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「……彼氏とは何年付き合ってたんだっけ?」
僕はジントニックを飲み干した後にチヒロに訊いた。
「今年で十年でした」
でした、と過去形で言う。過去形で言うほど吹っ切れてないように見えるけど。
「どうして、連絡取れなくなったの」
ふーっ、とチヒロが長い溜息をついた。
「……言わなきゃいけませんか?」
「うん。君は僕の相棒だから」
「アキトシ先輩は上司でしょう?」
「僕はそう思ってないよ」
「上下関係なしで話せってことですか?」
「そう」
「……困っちゃうなあ……」
そう言ってチヒロはカクテルグラスのプレートを指で押さえ、肩をすくめた。
「……私、人に弱みを見せるの苦手なのに」
チヒロは、とつとつと彼氏との経緯について話し始めた。彼は同窓会で再会した同級生で、二人とも仕事が忙しかったけれどお互いに支え合っていたこと。この三か月で様子がおかしいと思ったら、最後は電話にも出てくれなくなり、全く連絡が取れなくなったこと。そして、その理由は、彼が他の女性と結婚していたから、というものだった。
「彼が結婚してるって、誰から聞いたの?」
「……誰だと思います?」
「共通の知り合い? ……偶然見たとか?」
「残念。違います。私に手紙が届いたんですよ。私は彼と結婚しています、手を出さないで、って」
僕は呆れて言葉が出なかった。
「酷いな……そんなことがあるのか……⁈」
「ありました。少なくとも、私には」
チヒロは笑っているが、目の奥がうるんで来るのが見えた。
「出ようか」
店の中で泣くなんて彼女には似つかわしくない。僕はすぐに席を立った。
「先輩すみません、気遣わせちゃって」
「こういう時まで気を遣わなくていいのは君の方だよ」
店を出て階下に降りるエレベーターの中で彼女は涙を零した。
「あーあ、先輩にこんな姿見せたくなかったのにな……いい年して失恋なんて」
チヒロはうつむき、大きな目を伏せて口だけで笑ってみせた。
「悲しい時は泣けばいいし、嬉しい時は喜べばいいし……年齢は関係ないよ」
「そう……かな……」
「そうだよ」
彼女をハグして背中をゆっくり叩いた。子供達にそうするように。
「っ……!」
しばらくすると、チヒロは堰を切ったように、僕の胸で泣きじゃくった。
「私が……悪いところがあれば、直したのに……! 何で、話も出来ずに……電話にも出てくれないの……!」
もう連絡が取れない彼への言葉を、泣きながら言う彼女がとても小さく頼りなげに見えた。こんなに感情を溜めていたなんて。
キリッとした印象の香水が今のチヒロにはひどく似合わない。
大人になればなるほど、簡単に泣くこともできないし、弱音を吐けない。ましてや長く付き合った相手をこんな形で失うなんて、悲劇以外の何だというのだろう。
チヒロはこうやって泣きじゃくる相手を失った。
これからは誰に聞いてもらうんだろうと思った時に、他の男は嫌だな、僕ならこんな風に泣かせないのに、とよぎってしまって焦る。
僕は既婚者だ。
そんな事を思う権利は無い。
だけどチヒロが本音を言って弱音を吐いて泣きじゃくる相手に僕はなりたい。そのくらい同じ時間を共有して仕事で大変な事も乗り越えて来たはずだ。
「すいません……先輩……こんな……」
チヒロはまだそれでも一人で立とうとする。
「もういいよ、もういいんだ。僕の前でくらい無理するなよ」
彼女をきつく抱きしめた。チヒロは僕が思うよりも華奢で、この細い肩でどれだけ経営者として人の負わない責任を引き受け、寂しさを乗り越えてきたのかと思うとやるせなかった。
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