5 沈黙の理由

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5 沈黙の理由

 船の旅は数ヶ月続いた。途中で様々な国に立ち寄って、色々な人や建物、動物や食べ物を見た。これだけの日数をかけて魔女の一族を探し求めたと思うと目眩がしそうだ。そうしてきた時と同じだけの日数をかけてエンデは自国の領へ戻ろうとしている。  エンデは伯爵という、地位のある人だとタビタは教えてくれた。自分の領土があって、其処に住む人が過ごしやすいように心を配るのが仕事らしい。まだ二十三歳だと聞いて、私と五歳くらいしか違わないのに凄い人だと驚いた。その領土に住む人は皆もれなく、昔々に悪い悪い魔女に呪いをかけられていると言う。  当のエンデは私と過ごしたいと毎日少しでも時間を作った。船主でもあるエンデは多忙で不在にすることも多い。船の何処かにはいるのだろうけれど、飛ぶようにあちこちへ行っては働いている。食事もエンデが作っているようだ。料理番もいるにはいるけれど、献立を考えるのも食材の使用順を考えるのも、次の調達に何を選ぶかもエンデの仕事らしい。 「おひいさんに食べてもらいたくて頑張ってるッスよ。おひいさんの口に合うようにって試行錯誤してるッス。おひいさんの口に合ったその時は『美味しい』って言ってあげてほしいッス」  タビタは食事が終わる度にそう私に告げた。果物以外にも少し食べられそうだと言えば、張り切ったエンデが何が食べたいと部屋まで訊きにきたことがあった。温かいもの、と答えた私にエンデが用意してくれたのは温めたミルクだった。 「どうだ、飲めるか。栄養が豊富だからな。後は卵が食べられれば取り敢えずは大丈夫だろう。本当はオレが色々と教えてあげられれば良いんだが……タビタ、頼むな」  私がタビタの作ってくれたフェイスヴェールの内側にカップを持って行ってゆっくりと飲むのを見届けた後、エンデはまた忙しそうに部屋を出て行く。それでいて私との時間はそれとは別に作るから、いつ休んでいるのかと心配だ。 「チサ! 今少しだけ良いか」  エンデの手が空く時間はまちまちだった。けれど昼の方が多い。明るい場所で見たエンデの碧い目が海の色と同じだと私が気づくのにそう時間はかからなかった。 「長い船旅もそろそろ終盤だ。来週にはドルン領に着くぞ」  昼日中に時間ができた時、遮るもののない船の上は日差しが強いから、とエンデは決まって大きな傘を差して私と甲板へ出た。天気の良い日ばかりではなかったけれど、今日は特別に天気が良い。キラキラと碧い海は太陽の光を反射して輝いていた。まだ夕にも遠い時間、少し汗ばみそうなほど太陽は照りつけている。傘がなければすぐに汗をかいただろう。 「キミがいた島に上陸する時はワクワクしていた。キミを迎えて帰ると思うと不思議な気持ちだ」  エンデはくすぐったそうに笑った。不思議だ、と彼が言う感覚は私には判らない。けれど彼が楽しそうに笑う様子は心地良い。全然喋らない私といて何が楽しいかとは思うけれど、何を見ても楽しそうに笑うエンデだ。キラキラとしたその目に映るもの全てが美しく見えているのかもしれない。 「キミにはほとんど構えなくて残念だ。タビタやギフトはキミの暇を紛らわせられた?」  エンデには私が暇そうに見えていたのだろうか。私も私のことはほとんど話さなかったし、忙しいエンデにはそう見えていても仕方ないかもしれない。私は答える。 「色々と教えてもらいました」 「タビタに裁縫を習ったと聞いたよ。ゆくゆくは刺繍を教えると張り切っていた」  私が何をして過ごしているかは聞いているらしい。それともそうやって習うことが暇潰しに見えただろうか。いずれにしても私たちは肝心なことを話していない。この船旅で、エンデは私の体調を気にかけるばかりだ。何が食べられるかと毎日毎日、気にかけるだけで。 「……呪いのことを、タビタから聞きました」  エンデが切り出さないのなら私から切り出すしかない。口火を切った私に、エンデが視線を向けるのを感じた。私は海に視線を向けたまま、キラキラと煌めく海面を目を細めて見つめる。穏やかな波は心地良い音を響かせていた。 「あなたが治めるドルン領は昔々の悪い魔女にかけられた呪いを抱えて生きる人たちだと。あなたも、ギフトも、タビタも、呪いを受けているんですね」  だから呪いを解いてほしいと彼は言ったのだ。  キスをすると、あるいはされると死んでしまう呪い。タビタは“好き”を伝える手段だと捉えていて、キス以外の方法でも伝えることはできると言っていたけれど。  