5/7
前へ
/46ページ
次へ
 額に汗を滲ませつつも手にした戦利品を見つめ、桜介は達成感に満足していた。 「八十の白い朝顔も買えたし、朔羅さんの分は発送頼んだし、中々いい買い物したな」  人気の少ない場所に避難し、桜介は側にあった車止めに腰を下ろしてスマホを取り出した。  アルバムを開き、土産話し用に撮った写真をスクロールしていく。  写真の中の朝顔達は、艶やかで生き生きとしていた。でもやはり賑やかな雰囲気と、鮮やかな花達を堪能するのは現地に来てこそだと、八十達と一緒に味わえなかったのを残念に思っていた。  活気に満ちた空気に包まれる中、孤独に絶えかねた桜介は、帰りの電車の時刻を調べようと視線をスマホに向けたとき、口論しているような声が耳に飛び込んできた。  雑多の中から乱暴な声がした方へ意識を向けると、ガタイのいい男が声を張り上げて怒鳴っていた。  何かに向かって声を荒げている様子は、桜介の位置でも伺い知れたが、相手は男の影になっていて見えない。  遠目にも男が怒りに任せ、言葉を捲し立てているのが分かるけれど、側にいる通行人はかかわりたくないのか、そそくさとその場を立ち去り、男のがなり声だけが辺りに響いている。  思うより先に体が反応していた桜介は、仲裁を試みようと男に近付いてみると、見覚えのある浴衣が目に飛び込んで来た。  花紺青に片蝶結びの帯が揺れ、地面には買ったばかりの白い朝顔が倒され、鉢からは土が溢れている。項垂れている女性は、声を出すことも出来ないほど怯えているのが分かった。  行き過ぎる男の行動は勢いが止まらず、華奢な手首を掴んだその瞬間、桜介が女性を隠すように男の前に立ちはだかった。 「女の人に乱暴はよくないんじゃないですか」 「何だ、お前!」  相手の顔を見据えた桜介は、背も身幅も自分より一回り以上も大きい体格に気後れしそうになった。だが怖気付く気持ちは振り払い、女性を庇うように両手を広げて見せた。 「な、何があったか知りませんけど、この人が怯えてますよ。落ち着いて話しを——」 「うるせー! お前誰だ。関係ないもんは引っ込んでろ!」  剥き出しの感情をぶつけてくる男が、掴んだ細い手首に一層力を込め、桜介の背後から女性を引き摺り出そうとしている。 「い、痛っ!」  苦痛に歪ませた顔を目の端で捉えた桜介は、敗戦を覚悟で男を睨み上げた。  握り締めたこぶしが小刻みに震え、見下ろしてくる眼光に尻込みしそうになる。それでも背中で震えている弱者を救おうと、負けじと凄んでみた。 「いい加減にしろ! その手を離せ!」  強引に男の手から女性を引き離そうと、果敢に挑もうとしたが簡単に胸を突っ撥ねられ、桜介はフラついた体を足で踏ん張ってなんとか倒れずに済む。 「じゃあ、お前がこれ弁償してくれんのか!」  釣り上げた目で男が自身の胸元を見せつけるよう、来ていたシャツを摘んでいる。 「こ、これって——」  無骨な手が握っていた白いシャツに、ほんのりとピンクの唇の跡が転写されているのがわかった。 「この女がぶつかって俺の服につけたんだ」  正当な理由だろうと言わんばかりに、男が鼻の穴を膨らませて踏ん反り返っている。 「ご、ごめんなさい。わ、私……」  怯える女性を再び背中に隠し、怯む気持ちを抑えて盾になりながら顔をクイっと男に向けた。 「そんなのわざとじゃないだろ。謝ってんだから許してくれよ」 「はあ? 謝っただけで済むと思ってんのか。俺はを見せろって言ってんだよ」  鼻先で笑いながら、男がこれ見よがしに桜介を見下ろしてくる。 「せ、誠意って何だよ」 「誠意は誠意だ。言わなくてもわかるだろ」 「あ、あの……私、今少ししか持ち合わせなくて……」  カバンから出した財布を手に、か弱い声で男の求めるを何枚か差し出そうとしている。 「それっぽっちじゃ足りないな。俺をバカにしてんのか!」  大声で威嚇する男に、握り締めた二枚の千円札が小刻みに震えている。  怯える指先を見た桜介の怒りが再燃し、札を握り締める手を男から遮った。 「シミ取りなんて二千円もあれば十分だ! それ以上脅すなら警察を呼ぶぞ」 「兄ちゃんえらく威勢がいいじゃねーか。女の前だからカッコつけてんのか」  矛先が桜介に向けられ、容赦ない男の手が胸ぐらを掴んでくる。首元を締め上げられ、込められた腕の力と身長差でもがく桜介の肩に手が触れ、女性が恐る恐る声を発した。 「あの、車に行けばもう少しご用意出来ますので。その方を離してくださ——」  男の攻撃を制止させようと女性が嘆願した時、傍観していた誰かが警官を呼んでいたのか、「こっちです!」と声を張り上げてくれた。 「おい! 何やってる!」  ホイッスルがけたたましく響き、桜介達の元へ二人の警官が駆け寄って来た。 「ちっ! めんどくせー」  騒動を一蹴できる制服を目にした男が、舌打ちすると早々にその場を退散してしまった。一人の警官が迷うことなく後を追いかけて行く。 「大丈夫ですか! 怪我は——」  桜介達に声をかけてきたもう一人の警官が、無事を確かめようと側までやって来た。 