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遥子と以前訪れたショッピングモールに着いた桜介は、ハンバーガーショップの窓際に座る遥子を見つけると小走りで店内に入った。
「ごめん、遥子さん。待たせて」
向かいの席に座りながら、桜介はテーブルの上を何気なく見た。
置かれたトレーの上には、見た感じ、三つはあったであろう、ハンバーガーの包み紙が丸めてあった。
桜介の視線に気付いた遥子が、恥ずかしそうに、でも満足げに「美味しかったから、また食べたかったの」と、笑っている。
「えっと……結構な量だよね? これ、本当に全部、遥子さんが食ったの?」
まさか、やけ食いとかじゃないだろうなと思って聞くと、満面の笑顔でうんと、首を縦に振っている。この表情からして、自暴自棄になった末のことではないとホッとした。
「この間、桜介さんと来た時はどんなものかわからなくて、ひとつしか食べなかったし。しかも、途中で私、帰っちゃったでしょ? だから心残りだったの」
よほど美味かったのか、ニコニコした顔で今度はポテトを食べている。
注文方法も完璧にマスターしたようで、「次は別の店をチャレンジしたら」と、笑って言ったら、そうしますっと、元気な声が返ってきた。
昨夜、梗一と最後の電話を終えた直後、桜介に電話をかけてきたのは遥子だった。
話があるからとここへ呼び出されたけれど、今更、自分に何の話があるというのだろうか。
——ハンバーガーを注文できるようになったと、伝えるため? まさかな。
呑気なことを考えていると、遥子がテーブルに肘を付いて、ズイっと桜介に顔を近付けてきた。
「桜介さんって、梗一さんのことが好き?」
想像もしていなかった質問に息を呑んだ。 瞠目していると、いたずらっ子のように微笑まれた。
「やっぱり。私って、誰が誰を好きなのか分かっちゃうの。自分はまともに恋愛なんてしたことないけれど、引き寄せられちゃうんです。恋する人が可愛くて、生き生きしているオーラ? みたいなのに」
読むのを楽しみにしていた小説のページを開くような、そんな期待に満ち溢れた顔で見てくる。
桜介は頭の中まで見透かされた気がして、誤魔化す方法を考えられなくなってしまった。
動転して目を右往左往していると、
「桜介さんはすぐ顔に出ますね」と、くすくす笑われた。
咄嗟に左右の頬を手で隠したが、この仕草こそが正解ですと、墓穴を掘った。
今まで梗一を気にしているなんて指摘されなかったのに、いつから彼女は気付いていたのだろうか。
動揺を隠しきれないまま、上目遣いで遥子を見ると、今度はゆったりした微笑みで桜介を見ていた。
両手でしっかりジュースのカップを掴むと、もう溢さないからと笑って、ストローを口にしている。
以前、ここへ来た時、手元を見誤ってカップを倒してしまったのは、もしかしたら目の病気が原因だったのかもしれない。
見るものを捉えようと、眸を揺らしていたのも見え辛かったのではと考えられる。
病気のことを知っても、そのことに関しては泣き言を言わなかった。ただ、跡取りになれないことや、祖父からの言葉に傷付いていいたに過ぎない。
遥子は、もしかしたらた見た目と違い、ととても芯の強い女性なのではと思った。
初めて見た時から今日まで、遥子という女性は世間知らずで、お嬢様で、儚げなイメージを勝手に抱いていたけれど、本当は、勘が良くて気丈夫な女性なのかもしれない。
「桜介さん、私が大学を辞めたこととか、目の病気のことを梗一さんに聞いているのでしょう?」
テーブルの上にそっとカップを置く遥子に、ジッと見つめられた。
「聞いてる……よ。せっかく友達になれたのに、もの凄く残念だ……」
心からの本音だった。けれど、隅っこに溜まる埃のように、心臓のことがコロコロといつまでも自分の中に転がっている。
桔平が彼女の命の代わりになって死んでしまった事実は、性能の良い掃除機でも吸いきれずずっと心に居座ったままだ。
「私も同じです。桜介さんとお友達になれて嬉しかった。ご実家にも招待してもらって、知らなかったことをたくさん経験させてもらえた。これもね」
ペロリと食べてしまった残骸を指差すと、うふふと、肩を竦めている。
