1 魔女の末裔

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1 魔女の末裔

 むかーしむかし、そのむかし、わるいわるい、魔女がいました。  その魔女は誰彼構わず呪いをかけていく、悪い魔女でした。  呪いを解けるのはその呪いをかけた魔女自身のみ。  魔女の一族は逃げ惑いました。その悪い魔女ほどの魔力が誰にもなかったからです。  人々は魔女の一族を追い出し、そして、いつしか忘れてしまいました──。 「むかーしむかし、そのむかし」  不意に思い浮かんだ言葉を口にも出しながら、私は丸めていた背を伸ばす。顔を覆う木の面は、外さなくても食事ができるよう口元だけ布地で作ってあった。くぐもった声は布に阻まれて何処に落ちることもない。  腰から背にかけてぐっと伸ばせば狭い視界の中に陽が差し込んでくるから思わず目を細めた。収穫の時期はもう終わりだ。今年はこれで冬を越せるだろうか。  ──忘れないでね、チサ。  忘れないよ、と私は胸の内で答える。耳に残る母のそれは、私を何度も此処に留めた。魔女の一族である母に言葉の力はなかった。それは、ただの願いだ。  魔女の一族は昔々にこの国へ追われた。その理由を私は物語を通して知っている。昔々、その昔、悪い悪い魔女がかけた呪いの数々。かけた魔女にしか解けない呪い。その魔女ほどの力がなかった一族は皆、追われた。  魔女の一族は、忌み嫌われ誰とも関わらない。だから私で絶えることになる。けれどきっと、その方が良い。  ひっそりと森の奥で身を隠して。不気味な面をした魔女の末裔が棲むこの森に私が知る十八年の間、入ってきた人はいない。けれど定期的に棲む場所は変えた。八年前の忌子が生きていると知られたら村の人は入るかもしれない。そうしてまた、醜いと嘲り、慄き、私の口を──。 「あぁ! 其処にいるはオレの妻になる美しい人じゃないか?」 「!」  いつ振りかに聞く人の声に私は飛び上がった。こんなに間近で人の声を聞くのは三年振りだ。いつの間に姿が見えるくらい接近を許したのだろう。此処は森の奥だ。獣もいるから気配には敏感なはずなのに、どうして。  鬱蒼と繁る木々の合間にぽっかりと開いた光が差す場所で、私は次の冬を越すために拾った木の実の選別をしていた。普段ならこんな明るい場所に長居はしない。木の実が土の上に転がったけれど拾う余裕はなかった。私は声がした方を焦りながら振り返る。陽射しに白が反射してまた目を細めた。  背の高い、細身の男性が少し離れたところに立っていた。首元にたっぷりの布を使って豪奢な、見慣れない服を着ている。声はひとりだったけれど佇んでいるのは二人だ。振り向いた私を見ても驚かない見事な白髪をした異国の人と、ぎょっとした表情を浮かべた鳶色の髪をした人。二人とも歳の頃は同じくらいに見えた。誰だろう。この島の人ではないのは明白だった。 「やぁ、それはヴィザードか! ギフト、素晴らしいことだと思わないか。このような外にいながら日焼けをしないようにと顔を覆うなんて! 淑女の鑑だ!」  困惑している私を他所にその人はこちらまで軽やかに足を進めた。私を見て驚かないことに驚くし、私との距離を縮めることにも驚く。その端正な顔には嫌悪の色は見られず、好奇心に満ちた様子だ。それでいて周囲の植物は踏みつけないように土の道を選んでいる。 「レディ、お初にお目にかかる。オレはエンデ。此処から遠い遠い西の、ドルン領からやってきた。遥か東方の島国にいるというキミを求めて」  土がつくことも構わず、エンデと名乗った彼は片膝をついて私に片手を差し出した。空にも似たキラキラとした碧い目が私を真っ直ぐに見ている。何、これ。何が起きているの。 「ん? 反応が芳しくないな。言葉が解らないか? 東方の国の言葉だと、えぇと……」  私の困惑を言葉が解らないと捉えたのか、青年は咳払いをひとつするとまた私を真っ直ぐに見た。キラキラとした顔が眩しい。この辺では見ない顔立ちだ。 「オレはエンデ。海を越えて西からやってきた。キミを探して」  少し辿々しい、けれどこの国の言葉で彼は言う。母に習っていて言葉は解る。けれど何と答えたものか判らず、私はただまごついた。伸ばされた手には白い手袋がされていて、差し込む陽が反射して眩しい。 「ひ、人違い、です」  何とかそう絞り出したらエンデは更に顔を輝かせた。え、何。何で。そんな顔されるのは予想外すぎる。 「聞いたかギフト! 声まで可愛らしいぞ! あぁ、今すぐ抱き締めてキスをした──」 「それはさぞ紳士らしい振る舞いなんだろうな」  呆れた声がするから私は顔を上げて視線を移した。狭い視界の中にはエンデしかいなかったけれど、彼のすぐ後ろまでもうひとりの青年が近づいていた。声は呆れているけれど表情はにこやかで、ちぐはぐさに私は更に混乱した。 「あぁ、いや──ごほん、しないとも。オレは紳士。そう、紳士だ。ドルン領、シュヴァーン伯爵家の当主として恥じない振る舞いだ」  自分に言い聞かせるようにしてエンデは再度咳払いをする。