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 汗と涙と、荒い息で纏った体はいつのまにか、大学近くの公園に辿り着いていた。  無意識に選んでいたこの場所は、梗一や遥子と一緒に食事をしたり、話し込んだ思い出の場所だった。  すっかり宵闇に覆われてしまった公園を彷徨うと、街灯に照らされたベンチの側に自転車を止めて力なくそこへ腰を下ろした。  空の色が裾の方から藍色に染まり、吸い込まれそうな群青に救いを求めるよう、手を差し伸ばしてみる。 「桔平じゃなかったら……よかったのに」  悔やんでもどうにもならない結末に、桜介は静かに涙を流した。  流涙しても後から後から湧いて出てくる。体のどこにこれだけの水分があるのかと、小学生のようなことを考えてしまい、そんな自分に冷笑した。  どれぐらいの時間が過ぎたのか、呆然としていると、聴きなれた音がカバンの中から聞こえてきた。  虚な手でスマホを取り出した桜介は、表示された名前を目にし、迷う指で画面に触れた。 『桜介、今平気か? 今日さ鎌倉の土産渡そうと思ったのに、お前いつの間にか帰ってるし——っておい。もしもーし、聞こえてるか』  スマホから聞こえる八十の声に何も言えず、ただ喉を詰まらせて嗚咽した。  落ち着いた八十の声に縋るよう、必死で声を絞り出そうとしたが、掠れて上手く音を作れない。 『桜介、ゆっくりでいい。待ってるから、深呼吸してみな』  親友の声に肩の力が抜け、桜介は居場所だけを告げると通話を切った。    公園に駆けつけてくれた八十は息を切らしていた。心配顔の親友を見て、幸せだなと、しみじみ思い、涙腺は再び緩んでしまった。    八十が隣に座り、来る途中に買ったのか、ペットボトルの水を握らされた。それを開封することもせず、その冷たさで冷静になろうと握り締めた。  おかげでさっきまで纏っていた業火のような熱は冷め、幾分か冷静さを取り戻すことが出来た。  二人でベンチに座っている間、八十は何も言わなかった。  黙ったままでいると、夏を匂わす風が二人の髪を撫でていった。  爽やかな初夏の風に押されるよう、頭の中で整理したことを話すために引き結んだ唇を解いた。 「八十……やっぱり、遥子さんの心臓は桔平のだった……。ドナーを連れてきたって、遥子さんははっきり言ったよ。雨宮の家に養子に行ったのは……桔平だけだ。そして桔平は死んだって聞かされ……た。もう、間違いな……い」  声は掠れていたけれど、喉を振り絞って出した声は八十には届いていたと思う。 「そうか……」  たった三文字の言葉が安定剤のように思え、徐々に体が弛緩していくのを感じると、桜介はこの数日に起こった出来事を、ポツリポツリと語った。  現実味のない話の結末は、桜介にとって最悪のシナリオだった。  それを真剣に全て受け止めてくれた八十に、「こんな話……現実にあるんだな」と、無理やり笑ってみせた。 「無理に笑わなくていい。俺も……お前の立場ならきっと同じことをしてたと思う」  全て話し終えると、桜介はペットボトルを握りしめたまま、八十の言葉を聞いていた。 「お前は優しいからな、のことを雨宮さんに話してないんだろ?」 「そんなこと、言えないよ……。言えばあの子は壊れるかもしれない。失明するかもしれないのに、これ以上は苦しめたくない」 「俺はお前の性格知ってっからな。優し過ぎてバカ正直で——」 「バ、バカって——」 「ほんと、自分のことより人のことばっかだもんな」  呆れながら言う八十の人差し指が近付き、無防備な額を突かれた。その仕草が優しかったことに、少しだけ気持ちが浮上した気がする。 「八十、俺は……」 「言えよ、ちゃんと聞くから」  真剣な眼差しに救われ、桜介は涙声で脆い感情を吐き出していった。 「遥子さんが雨宮さんを(なじ)る気持ち、わからなくもない。