「うん、俺も同じだ。遥子さんに会えて……本当によかった。京都に行くんだろ? 向こうの大学に編入するの?」
「いいえ。あ、でもいつ目が見えなくなってもいいように、専門の勉強はします。それと、旅館経営のことも頑張ろうかなって思ってる。せっかく他の方の大切な心臓をいただいて生きてるもの、その方の分まできちんと生きて行きたいんです」
どんな心境の変化があったのかわからないけれど、遥子の前向きな発言に救われた。
手術なんてしない方がよかったと聞いた時は、桔平のことを思うと腹が立って仕方なかったけれど、今、目の前にいる彼女を見ても怒りが薄れている自分にホッした。
失明してしまうかもしれないと知ったことも、加味されているだろうが。
それに、実の祖父に、役立たず──なんて思われたら、ヤケになって周りに当たり散らしたくもなる。
「遥子さんは頭がいいからきっと大丈夫だ。俺が保証するよ」
「ふふ。天使の保証をもらったら、私の未来は安泰ですね。それにここにも、小さな天使がいるんですもの、私はちゃんと生きていけます」
そう言った遥子が、自身の胸に手のひらを重ねている。
「天使……」
「そう。……ドナーの人もここできっと見守ってくれてると思います。どんな人だったかは、規則で聞かせてもらってないけれど、お祖父様が言うにはアメリカ人の子どもで、事故で脳死したらしく——」
「アメリカ人? ちょ、ちょっと待って。提供者って日本人じゃないの?」
思わず声を荒げて、遥子の言葉を言下に遮ると勢いよく立ち上がった。
椅子がぐらつき、もう少しで倒れてしまうほどに。
「ど、どうしたの。桜介さん。そんなに驚いて——」
「よ、遥子さんっ。それって本当かっ! アメリカ人の子どもがドナーってっ」
突然大声を出す桜介に驚いたのか、遥子が乗り出していた体を後ろに引いている。
「え、ええ……。あ、でも予定が変わったって父から聞きました。本当は別の方から移植してもらうはずだったけれど、最初の方の心臓より、不慮の事故で突然亡くなったアメリカの男の子の方が、小さかった私の体に適合していたからって急遽、変更したと教えてもらいました。他の条件もピッタリだったから奇跡だって」
──アメリカ人の子ども……。ドナーが急遽変わった……? だとしたら、桜介はどうなったんだ……。どこに行ってしまったんだ。生きているのか、この世にはもういないのか……。
立ち竦んだままの桜介を心配したのか、遥子が「気になるなら、梗一さんに聞いてみる?」と、スマホを差し出してきた。
なぜ、梗一に? と聞き返したいことを表情から汲み取ってくれたのか、
「手術して数日後、梗一さんは渡米してきたの。それで入院していた私にずっと付いていてくれたわ。私が退屈しないように、いつも側にいて、話し相手になってくれたのよ。ひとりっ子だった私は、その時から梗一さんのことを兄のように慕ったてたの」と、嬉しそうに教えてくれた。
桜介は突っ立ったまま、遥子を見下ろしていた。いや、実際には遥子の胸の辺り——心臓を見つめていた。
心臓にいるのは桔平じゃない……。
じゃ、桔平はどうなったんだ……。
遥子のドナーじゃなければ、誰のために命を奪われたんだ。
頭が混乱していると、「桜介さん、座ってください」と、遥子に腕を掴まれた。
「やっぱり、梗一さんに電話してみましょうか?」
「え……桔平に?」
桔平のことばかり考えていたから、つい、名前を口にしてしまった。慌てて訂正しようとしたら、「あら、懐かしい名前」と遥子が、うふふとまた笑っている。
「なつか……しい?」
「ええ。今、桜介さんが間違って言った、桔平って名前は、梗一さんの前の名前だもの。小さい時は、たまにその名前を呼んで梗一さんを揶揄ったりしたわ。桜介さんのお知り合いにも、同じ名前の人がいるのね」
耳に膜が張ったように、遥子の声が遠くから聞こえる。
脳天から全身に稲妻が突き抜けたような衝撃を受け、髪の毛が逆だったような感覚に襲われた。頭を打たれたような打撃で一瞬、意識が飛びそうだ。
桜介は瞬きも忘れて遥子を凝視すると、感電したように小刻みに体を震わせていた。
──今、何て言った? 梗一の名前が桔平……?