キスの範囲は、何処から何処までなのだろう。  私が母からもらったキスは額や頬だった。父はいつも複雑そうな表情で見ていたけれど、母の柔らかな唇が降ってくるのが私は嬉しかった。面をしてからはキスをするところがない、と母が不貞腐れていたことも覚えている。話さなくても面を外して母の望む通りにしてあげれば良かった、と思った時にはもう二人ともいなくなっていた。  ──あたしたちの先祖も家族に好きを伝えるためにキスをしたって話ッス。  タビタの話からは呪われる前のことで、呪われてからはキスがされていないことが感じられた。誰も確かめなかったのかもしれない。家族への好きを伝える行為が、その人の命を奪うことになったら。自分の命を奪うことになったら。そう思うと試してみるなんてできないのだろう。 「あの森でも言いましたけど、私に呪いを解く力はありません。魔女の呪いに太刀打ちできるようなものではないんです」  私は船から見える景色の中に命を探した。渡鳥が飛んでいる。餌となる魚を食べに降りてきたところだ。周囲にエンデ以外がいないことを確かめてから、私は鳥に呼びかけた。 「“おいで”」  す、と軌道を変えて渡鳥は私の差し出した手に飛び込んでくる。鉤爪が優しく私の腕を掴んで止まった。エンデが驚いた様子で身動ぎするのが見えた。ありがとう、お帰り、と私は鳥を放す。抜け落ちた羽毛が数枚、風に乗って飛んでいくのを見送って私はエンデに向き直った。恐ろしくて顔を見ることはできない。両親以外の誰かに見せたのは初めてだ。 「これは言葉の力持つ一族が使えたという力の片鱗です。“口に出した言葉が現実になる”力。この力は父が持っていました。その父でさえ人に干渉することはほとんどできず、私は小型の動物に言うことを聞かせることができるくらい」  でも、と私は更に目を伏せる。ほとんど俯いてエンデの爪先を見ながら口を開いた。 「あなたがこの力を求めていたのは分かります。もっと力があれば、私は口にするだけで呪いを解くことができたでしょうから」  口に出した言葉が現実になるなら、呪いは解かれたと、そう言うだけできっと良かっただろう。呪いをなかったことにする力。魔女の一族がその力を頼って東の国を目指したのは呪いを解こうとしたからだ。最初からそれを目指して行ったのか、追われる内に耳にしたのかは判らない。けれど、その力を頼って東の果てまで行ったに違いない。これだけの時間がかかる航路を行ったのも、エンデが住む元々の土地にその話が残っていたのも、きっとそういうことだと思うから。 「魔女の一族が辿り着いた時には言葉の力持つ一族も追われていて、力も弱まっていたんでしょう。そうでなければきっと、連れて帰っています。あの島で、あの森で、囚われて生きることもありませんでした。何処に行く場所もなくて、魔女の一族はきっとあの森で生きることを決めたんです。同じようにして追われた一族と、手を取り合って」  そうしていつか、強い力が生まれることを期待したかもしれない。けれどどちらの一族の末裔である私が強い力を持つことはなく、伝承だけがひとり歩きした。幼く物を知らなかった私は自分の好奇心を優先して言いつけを破り、一生消えない醜い傷跡を残すことになったのだ。 「せっかく迎えにきてくださったのに、私にできることはありません。あの島を出たのは私の願いを優先したからです」  次を、望んだ。帰れないあの日をやり直すことはできないから。 「この、口は……災いの元だと呼ばれました」  私はタビタが縫ってくれたフェイスベールの上から唇に触れた。肌触りの良い滑らかな生地がするりと撫でていく。 「父より力の弱い私に災いを呼ぶ力はありません。それでもあの森の外で生きている人には分からなかった。十歳の時に一度だけ、森を出たことがあるんです。海を、船を、見てみたいと思って。私はすぐ村の人に見つかって……そうしてこの口は、縫われました」 「な……っ」  エンデは眉根を寄せ、目を見開いた。何度も見た色だ。悍ましいものを見る目。あの日に一生分向けられたと思ったその色を忘れることはないだろう。 「ネズミや虫の力を借りて森へ逃げ帰ったら糸は父が切ってくれました。できる限りの言葉をかけて、傷が塞がるよう尽力もしてくれました。でも、私は……だから森で生きているのだと知ってしまって。こんな目に遭ったのは両親のせいだと、八つ当たりしてしまったんです」  あの時の両親の傷ついた表情を私は今でも夢に見る。謝りたい。赦されたい。もう二度と、かけられる言葉はないけれど。 