俺だってあの人には腹が立った、けどどんな人でも大切な『家族』だからさ……」  物心ついた時にはもう孤独だった桜介にとって、『家族』は特別な存在だった。  当たり前に与えられる愛情が大なり小なり、大抵の子どもにはある。それが桜介や桔平には欠片もなかった。どんな非道な家族でも、側にさえいれば少しの愛情は感じられるのかもしれない。だが、そんな淡い期待でさえも施設にいた子どもたちにはなかったのだ。そのためか、人より一層、家族の愛を欲しいと思ってしまう。 「……八十。俺、どうやら梗一が好きみたいだ。でも、梗一は遥子さんを大切にしている。昔も今もずっと側で見守っているんだ。だから、いつか遥子さんが梗一の視線に気付けばいい……そう思うようにしたんだ」 「……そんな気がしてた。桜介はいつも梗一君を目で追ってたもんな」 「え、俺ってそんなに見てた?」  見てた、見てたと、八十に笑われた。親友が聡い奴だったと、改めて思い知らされ桜介も一緒になった笑った。    水を一口飲み、すっかり深くなった空を見上げていると、 「桜介、今日俺ん家泊まるか」と、八十に誘われた。 「いいのか……いやでも幸夜ちゃんにわるい——」 「明日は俺もお前も三限からだろ? たまには男同士で飲んだくれよーぜ」  無邪気に八十が腕を回し、背中を思いっきり叩かれた。その行為はまるで邪気を払うようにさえ思えるくらいの力強さだった。 「痛ってー! 八十は馬鹿力なんだよ」 「ハハハ、今更だろ」 「酒代はお前の奢りだからな」 「はっ? ここはお前の奢りじゃね? 何てったって俺はここまで駆けつけたんだし」 「……確かに。んじゃ二人でコンビニ行こう」 「お前、素直過ぎ……。母さんは心配だよ」 「誰が母さんだ、誰——」  八十の冗談に乗り掛かった時、雨宮の言葉を不意に思い出した。 「なあ、八十。俺、雨宮さんが変なこと言ってたのを、今思い出したんだけど……」 「遥子さんのお爺さん? 何を思い出したんだ」 「雨宮さんが遥子さんのことを(なじ)ったって言ったろ? そん時、『あの子のために二人も人間を用意した』って言ったんだ。なあ、これってどう言う意味だと思う?」  さっきまでの冗談は消え、すっかり闇に溶け込んで輪郭を失った景色を見ながら言った。 「いや……でも、二人って。一人は桔平君ってことだとしても、遥子さんの心臓を治療するためにもうひとりドナーがいたってこと……とか……」 「それはないよ。カナリア園から雨宮さんのところへ養子に行ったのは桔平だけだし、仁さんって人が、雨宮さんのお奥さんが男の子と一緒にいたって言ってたらしい。施設からも桔平の後に出て行った子どもはいなかったんだ」 「じゃ、どう言う意味——あ、これから視力のことでドナーを探すって意味じゃないのか」  八十の言葉に、そうかもしれない、と思った。  目の病気のことは詳しく聞いていなかったけれど、雨宮が移植を匂わせる言葉を溢していた。 「どっちにしても人間のすることじゃないな。そのおっさんは間違いなく地獄行きだ。それより、コンビニ行こーぜ。今日はお前をとことん酔わしてやる」 「なに、お前、俺を酔わしてどうすんだ」  両腕を胸の前でクロスさせ、わざと腰をくねって八十から遠ざかるフリをした。  すかさず八十に頬を捕まれ、そのままキスの真似事をされた。 「や、やめろっ! 小夜ちゃんに殺されるー」  小夜の名前でリセットしたのか、ヤバいヤバい、桜介の色香に惑わされるとこだったと、豪快に八十が笑うから、桜介も一緒になって笑った。  今夜の八十のノリは一段と冴えている。けれど、それは敢えて明るく振る舞ってくれているのだとわかる。  頼りになる親友に感謝しながら、桜介は自転車のストッパーを思いっきり蹴り上げた。    
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