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 東京下町の夏の風物詩としても名高い催しとあって、早い時間にやって来たものの、既に会場は大勢の人で賑わっていた。  日の出と共に開花する朝顔が一斉に咲きそろう光景は一見の価値があり、八十が朝早くに行きたいと言っていた意味がよくわかる。    週末、ひとりで朝顔市に来ていた桜介は、容赦なく日差しが照りつける中を、色とりどりの朝顔で埋め尽くされている景色に自然と感嘆を漏らした。  通りは朝顔を販売している店が連なり、初めてのお使いばりに辺りをキョロキョロしながら、お目当ての朝顔を探していた。  それぞれの店先からは、集客しようと他の店に負けじと店主が声を張り上げ、その勢いが購買意欲を煽ってくる。  頬を伝う汗を手の甲で拭うと、小さな浴衣美人が声高にはしゃぐ姿が目に留まった。  ——へえ、かわいい。浴衣か……。  夏の景色を微笑ましく見つめていた桜介は、はたと気づき立ち竦んだ。  家族連れやカップルでもなく、男ひとりのぼっちな学生は、風流で色鮮やかな場所には場違いなのではと急に心細くなってきた。 「……でも、仕方ないよな。幸夜(こよ)ちゃん熱出したんじゃ八十だって心配だし」  昨夜遅くに鳴った電話は、申し訳なさそうな声をした八十の謝罪だった。  看病で自分も行けなくなるから、朝顔市に行くのは中止にしようと言う。  だが、八十の彼女——幸夜が何ヶ月も前から、市で朝顔を見るのを楽しみにしていたのを知っていた桜介は、八十達に写真だけでも見せてやりたい気持ちが沸き上がり、こうしてひとりイベントに足を運んだ。  男ひとりで朝顔市に行くことを迷いあぐねいていたが、桜介自身も既に心は(いち)の賑わいに赴いていた。でも、やっぱり不安な気持ちと戸惑いは隠せず、雑踏の中で孤独感をひしひしと味わっていた。  ——男ひとりってやっぱ場違いだよな……。  徐々にこみ上げてくる後悔を味わいつつも、桜介は楽しげに朝顔を堪能している人々を見て心が癒された。 「何かいいな、こういう賑わい……」  百軒もの露店にピンクや青、紫などの朝顔が揃い踏み、生き生きとした景色は日本の風情そのもので、熱でうなされている小夜のためにスマホで写真を撮った。  頭頂部がジリジリと暑くなっていくのを実感すると、焦げつく前に移動しようとリュックを背負い直した。  おぼつかない足取りのまま先へと進むと、寺の屋根が人山から垣間見えた。 「あ、あれが真源寺(しんげんじ)か」  参拝者が集まる寺に足を踏み入れた桜介は、ふと朔羅のいる寺と重ねた。  都心から離れた小さな田舎町で過ごしていた頃、桜介も人並みに東京へ興味を持っていた。だが、寺が持つ独特の雰囲気や線香の香りに触れると、憧れの東京にいても懐古な気分でたまらなくなる。  混雑する中で思い出にふけっていると人の波にぶつかり、通行の妨げになってると気付いた桜介は慌てて人気の少ない道の端へと避難した。  人熱に酔いそうになった桜介は、ペットボトルの水を流し込みながら、そろそろお使いをしなければと露店に目を向けた。 「今度は、反対側も回ってみるか……」  次第に日が高くなっていく初夏の太陽が、緩めることなく攻撃してくる。  日差しに手で(ひさし)を作って、桜介は真っ青な空を見上げた。 「眩し……」  一面に咲く朝顔達に、ハーブのような強い香りはない。その代わりにひしめき合う葉が草いきれの匂いを放っている。  何となく故郷を思い出す香りを堪能するよう、ゆっくりと歩いた。  熱気に負けじと露店のあちらこちらで打ち水の音がし、僅かに涼やかな風が舞っている。でも太陽はまだ遠慮してくれそうもなく、暑さも独り身にも辛い時を感じてしまった。  散策を堪能しつつ、八十から頼まれた目当ての花を探して歩いた。  リクエストは白い朝顔。出来るだけ蕾が沢山付いてる鉢を選んで欲しいと、咳き込みながら電話口で幸夜が言っていたのが切ない。  