恋と夕陽は西に落ちる

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恋と夕陽は西に落ちる

 私こと西野(にしの) (かなえ)には悩みの種があった。  齢三十一となって独身を貫いていた私に、突如として春が訪れたのだ。  心の奥底で埋もれたままだった恋慕という種は、ある日を境にめきめきと成長し芽を吹かせてしまった。  それはまさに春先の事だった。鳴かず飛ばずの小説家として何とか生活していた私は、行きつけのカフェ『エトワール』で朝から昼まで執筆活動に勤しんでいた。  そのカフェは店内が広い割りにさほど人入りもない理想的な環境にあった。  しかし、程なく新商品として打ち出されたが大反響を呼び、暇を持て余す奥様方や女子高生の社交場へと姿を変えてしまったのだ。  そうして私は追い出される形で行きつけの喫茶店を失ってしまった。  途方に暮れている間もなく渡り鳥の様にカフェを巡っていると、エトワールの近くに古びた喫茶店を見つけた。  木造の古臭い外観に『喫茶メトロノーム』と簡素な字体で店名が掲げられ、仄かに珈琲の香りがしてようやく営業中だという事が分かった。  普段なら見向きもしないであろう店だったけれど、安息の地を求めて彷徨っていた私は、一縷の望みをかけてドアを引いた。    真鍮のベルがリンと透き通った音色を奏でる。 中に踏み入ると落ち着いた空間が広がり、静けさを纏ったマスターとカウンター越しに目が合った。 「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」  深い森の陰を思わせる雰囲気の彼が、腹の底まで響く声で私に向けて言葉をかける。  次の瞬間、(いかずち)が頭からつま先まで駆け抜けていくかのような感覚に襲われた。  激しく心臓は鼓動を鳴らし、瞬く間に体温が上がっていくのを感じる。  自分から出た物だとは疑わしいほどしおらしい声で「はい」とだけ答え、思考が纏まらないままテーブル席へと着いた。  これがだと気が付いたのは、毎日通う様になってニカ月ほどが経過してからだった。  
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