「俺は大丈夫です」  無事を答えた桜介の陰で、まだ震えが止まらない女性がゆっくりと顔を出した。 「私も……大丈夫……です」  無事なことを伝えた女性を見て安堵した警官が、桜介に目を向けるとほんの僅かだけ眉間にシワが刻まれた。  自分が何かしたのかと不安になった桜介に、眼鏡が映える精悍な若い警官は数秒言葉を詰まらせると、「良かったです」と言って笑ってくれた。  男の仲間にでも思われたか? と一瞬思ったけれど、警察官特有の眼光なんだと思えてホッとした。   「助けてくれてありがとうございます」と、深々と頭を下げる女性に恐縮し、桜介は「あ、いや。俺は何も——」と、ぎこちない返事をした。  警察官が来てくれたことは、桜介にとってもホッとしたことなのだから。  顔を上げた女性が丸い眸で桜介をジッと見てくると、眼鏡の警官が女性の方へと歩み寄って来た。 「怪我がなくてよかったです。でも、今日はもう帰った方がいいでしょう。さっきの男にまた鉢合わせでもしたら面倒ですから。お二人とも駅まで送りましょう」  無線で何か伝えた後、警官が桜介達に危険を促し帰宅を提案してきた。 「そうですね、わかりました。でも、この方は車で来られたようなので、お巡りさん、すいませんが彼女を駐車場までお願いします。俺はひとりでも平気なので」  返事をしながら桜介は、ふと足先に触れるものに視線を向け、その場にしゃがみこんだ。 「あ、すいません。ちょっと待ってください」  駐車場へ向かおうとする二人を引き止めると、桜介は屈んで倒れた朝顔の鉢をもとに戻そうと土をかき集めた。  女性と目が合うと、と踵を返し、屈んでいる桜介の元へと駆け寄って来た。 「ああ、ごめんね。ちょっと待ってね。もう少しで……」  手で土を何度も掬い、桜介が溢れた朝顔の鉢を元通りにした。 「……すいません」  女性が申し訳なさそうに告げた時、遠くから駆け寄る足音が聞こえ、桜介が顔を上げると、白い朝顔の前で見たさっきの彼が血相を変えた顔でやって来た。 「遥子さんっ、大丈夫ですかっ。何かあったんですか」  不穏な雰囲気に何かを察したのか、息を荒げる彼が心配そうに女性の側にやってきた。 「梗一さんっ。あの、この方が……」  女性の言葉で彼が桜介を見下ろしてきた。 「……これは、どう言う……」 「この方が助けてくれたんです、私が、その、怖い人に絡まれているのを。朝顔も倒れちゃって。でも、この方が鉢を——」  全てを言わなくても彼に伝わったのか、桜介と同じように屈んでくると、一緒に溢れた土を掬い上げている。 「あの、手……汚れますよ」 「あなたこそ、汚れてるじゃないですか」  至近距離で見据えられ、桜介は間近で見る彼の虹彩に魅入ってしまった。  「い、いや、手は洗えば済むから……。さ、出来た」  平常心を装うよう、元に戻した朝顔を眺めていると、軽く土を払ってリュックからペットボトルを取り出した。  アスファルトの熱でカラカラになった土に、残っていた水を注ぎながら「お前も喉渇いたろ」と安堵の笑みを浮かべた。  何とか原型に戻した鉢を、桜介は彼に差し出した。    「あ、ありがとうございます……」  細くて長い指で鉢を受け取る彼が、眩しそうに目を眇めながら礼を言ってくれる。逆光だったかなと桜介は振り返ったが、眩しくも何ともない。  なぜ彼があんな表情になったのかなと思いながらも、二人同時に気に入った白い朝顔が無事なことが嬉しく、桜介は「朝顔、満開になるといいですね」と言い添えた。 「駐車場まで送ります、行きましょう」  待機していた警官が眼鏡のフレームをクイっと持ち上げ、二人を誘導した。 「……わかりました」  警官と共に去って行く後ろ姿を見送っていると、彼が不意に振り返り、桜介に向かって深々と頭を下げてくれた。  体を起こした双眸と視線が絡まると、桜介も会釈を返した。  遠くなる背中を見つめていると、なぜか警官の視線がこちらに向いている気がしたが、それは正義感特有のものだとさほど気にも留めなかった。    駅まで歩く道中も、レフ板のように反射する日差しが額に汗を滲ませてくる。  袋の中でカサカサ揺れる白い朝顔に視線を向けると、間近で見た彼の眸を思い出してしまった。  穏やかなのにどこか寂しげな色に見えた眸がなぜか気になり、彼の指先で揺れていた花が鮮明に蘇る。  触れた指先がひんやりしていたなと振り返ると、不意に、温もりを分け合うよう小さな手を温めあっていたことを思い出した。    何年経っても忘れることなどできない、大好きな笑顔。  ほのかに草いきれが漂う中、烈々とした入道雲の湧き立つ青い空を見上げると、頭上に降り注いできそうで、地球上にひとりぼっちになった気がする。  儚い季節が繰り返し訪れ、また去ってゆく。どの季節にも彼だけがいなくて、自分だけが取り残されたまま生きていくことに泣きそうになった。    
/46ページ

最初のコメントを投稿しよう!

58人が本棚に入れています
本棚に追加