる煇の額に、桜介は人差し指と親指を曲げて近付けた。
「わ、ごめん。冗談だよ、桜介さん」
「痛いぞ、桜介のデコピンは。一回食らっとけ煇も」
彼女との電話を終え、戻って来た八十が愉快そうに桜介をけしかける。それに乗っかるよう、桜介もわざとらしく腕まくりする素振りを見せた。
「八十からめっちゃ痛いって聞いてるし、食らうなんてゴメンだ」
一人騒ぐ煇が面白すぎ、本当に大学側も認める鬼才なのかと首を傾げたくなった。
「嘘だよ、やんないよ。でも二度と天使って言うなよなー」
「だって桜介、天使じゃ——とと」
口にしかけた単語を慌てて引っ込める煇をひと睨みし、桜介はククッと小さく笑ってみせた
「煇の言いたいこと、俺はわかるけどな。俺も高校んときから思ってたし。桜介は何て言うか……廉潔なんだよな」
「八十まで何言ってんだよ」
「そうそう、清廉潔白」
「純真無垢、純一無雑!」
「正直ものは馬鹿を見——痛って」
調子に乗ってふざけ過ぎた無防備な額に、桜介はお待ちかねの一撃を食らわせてやった。
「誰がバカだって?」
「それだけお前が貴重な人種ってことだな」
「そうそう絶滅危惧種——っとわわっ!」
八十の影に隠れてまだ懲りない煇に、桜介はわざと大きく腕を振りかぶり、もう一度人差し指を親指に引っ掛けると、二発目の攻撃準備をして見せた。
「それより二人とも講義の時間大丈夫なのか?」
桜介が食堂の時計を見ながら二人に言った。
「お、そうだな、そろそろ行くか煇」
「だな。あ、そうだ桜介。次の週末悪かったな、八十と二人で堪能して来てくれよ」
肩にカバンを掛ける煇が、申し訳なさそうに言った。
「気にすんなよ。学生会の用事のが重要なんだし。あ、そうだ。煇にも買ってきてやろうか、朝顔」
桜介が柔和な笑顔を向けて言った。
「やっぱ天使だわ、こいつ」
「何? 煇はいらない?」
「っとにお前は、相手を不快にしたり責めるような言葉は絶対に言わないよな。約束を破棄されても怒るどころか、俺にまで買ってこようかなんて、マジで天使……おっと、八十さん。俺は一足お先に——」
コソ泥のように忍び足で桜介の前から逃げようとする煇に、「ヒーカールー」と呼んでやると、ギャグアニメのようにビクッとしている。
「はい、なんでございましょうか桜介様」
今度は丁稚奉公みたいに揉み手をして、煇が媚び諂っている。
「あははっ、桜介やめとけ、やめとけ。こいつぜってー枯らすわ。花が可哀想だ」
「おいおい八十、聞き捨てならないな。俺は地球上の生物全てに愛されてる男だぞ。朝顔の一つや二つお手のもんさ」
目を閉じて陶酔する煇の体が突然後へ傾いた。その理由は、また首根っこを八十に掴まれて引っ張られていたからだ。
「ぶっ! 煇も八十には叶わないな。講義、頑張れよー」
先週末の不安定な心はどこかへ消え、腹筋が痛くなるほど笑いながら、桜介は二人に向かって両手を左右に振った。
「桜介、じゃ駅集合な」
「おー。了解」
「じゃあなー、桜介」
八十に引きずられる姿は、食堂の入り口につま先が見えなくなるまで続き、桜介はまだ肩を震わせていた。
賑やかしが去った後、人気のない食堂に取り残された桜介は、寂寥感を紛らわすよう窓に目を向けた。
食堂内には生徒がちらほらいるだけで、スマホをいじったり、本を呼んだりと過ごしている。
静寂した空気に包まれながら、迫る熱波に挑もうとしている夏木立に目をやった。
「もう七月だもんな……外暑そう」
食堂から見える中庭の木々が濃い緑を纏い、太陽の欠片が所々反射している。いつの間にか煩わしかった梅雨は明け、夏の日差しが準備万端だと、自然界はスタートを切ろうとしていた。
「暑いけど、朝顔は夏の醍醐味だしな」
予定が合わなかった彼女のために、八十が代わりに行きたがった朝顔市へ行くことになった。男一人では心細いからと、桜介が誘われたのは週末のこと。
花を愛でることは、寺に咲いていた雪柳の世話を幼い頃にしていたくらいで然程興味はない。だが、八十と彼女があまりにも楽しそうに話す様子を見て、桜介もイベントに赴くことを密かに楽しみにしていたのだ。
絶対に朔羅さん喜ぶし……。
朝顔を受け取った時の朔羅を想像し、桜介は一人ほくそ笑んでいた。
心は既に週末へと逸り、窓越しに聞こえてきた、早生まれの蝉の叫びを耳にしながら鼻歌まじりに席を立った。
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