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「はー、急に雑用頼んでくるんだもんなあ、教授は。マジで今日バイトなくてよかったよ。これ絶対遅刻になってたわ」  段ボールを抱えながら、大きな独り言を言う桜介の横顔に、慰めるよう夕影が撫でてくる。  昼間の熱射とは違い、肌に感じる温度に少し心地よさを感じた。  小夜に奢ってもらったオムライスは大盛りで、まだ胃袋に留まっているように感じる。腹ごなしに労働はちょうどいいかと、雑用を引き受けた。  教授からの頼まれごとは今日に始まったことではなかったが、嫌ではない。むしろ、尊敬する相手から頼りにされたと思えて嬉しい。  書庫までの道のりを三回繰り返していたら、歩く廊下には長い影が伸びていた。  夕間暮れの気怠さを味わいながら、り朦朧とした思考で最後の荷物を書庫に運びながら大きな欠伸が自然と溢れる。  あくびの原因は、昨夜遅くまで課題をしていたせいだ。  ——眠い……今なら十秒で寝れるな……。  指定の場所に箱を積み終わり、桜介は預かっていた鍵でドアを施錠した。 「鍵返してさっさと帰って寝よう」  手のひらから鍵を(くう)に投げては掴むことを繰り返し、桜介は教授の部屋まで到達すると軽快にノックを響かせた。 「失礼しまーす。柏木(かしわぎ)教授終わりまし——」  ドアを開けると同時に声をかけ、桜介が部屋の中に入ると、ソファに座る先客の背中が目に入った。 「お、桜介か。悪かったね」 「す、すいません。お客様でしたか」  慌てて頭を下げ、恐縮しながら顔を上げると、振り返った人物の顔を見て思わず息を呑んだ。 「あ、あなたは……」 「あ、朝顔の!」  そこにいたのは、朝顔市で男に絡まれていた女性——と、だった。 「何だ、君らは知り合いか?」  驚いた顔の柏木に気付き、桜介は「あ、いえ……」と雷に打たれたような衝撃を誤魔化した。  もう会うことなどない——そう思っていた人物が目の前にいる。  女性の隣に座っていた彼が、桜介のいるドアの方へ体を少し傾け、朝顔市で見た時と同じように穏やかに微笑んでいた。 「顔見知りなら丁度いい。桜介に頼もう」  えびす顔のように目を細めながら、柏木が椅子から腰を上げると、ループタイにレトロなボタン型のアグレットを揺らしながら、桜介を二人の前に座らせた。 「……柏木教授、あの——」  ふくよかな体型が作ったであろう合皮のソファの定位置は、まるで柏木以外を受け付けないと言わんばかりに大きな窪みに仕上がっていた。  柏木の体重を精一杯受け止めるようソファが鳴くと、彼の体が深く沈んでいく。桜介の体が柏木の方へと傾くほどに。   「彼女は雨宮(あまみや)遥子(ようこ)さんと言って、僕の大学時代の先輩のお孫さんなんだ。二週間程前にアメリカから帰国したばかりなんだよ」 「はあ……」  いまいち合点のいかない桜介は、柏木の言葉に首を傾げながら続きの言葉を待った。 「で、彼は遥子君の、えー付き人? いや違うか。家庭教師……でもないか。ま、彼は都倉(とくら)梗一(きょういち)君と言ってね、遥子ちゃんと一緒にアメリカから戻った青年だ。遥子ちゃんの教育係みたいなもんかな。で、頼みと言うのはだね、明日からこの学校に編入する二人が学校に……いや日本に慣れるまで、一緒にいてやって欲しいんだ」 「えっ!」  意表を突く柏木の申し出に、困惑した気持ちを思いっきり声に出してしまった。 「おじ様、私は大丈夫ですよ。梗一さんも一緒だし、この方にもご迷惑ですから」  桜介の気持ちを悟ったかのように、遥子と言う女性が即座に申し出を断ろうとした。 「ダメだよ、遥子ちゃん。僕は雨宮さんからくれぐれも頼むって言われてるんだ。あの人の命令は絶対だからね」 「でも……」 「君が幼い頃の日本と違って、最近は外国に引けを取らないほど危険なこともあるんだ。しかも君は五歳で渡米したんだ、日本は知らない国と言っても過言じゃないよ。梗一君だって似たようなもんだ、日本よりアメリカの方が長かっただろう」  柏木の言葉に梗一と呼ばれた彼が、苦笑いを浮かべていた。  押しの強い柏木と当惑する二人との間で、桜介は口にせざるを得ない言葉を自然と吐き出していた。 「あの、俺でよかったら構いませんよ」  柏木に反論出来ずにいる彼らを見かね、桜介は快諾を口にした。 「そうか! 桜介ならそう言ってくれると思ったよ。ありがとう、助かるよ」 「おじ様!」  えびす顔の目が益々垂れ下がるのを見届けると、梗一が小さな溜息を溢しているのを目の端で捉えた。  