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今朝早く、隣の部屋の魔法使いが引っ越していった。
律義に頭を下げて、お世話になりました、なんて使い回しの定型句。
それに対して、あーどうもこちらこそ、1ミリも思っていない上辺だけの返事。
アパートから歩き去っていく後ろ姿を、寝起きの頭でぼんやり見送った。
立て付けの悪い玄関ドアから解放されていいな、ぐらいにはその背中を羨ましいと思った。
まともに言葉を交わしたのは一度だけ。
夜遅くに帰宅したら、ドアの前で転がっててぎょっとした。
あまりに酒臭かったし、とんでもなく寒い夜だった。
もし翌朝死んでたら、なんて不吉な想像にかられてその背を揺さぶった。
ぱかりと開いた目、部屋にのそのそ入っていく際にありがとーございます、お礼にSNSのアカウント教えます、なんて呂律の回らない口調でゴミみたいなお礼を押し付けられた。
自分の部屋に入って、暇つぶしに起動したアプリ。
SNSのアカウントなんて、自分が見る限り大抵ダルいプロフィールしか書いてない。
ほら、『都内住み。魔法使いやってます』とか書いてあるし。
写真はブレてるかピンボケしてるのが大半だったし(写真ヘタクソかよ)。
誰かのカメラロールを覗き見してる気がしてソッコーで見るのをやめた。
ただそのときの、都内住み、から始まる一文が額に半押しされたみたいに記憶に焼き付いている。
デスクのパソコン、目線の高さに貼りついてる付箋をぼんやり眺める。
挨拶されたのは今朝のことなのに、そういえばもう顔も思い出せない。
おっさんだったのか、若い男だったのか、それとも女だったのか。性別すら不明。
昼休みになったので屋上に出た。風が強い。
咥えている煙草を吸い終わったら、あの人のことをたぶん存在ごと忘れるんだろう。
隣の部屋から魔法使いはいなくなった。
自分の日常はこうして少しも変わらないのに。
置いて行かれたような寂しさは、きっと錯覚でしかないんだ。
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