「よ、遥子さん。な、名前を変えたってどう言うこと? きょ、梗一は桔平って名前だったのか?」
桜介は叫びながら遥子へと前のめりになり、細い肩を掴んでいた。
周りにいる客が訝しげな視線を送ってきても、そんなものは眼中にない。
今は、遥子から続きの言葉が欲しい。
「え、ええ。お祖父様に名前を変えるよう言われたって、梗一さんが言ってたの。なぜ名前を変えるの? って聞いたら、桔平はもういないからって言ってたわ。その意味が私にはわからないけれど、外国の人が発音しにくいのかなって単純に思ってました」
桔平が生きて……いた。しかも……梗一が桔平? ほ……んとう、なんだろうか。
もし、それが本当なら、こんなに嬉しいことはない。
動揺した体をおとなしく椅子に預けると、安心したのか、それでねと、遥子が楽しそうに話しの続きを語り出した。
「梗一さん、私が入院している側で、新しい名前を一生懸命考えていたの。なんだか私はワクワクしちゃって、一緒になってタブレットで名前を探そうとしたら、下の名前はもう決めてるって言われちゃって。『梗』って漢字をどうしても使いたいって。でも、その漢字を使った名前が分からなかったから、一緒にネットで探して『梗一』に決めたのよ。あ、苗字は私が考えたのよ、梗一さんが何でもいいって言うから」
当時のやり取りを思い出しているのか、遥子が、その時の梗一の様子を嬉しそうに話してくれる。
「出会った頃の梗一さんて、人見知りで無口で。私が話しかけても、もじもじして頷くことが殆どだったけれど、『梗』の漢字を使うって話してた時は、別人みたいにハキハキしていたのよ。漢字に何か思い入れがあったのかしらね」
「漢字……」
——梗一、梗一……。梗……きょう、きょう……。
口腔内でぶつぶつ言いながら、桜介はテーブルの上に人差し指で『梗一』と何度も見えない文字を書いた。
三回目に綴った時、見えなかったはずの文字がくっきり浮かび上がり、桜介は胸が詰まる思いにかられた。
梗一の『梗』と、桔平の『桔』と並べると『桔梗』と言う花の名前になった。
桜介は桔平と朔羅、唯志と四人で名前の話をしたの幼い頃を思い出した。
朔羅は『さくら』だねと言ったら、桜介は苗字にも梅が入っていて美しいねと朔羅が言ってくれた。そして、桔平の名前には『桔梗』と言う花の名前が入っていると。
朔羅は秋の花で、凛として美しいのだと、桔平に教えていた。
——梗一はそれを覚えていて、この漢字を使ったのか。
その時桔平は、唯志の名前のことを桜介に耳打ちしてくれた。
柾貴唯志って、苗字も名前みたいだねと。
その時の桔平の顔は照れながらも、本当に嬉しそうだった。
当時のことを鮮明に思い出し、涙が溢れてきた。
潤む眸を遥子が不思議そうに見つめてくるから、鼻水を啜って、エアコンよく効いてるねと誤魔化した。
「見送りに来てね、桜介さん」
喜びで打ち震えていると、唐突な遥子の言葉に目を見開いた。
「見送……り?」
「そう。週末には引っ越すから、最後に桜介さんに見送りに来て欲しいの。いいでしょ? 友達の最後のわがまま——ううん、私の前途を祝してくれませんか? 見送りの場所はもう決めているの。私の家の近くに川があって、そこの河川敷で待ってて欲しいんです。その場所は遠くに電車が走っていて、遮る建物もあまりないから見晴らしがとてもいいの。そこで最後にお別れがしたいんです。桜介さんには本当に感謝してるから、最後にお礼が言いたいし」
返事に迷っていると、お願いねと、時間をしっかりと伝えられてしまった。
「じゃ、私はもう行きます。桜介さん、楽しい思い出をたくさんありがとう。お互い、頑張りましょうね。それじゃ、週末に」
スッと立って遥子がダストボックスにゴミを捨て、トレーを所定の位置に戻している。
ファーストフード店のシステムをすっかり覚えた姿をぼんやり眺めていると、にっこり笑って手を振ってくれた。
慌てて振り返すと、遥子は弾む足取りでもう店の外にいた。
前と違って、今度はしっかり彼女の後ろ姿見送ることができ、安堵した桜介は重い荷物を下ろすよう椅子に座った。
まだ信じられない。
梗一が桔平……。それは本当だろうか。
自分達の過去や雨宮が絡んでいるカナリア園のことを、遥子は知らない。だから、これ以上彼女に確かめることは無理だ。
手っ取り早いのは、梗一本人に聞くのが一番早くて確実だ。
見送りに来て欲しいと言った遥子の言葉に便乗し、桜介は最後に梗一と逢える機会に本当のことを聞いてみようと思った。
——梗一。本当にお前は桔平なのか……。
心の中で問いかけた時、ふと、梗一が桔平なら、なぜ本当のことを桜介に言ってくれなかったのだろうかとよぎった。
名前を無理やり変えさせられたことも気になる。
素顔を知られたくなかったのであれば、梗一に聞くことは憚れる。このまま、知らないフリをして別れた方がいいのではとさえ思ってきた。
西陽が差す窓辺の席で頬杖を付き、桜介は泣きそうな気持ちを眩しさに目を眇めることでやり過ごした。
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