柏木が口にした二人の関係性だと、遥子を差し置いて彼が意見を言えないことがわかる。  もしかしたら余計なお節介かと思ったが、自分の判断を疑ったが、この場が丸く収まると思って手を上げてしまった。 「桜介、遥子ちゃんは高校で既に大学の履修科目を習得して大学に入学し、高二で卒業した超エリートなんだよ。この学校では君の一学年上の三年生に編入することになる」 「それは……凄いですね」 「なのに日本の学校でも勉強したいって言うもんだから、こちらとしては受け入れるしかないよね、こんな優秀な生徒は。梗一君も負けず劣らず優秀なんだ。彼さえよければ院生になるよう勧めたいほどにね」 「も、もうやめて下さい。私はただ日本が好きで……アメリカにいた時からずっと、日本の学校に通いたかっただけですから」  白い頬を真っ赤に染める遥子が、柏木の言葉責めに首を横に振って謙遜を見せている。彼女の仕草は決して嫌味でなく、純粋に日本の学校に憧憬を持っているのだと伝わってきた。  なら、梗一も同じだろうかと気になてしまう。  遥子とは特別な関係で、彼女の側にいたいのか、それとも彼も柏木と同じように雨宮氏からの命を受けて、孫娘と同じ大学に編入しただけなのか。  勝手に梗一の心情を想像して、はたと気付く。  自分はなぜ彼のことをこんなに気にしているのかと。 「照れなくていいよ。優秀なのは変わりないんだ。それに他の学生のいい刺激になるよ。な、桜介」 「そうですね」  話の矛先を向けられ、桜介は簡単な言葉で返事をした。  頭の中では梗一の境遇が気になって仕方がない。 「おや、もうこんな時間か。桜介、早速で悪いけど二人を駐車場まで送ってくれないか。一度しか来てないんだ、迷子になったら困る」 「はい、わかりました」  柏木からの初仕事を仰せつかった桜介は、早々にソファから立ち上がると、軽く会釈をして扉を開けると先に廊下へと出た。 「……申し訳ありません」  平身低頭な態度を醸す梗一から声をかけられ、桜介は動揺した笑顔を返した。 「いいよ。それじゃ、行きましょうか」  教授室を出ると宵闇で染まった長い廊下を、桜介は気まずさを抱えながら歩いていた。 「あの……」  梗一が背中へと声をかけてきた。 「はい」  振り返ると、申し訳なさそうな梗一の目と合った。 「あの時は、ありがとうございました」  折り目正しいお辞儀をされ、桜介もつられて深々と頭を下げた。 「あ、いや、でも俺、あまりお役に立てずで……」  朝顔市の出来事を回想し、結局のところ最後は警察官のお陰で事なきを得た始末なのに、頭を下げられると恐縮してしまう。 「あなたが助けてくれたおかげで、遥子さんは無事でしたから」  初めて見た時と同じ、玲瓏(れいろう)な微笑みを向けられた。 「いや……あ、そ、そう言えば朝顔は元気ですか」  取り繕うように話題を変え、焦る気持ちを誤魔化した。 「はい! あなたが元に戻してくれたお陰で、あれから蔓がグングン伸びて、今朝も一つ花を咲かせたんですよ」  さっきから無言だった遥子が、よほど嬉しかったのか、顔いっぱいに喜びを表して一歩前に足を踏み出してきた。    無邪気に応える姿を微笑ましく思いながらも、彼女を包み込むような眼差しで見ている梗一を目の端で捉えた。  二人は恋人同士なのかもしれない。そう思えるほど、彼の眼差しは優しげだった。 「それはよかった。あ、駐車場まで無事でしたか? 因縁つけてきた男が追いかけてきたりしませんでしたか」 「はい。警察の方が車に乗るまで見守っててくれましたから。ね、梗一さん」  遥子の歩調に合わせる梗一に、彼へと満面の笑みを向ける遥子。    ——教授、これって俺はお邪魔なんじゃないですかっ  心の中で叫んでみたものの、そう言うわけにはいかない。彼らは日本に不慣れなのだ。自分でよければ慣れるまでは助けになろうと、苦笑混じりに決意した。 「ならよかったです。もしかしてあの男が追っかけて来たんじゃないかって、気になってから」 「優しんですね、えっと……」 「あ、梅原。梅原桜介です。梅の花と桜に介で桜介。教育学部の二年です」  二人の前を歩いていた桜介が立ち止まって二人に名前を告げた。  外国に長らくいた相手には、同時に握手もするのかなと逡巡していると、目の縁が切れるんじゃないかと思うほど梗一の目が見開かれ、虹彩が揺れているのがはっきり見て取れた。 「うめ……は——」 「梅に桜! なんてきれいな名前なのかしら。ね、梗一さん」  梗一の声を遮るよう、遥子が手を叩いて喜んでいる。  自分の名前に過剰な反応を示したように見えたが、遥子に、そうですねと穏やかに受け答えをしている梗一を見て、気のせいかと思い直した。 