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最終章
雨宮と対峙した日から十日ほどが経った。
日付が更新されても、桜介は眠れない日々はずっと味わっていた。
うつらうつらしたまま朝を迎え、淀んだ頭のまま何とか日常をこなす。
今夜もそうなるだろうと、寝不足に慣れた体をベッドに横たえた時、スマホが鳴った。
画面には梗一の名前が表示されていた。
素直な心臓はわかりやすく喜んだけれど、指先は画面に触れることを躊躇っている。
逡巡している桜介を待つよう、コール音は鳴り続けている。神妙な面持ちでスマホを持つ梗一が見えるようだ。
『桜介、ごめん遅い時間に。起こしたか?』
深夜だからか、ひそめた声はハスキーに聞こえ、非常識にも色っぽいなと、思ってしまった。
「大丈夫、起きてたから。珍しいな、梗一からの電話は」
『……そう……だな。けど、どうしても話したいことがあったから。今、電話しててもいいか……』
「うん、全然かまわないよ……」
返事をしながら妙な間に嫌な予感がした。
続きの言葉を待っているのに、梗一の声が聞こえない。電波が悪い場所にでもいるのかなと思ったけれど、遠くからショパンのノクターンが微かに聴こえ、電波ではなく梗一が話すことを躊躇っているのが伝わった。
「桜介……俺と遥子さんは大学を辞めるんだ。もう、退学手続きは済ましている……」
頭が真っ白になった。
梗一が大学をやめる……。やめる……?
もう、大学にこない──ってこと……なのか。
それが何を意味するのかすぐに理解出来ず、どう返事をしていいかわからなかった。
告げられた現実を脳が受け入れようとしない。いや、脳だけじゃない。心も体も全身で梗一の言葉を拒絶している。
嘘だよな、と言いたいのにそんな簡単な言葉が言えない。
よく、死にかけた人間は、これまでの出来事を走馬灯のように思い返すと言うけれど、桜介にも今、同じ現象が起こっていた。
これまで一緒に過ごした思い出が、高速回転で駆け巡っている。
初めて出逢った朝顔市。満開に咲いていた朝顔の中、大輪の花より清廉で美しく、吸い込まれそうに眩しかった透明感のある横顔。 長くて細い指先の温度は、刻印のように桜介の指先に残っている。
教授の部屋で紹介された時は、雷に打たれたような衝撃を受けた。
二人で寺に戻った時、雪柳の花言葉を嬉しそうに教えてくれた。
いつもより少し子どもっぽく見えた梗一が嬉しくて、彼と知り合ってから見た中で、最高に好きな笑顔だった。
ベッドの上で耳にスマホをあてがったまま、心を置き去りにしていると、「桜介?」と、とびきり優しい声で呼ばれた。
「あ、ああ。ご、ごめん。聞いてる……よ」
梗一の声で現実に引き戻されても、気持ちがまだついてこない。
梗一とのこの会話は、寝不足の末に眠りについた果てに見た夢だ。そう思いたかったけれど、再び名前を呼ばれたことで、現実なのだと突きつけられる。
「……雨宮氏が言ってただろ。遥子さんの目のことを」
「あ、ああ」
「遥子さんは、二、三年前から徐々に目が見え辛いと感じていたらしいんだ。俺は側であの人に使えていたのに気付かなかった。病状は徐々に進行していて、網膜色素変性症と診断されたんだ」
「網膜……?」
「ああ。この病気は、網膜に異常が起こり、暗いところで物が見えにくい夜盲や、視野が狭くなる視野狭窄、そして徐々に視力低下になる進行性の病気だそうだ。明るい所だと、眩しさを感じる人も稀にいるらしい」
深い溜息と共に語られる症状は、聞いたこのない病名だった。
遥子の祖父、雨宮に呼び出された時、彼は目のことを言っていた。心臓だけじゃ飽き足らず、目まで欠陥だった──と。
「な、治らないのか。その病気は……」
「根本的な根治療法はないと医者に言われたよ。網膜再生治療や人工角膜、角膜移植、それくらいしか今は方法がないらしい。今やっている治療はあくまでも、進行を遅らせることが目的だそう——」
「じゃ、じゃあ、この先、遥子さんの目はどうなるんだ」
梗一の声に被せるよう聞いた、返ってくる答えが素人にも予想できて苦しい。
「最終的に失明に至る病気と言われてるらしいけど、必ずしも見えなくなるわけじゃないと医者は言っていた。症状は人によってバラバラなんだとも……」
「し……つめ……い。目が、見えなくなるの……か」