「私はそれから話さなくなって……父も母も以前と変わらず接してくれましたが、私は意固地で。甘えていたんでしょうね。そうやって自分の痛みを知って、受け入れて欲しくて。話すのが怖くなってもいました。喋った言葉は戻らない。私は私の言葉で両親を傷つけ、謝る機会を逃して二人を喪ってしまいました。最期に言えたのはごめんなさいじゃなくて、行かないで、なんです。最期まで私、自分勝手で──」 「チサ」  エンデが私を呼ぶから私は口を噤んだ。怖くて顔を上げられないまま、私は目を伏せる。何を話そうとしていたのだろう。これを言って、どうなると思ったのだろう。判らない。でも私に期待してはいけないと、言いたくて。 「チサ、すまない、触っても良いだろうか」  エンデの手が伸びた。白い手袋が私の頬に触れる。傘の柄を肩にかけて、エンデは私に一歩近づいた。落ちる影にエンデの影も重なって。え、と思っている間に彼の指は私のフェイスベールを捲った。体に力が入るのが自分でも判る。あぁ、こんな、醜い傷痕を。 「……船医に診せる必要はなさそうだ。お父上は言葉を尽くしてくれたんだろう。傷痕はない。綺麗だ、チサ。成長と共に消えたんだろうな」  エンデが安堵の息を漏らす。嫌悪が流れていって私はわけが判らないままエンデを見つめていた。村の人と同じ悍ましさに彩られた目が、今はいつもの優しさに満ちている。けれど何処か痛むかのように眉根は寄せられたままだ。 「酷いことをする。幼いキミに暴力を働いたとあっては到底赦せない。ギフトにもっと懲らしめてもらうんだった」  エンデは悔しそうに言う。私は首を傾げた。 「キミが隠したいと言うなら止めないとも。だがもし、傷痕があると思うならそれは安心して良い。本当に綺麗さっぱりないんだ。まぁキミに傷痕があったところでオレの気持ちは変わらないけどね!」  ニコニコとエンデはいつものように笑った。眩しい。私はぱちくりと目を瞬いて、それからゆっくりと言葉の意味を理解した。傷痕が、ない。それが父の力だとするなら。あの日、痛みに泣き叫び向けられた悪意に打ちひしがれていた私は父が何度その言葉を繰り返したか覚えていない。何度も、何度も、言葉を重ねて父が私の傷を癒そうとしてくれたなら。私はやっぱり、どうしてあんなに酷いことを口にしたのだろう。 「チサ、キミは自分勝手だと言うけれど……キミが確かにご両親に愛されていたことの証明だと、オレは思う」  エンデがゆったりと、私に意味が届くように言う。問い返せない私に彼は微笑んで目を細めた。 「キミが言った通りだ。キミはご両親に甘えていたんだろう。でもそれは、甘えることが許されていたからだ。ご両親はキミを本当に大切にしていたんだろうね。そしてキミも。キミも、ご両親を大切にしていた。そうでなければひとりであんなに立派な墓所を用意することはできないし、三年も墓守なんてできない。後悔からだとキミは否定するかもしれないけど、その根底にはご両親への愛があるんだと思うよ」 「……」  そう、なのだろうか。私は、ただ。 「……行かないで、と言った私に父は『生きなさい』と言いました。母は、『忘れないで』と。最期の言葉は、それで……。私、は……」  言葉の力も、魔女の力も、私に影響を与えているとは思わない。けれどそれは、私が明日を続けるには充分な理由だった。今日を越え、明日を願うに、充分な。 「ご両親は、キミに願いを託した?」  そう、だろうか。エンデの問いかけに私は答えられない。それでも。 「願いだったのか、判りません。でも私はそれを聞いたから、生きてきました」  うん、とエンデは頷いた。声が柔らかくて優しいから、私は恐る恐る彼を見上げる。碧い目は慈しむように私を見ていて、何だか泣きたい衝動に駆られた。喉の奥がツンとして、私は咄嗟に息を詰める。 「そのおかげでオレはキミに会えたわけだ、チサ。それならオレはやはりキミとキミのご両親に感謝しなくては」  ありがとう、とエンデは言った。 「チサ、生きていてくれて良かった。オレはキミに会うためにこの長い船旅を越えたのだから」  エンデの人差し指がフェイスベールの上から私の唇を掬うように触れた。ベールと手袋越しに触れたその指を彼は自分の唇へと持って行く。ふふ、とエンデは穏やかな陽の光のように笑った。少し照れ臭そうに。 「生きてる。キスとは見做されないらしい」  もう一度、私の唇に布越しに彼の指が触れて。その指を自分の唇に当てて笑うエンデは相変わらず、眩しく微笑んだ。
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