「ありがとう。前にも同じことを言ってくれた人がいました、君は三人目だ」 「まあ、そうなんですか。とても日本らしいお名前ですもの。ね、梗一さんもそう思わない?」  遥子に話をふられた梗一が小さく頷くと、 「……梅も桜の花も見る人を癒してくれる素敵な花です。梅原さんの人柄を表しているようですね」  遥子への回答なのに、梗一の視線は桜介に向いていた。それは普通のことだとは思うけれど、真っ直ぐ見つめながら言われると、妙な気持ちになる。 「本当に。きっと名付けたご両親は、梅原さんにもそうなって欲しいって願って名付けたんでしょうね。素敵なご両親です」  ——素敵な両親……か。本当にそうならどれだけいいか。  もう顔もはっきり覚えてない、他人のような名前だけの家族。本当にそんな願いが込められていたら、どれほど救われた気持ちになっただろうか。  優しかった母の記憶は指を折るのも片手で足り、父に至ってはゼロだ。  カナリア園で過ごすまでの桜介には、当たり前の安寧すらなく、毎日食べ物のことばかりを考えていた気がする。  僅かに顔を曇らせてしまった桜介は、伺うように見上げてくる遥子の視線を見つけると、慌てて口角を意識して上げた。 「……そうですね。あ、そう言えばお二人の学部を聞いてもいいですか」 「あ、私は国際学部の三年生です。で、梗一さんが経済学部の二年です」  梗一の分まで答えたからか、本人は黙ったまま微笑んでいた。 「三人とも学部はバラバラですね、あ、でも梗一——あ、と……都倉さんでしたっけ? すいません、名前呼びしちゃって。あの、同じ経済学部に俺の親友がいるんで、今度紹介させてください」  遥子が呼んでいたからか、つい、下の名前で呼んでしまった。  図々しいやつだと思われたかもしれない。頭の中で冷や汗をかいていたら、「梗一でいいですよ」と、反省を吹き飛ばすようなとびきりの笑顔をくれた。  言葉にできない嬉しさがなぜか込み上がり、「じゃ、俺も桜介で」と、調子に乗って言ってしまった。 「じゃ私も桜介さんって呼んでも?」 「もちろんです。雨宮さんの方が学年が上なんで呼び捨てでもいいですよ」  冗談めかしに言うと、歳は下なんですよと、頬を膨らました顔が返ってきた。可愛い仕草も梗一にとってはかけがえのないものかもしれない。その証拠に彼女のことを見つめる目はとても穏やかだ。  反対に桜介の胸が騒つく。おまけにモヤっともしていた。  名前のない感情に戸惑っていると、いつの間にか廊下の終点に来ていた。 「このまま真っ直ぐ行けば正門です。で、ここを右手に曲がって少し歩くと駐車場に着きます。えっと、きょ……梗一さんが運転するんですか」  名前を意識して、ぎこちない言い方になってしまった。  桜介の動揺など気にすることなく、梗一がそうですよと、微笑んでくれた。 「登校は来週からですよね? もし分からないことがあったら、いつでも言ってください」  なんて言いながら、偉そうだったかなと思っていると、目の前にスッとスマホが差し出された。 「……あの、桜介さんの連絡先を教えてもらえますか」  唐突な申し出に一瞬ドキリとしたが、それもそうかと思い直す。  自分から尋ねなければいけなかったのかなと、自省した。 「すいません。俺から聞かないと行けないのに……」  互いの眸に映り込んだ表情を意識しながら、桜介は自分もスマホを取り出すと、梗一と連絡先の交換を完了させた。 「……ありがとうございました。初めて来た場所なので、無事に駐車場に戻れるか不安でしたから。これからもよろしく……お願いします」  丁寧なお辞儀をされ、慌てて桜介も、こちらこそと頭を下げた。 「桜介さん、じゃまた来週。ごきげんよう」  普段耳にしない挨拶をされたからか、梗一の視線が気になったから、桜介はぎこちなく手を振ると、「ま、また来週」と、裏返った声で別れを告げた。  何となくこの場を離れ難かった桜介は、ゆっくりと正門まで歩いた。  門を出る前、駐車場の方を振り返ると、肩を並べて歩く二人の姿を見えた。  夏の宵にささやかな繊月(せんげつ)の光が二人に降り注ぎ、彼らだけの世界を作り上げているように思えた。  風が木々の梢を揺らすと、心地いい音が夜空に棚引いた。  夕暮れのキャンパスはいつもと同じ景色のはずなのに、今日はどこか違って見える。  これまで冗談半分で口にしていた、『運命』と言う(てい)のいい断り文句。今、わけもなく二文字の言葉に導かれている自分がいた。    
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