女性のお眼鏡に叶うにはどれを選べばいいのか……。桜介は数ある店を順に見て周った。  品種など何も知識のないまま、とにかく白くて美しい花を探していたら、折り重なる花々の中で一輪だけ満開に咲く白い花びらが目についた。  花の周りには沢山の蕾が主役を引き立てるよう、蔓と共に所狭しと鉢の中で青々と育っている。  白い朝顔に心奪われた桜介は、八十達の顔を浮かべながら鉢に手をかけようとした——が、心を奪われたのは桜介だけではなかった。  差し伸ばした指の前を長くて細い指が現れ、桜介の指と交差するように触れ合った。  思わず手を引っ込め、伸びてきた手の先を見上げてみる。  黒髪なのに光を浴びているからか、濃い紫色にも見える。少し長めの前髪は目尻に掛かる長さで切り揃えられ、隙間からは利発そうな額が垣間見える。  玲瓏(れいろう)な表情はギラつく太陽の下にいると言うのに汗一滴もかかず、彼の周りだけが涼しげな風が吹いているように思えた。清廉で透明感溢れる横顔に見惚れていると、指先が触れ合ったままなことに気付いた。  桜介が手を引っ込めたのと同時に相手も同じ動作をしていて、自然と二人の目が合う。  同じ鉢に惹かれたのが明白で、桜介は「どうぞ」と手で譲る素振りをしてみせる。  前屈みになっていた体を起こした彼は、桜介より少し高い位置に目線があり、優しげな眼差しで見下ろされると、目の前の景色がスローモーションのように見え、相手が男というのも忘れて数秒ほど見惚れてしまった。  桜介の頭の中でリンリーンと軽やかな音色が聞こえた。いや、実際に音が鳴ったわけではなく、比喩的なものだけれど。  真っ直ぐ彼を見つめていると、胸の中に何とも言えない懐かしさが込み上がってくるのを感じる。正体のわからない感情に戸惑っていると、下駄の音と共に高音の音で名前を呼ぶ声が後ろから聞こえた。  目の前の彼が答えるように手をあげて、桜介の後ろに視線を向けている。  反射的に振り返ると、花紺青(はなこんじょう)の浴衣姿の女性が彼に向かって小走りに近づいて来た。  陶器のように艶やかな頬は暑さからか高揚しており、顎で切り揃えられた黒髪が走るたびに揺れている。   「梗一(きょういち)さん、お待たせ」  桜介のすぐ横を通り過ぎながら、浴衣の女性が彼の元へとやって来た。 「履き慣れない下駄なんですよ、走ったら危ないですから」  さっき桜介に向けていた眼差しのように、女性にかけた彼の声もとても優しくて穏やかな声だった。 「あ、見つけてくれたのね、真っ白な朝顔。じゃこれを買って帰りましょうよ」  桜介と彼が同時に見つけた朝顔を指さしながら、女性が満面の笑みを浮かべている。 「あ、いえ。この朝顔は——」 「おじさん、この朝顔ください。えっと……それ。その、紫色の蕾がいっぱい付いてる鉢」  咄嗟に桜介は白い朝顔ではなく、隣の鉢を指差して言った。 「毎度。にいちゃん、袋に入れるから待ってな」 「あ、いえ。持って帰るんじゃなくて送って欲しいんです。かまいませんか?」 「いいよー。じゃこの紙に送り先の住所書いて。あ、送料もいるよ」 「はい、かまいません」  物言いたげな彼の視線を横顔に浴びながら、桜介は送り状に寺の住所を黙々と書いていた。 「梗一さん、どうかした? 気分でも悪いの?」 「……いえ、平気です。あのそれよりも朝顔——」 「これでいいわよ。私気に入っちゃた。おじさん、この白い朝顔くださる」  女性と店主がやり取りをする間も、桜介は彼が視線を向けているのに気付いていた。きっと申し訳ないと思っているのだろう。  ——気を遣ってるだろから、ここは早く退散するべし。  心の中で呟きながら、桜介は送り状と料金を店主に渡し、控えをもらうと足早に店を離れた。  八十達とはまた違ったタイプの美男美女だったな、なんて考えながら桜介は今度こそ小夜に気に入ってもらえそうな朝顔を探しに歩き出した。        
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