口にしてすぐ、遥子とホテルで会った時に聞いた言葉を思い出した。
実の祖父にいらないと言われた、遥子はそう言っていた。自分は欠陥人間で、雨宮の家には必要ないと、断崖絶壁に立たされたような顔をしていた。
心臓は完治しても、今度は視力を奪われるとわかり、自分の父のために、旅館の跡取りになりたいと言っていた夢は潰えたてしまったのだ。
「……それは……わからない。でも、今後、もし失明なってもいいように、遥子さんは東京を離れて京都へ行く。だから大学をやめ、俺も……一緒に中退する。彼女についていかなければならない……からな」
途切れ途切れに綴られる言葉に、胸が締め付けられる。
梗一が大学をやめて、遥子と一緒に京都行ってしまう。
もう、二度と会えないんだと、副音声で聞こえた気がした。
足元がぐらつき、喉の奥の方から迫り上がってくる、言いようのない悲しみで目頭が熱くなってきた。
「桜介……」
今度も優しい声で名前を呼ばれた。
この声も、もう聞けなくなるのか。そう思うと、いてもたってもいられず、今すぐにでも梗一の顔を見に行きたくなった。
顔を見て、腕を掴んで、考え直してくれと嘆願したくなった。けれど、それはしてはいけないことだと分かっている。
「……桜介」
ひとたび、名前を呼ばれた。
さっきより、少し悲しげに聞こえた声は、萎れた朝顔がぽとりと地面に落ちるのを見た時の気持ちに似ている。
遥子の全てを把握する梗一は、きっと彼女と将来添い遂げるだろう。
老舗旅館に相応しい相手と結婚できないとする、遥子の考えを尊重するならば、選ばれるのは梗一だ。彼ほど、今の遥子を支えられる男はいない。
——梗一は永遠に、遥子さんのものになる……。
遥子の側に寄り添う梗一を想像した。想像して、また泣きそうになった。けれど、電話の向こうで心配すると思い、我慢した。
言いたくない言葉を告げなければ、梗一は電話を切ることができない。
桜介はグッと、唇を引き結んだ後、勇気を振り絞って綴る準備をした。
「梗一……。出発は……いつだ」
抑揚のない声になってしまった。悲しみを我慢しているから、素っ気ない言い方に聞こえたかもしれないけれど、どうか許して欲しい。
喪失感の中、緊張を味わっているのに、梗一からまた返事がこない。
聞こえてなかった……ことはないはずだ。向こう側からは、まだショパンが聴こえているのだから。
——別れの曲って……タイムリーすぎるだろ……。
今、梗一がいる場所はわからないけれど、きっと遥子が音楽を聴きながら紅茶でも飲んでいるのだろう。
優雅で雅な二人を簡単に思い描くことができる。
思いを断ち切ろう。そう、覚悟を決めた時、「桜介」と、また、呼ばれた。
「……出発は一週間後なんだ。もう、大学にも行くことはないから、この電話が最後になる……な。一年間だけだったけど、友達になってくれて……ありがとう。桜介のことは一生……忘れないよ」
そんなこと言うなよと、叫びたかった。
これは無理だろ。泣くに決まっている。
大学生で男同士。ただの友達との別れだ、ここまで悲観的になるのもおかしい。
一旦、スマホを口元から外すと、桜介は鼻を啜ってもう一度スマホを耳に当てた。
「……げ、元気でな梗一。俺……もお前に出会えて嬉しかった。もう、会うことはないだろうけど、俺はずっとお前が幸せでいられることを願っているよ」
虚勢を張った、精一杯の言葉だった。我ながら上出来だと思う。
これ以上、引き延ばすのはダメだと言い聞かせ、桜介は「元気でな」と、付け加えると通話を切った。
ポトリとベッドの上にスマホを落下させると、体をシーツに沈めた。
手の甲で目隠しをし、机から注がれる手元灯の灯りを遮って闇を深めた。
梗一の声が耳から離れず、耐えきれなくなって涙を流した。
頬を伝ってはシーツに染み込む雫を拭うこともせず、桜介は静かに泣いていた。
最後の電話なのに、もっと話したかった。
最後に聞く声なのに、もっと話して貰えばよかった。
最後だったから、今すぐ顔を見に行くと家を飛び出せばよかった。
梗一……。
唇の形だけで名前を呼んだ。
もう呼ぶことのない名前を、何度も繰り返していると、ベッドの上に転がしていたスマホが再び鳴った。
——梗一っ!
上半身を跳ね上げ、桜介は急いでスマホを掴むと、画面をタップした。
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