束の間、目を閉じて次に開いた時にはキラキラとした輝きはそのままに、興奮は幾分か落ち着けている様子だった。 「東方に我がドルン領の民が追われたと聞いてやってきたんだ。怖がらないで。キミは魔女の一族、だろう?」 「!」  跳ねた肩は誤魔化しようもなくて、もう肯定を返したようなものだった。それでも私は口にしない。 「キミを迎えに来たんだ。オレたちと一緒に帰ろう」  帰ろう、なんて。両親以外から言われたのは初めてだ。けれどこの鬱蒼とした森からは出られない。出ては、いけない。 「沈黙は美しいが、レディ。オレはまたキミの声が聞きたい。あぁ、いきなり帰ろうなんて不躾すぎたかな。自己紹介も途中だった。オレはエンデ。彼は従者のギフトだ。二人だけでこの島へ上陸した。キミを探していたんだ」  エンデの目が優しく細められる。 「西の国にあるドルン領は我がシュヴァーン伯爵家の領地だ。多くの領民が住む。かつてキミの先祖に呪いをかけられた者たちの子孫だ」 「……」  どうして、と思った。どうしてそれを知りながら。 「どうか呪いを解いてもらいたい。そうして皆で暮らそう。キミにはオレの妻になってほしい」  意味が解らない。呪いを解いてほしいと言うのはまだ解る。でも、その次の言葉は理解できない。どうして呪いの始まりとなった一族の私を探し出して、そんなことを言うのだろう。 「レディ、こいつの言うことは話半分くらいで良い。道行く女性に妻にならないかと声をかける男だ」 「そんなに褒めるなよギフト」  褒めたのだろうか。従者だという青年が見兼ねた様子で口を開くから私は益々わけが分からなくなった。つまり、エンデは女性というだけで妻にならないかと言う人であって本気ではない、ということなのだろうか。彼にとっては挨拶のようなものなのかもしれない。だからその部分は本気にしなくて良い、と言いたいのだろうか。 「東には呪いの力を打ち破る一族がいるとも聞いている。言葉の力、呪いをなかったことにできる力だ。キミ自身も連れて帰りたいが、その一族の者も一緒についてきてもらえたらと思う。いつまでも領民を苦しませるわけにはいかないからね」  エンデはまた優しい目で私を見た。ぐ、と私は言葉に詰まる。言葉の力持つ一族。その一族はもういない。後数年、早かったなら会えたけれど。それを求めるのはお門違いだ。 「キミももう、良いんだ。魔女の一族だからと追放したりして悪かった。帰ろう。キミたちが住んでいた土地に。そういえばキミの家族は? 挨拶したい。大きな船で来たんだ。全員連れて帰れるように」 「……」  私は二人にくるりと背を向けて足を進めた。レディ、とエンデが驚いた声をあげ、ついてくる足音がする。二人とも必要最小限の足音で森を歩き慣れている人だと思った。森に棲む獣を刺激しないように、自分が異邦者であることを知っている人の足音だった。  私が二人を案内したのは、両親の眠る跡だ。両親と住んだ家は万が一を考えて捨てたけれど、此処へは足繁く通った。ただの大きな石を目印にしただけの其処は、私以外にはそうとは判らないだろう。誰かが通りがかっても通り過ぎるような、そんなありふれた森の光景に過ぎない。でも。 「……これは」  エンデはすぐにそれが何かを察した様子で胸に手を当て、沈痛な面持ちで項垂れた。心からだったかは判らない。それでもそれが何かを悟り、胸の内で死者へ語りかける様子を見て私は彼の話に耳を傾けても良いのではないかと感じた。無言で語る両親の話に彼は真っ先に耳を傾けてくれたから。 「……もう、誰もいません。此処には私ひとりです」  くぐもった声で私は言葉を落とす。エンデがハッとした様子で私を振り返った。その表情が痛みを堪えるようで、どうしてそんな顔をするのか私には疑問だった。そんな顔、両親以外に向けられたことはない。 「仰る通り、私は魔女の一族の末裔です。昔の人が願った通り、魔女の一族と言葉の力持つ一族は手を取り合いました。でも魔女の一族も、言葉の力持つ一族も、もう、私以外にはいません。両親は三年前、揃って他界しました」  魔女の薬も、言葉の力も効かなかった。私たちの力は時を経るごとに弱まり、悪い悪い魔女の呪いを解くなんてまるで夢物語だ。 「私にできるのは母から教わった魔女の物語を忘れないことだけ。父の願いを叶え、赦される日を待つことだけ。私に呪いを解くだけの力はありません」  あるなら、両親を助けられただろう。みすみす病を見逃しそのまま連れ去ることを許しはしなかったはずだ。力がないから、私は非力で無力な少女のままただ見送った。泣きながら墓を掘り、二人並んで埋葬することしかできなかった。涙が乾くまで三年の月日を要した。家を捨てることも、ひとりで生きていくことも、できるようになった。 「お力になれずごめんなさい」  深々と頭を下げた私に、二人は何も言わない。期待外れの結果に失望するのは明らかで、でもそれも仕方がないことだと解っていた。先祖が犯した大罪の精算をできないのは心苦しいけれど、私ひとりに押しつけられてもどうにもできない。袋叩きに遭う目なら可能性は残るけれど、そうしたって呪いは解けないだろう。 「そうか。だとしても、キミにはオレたちと一緒に来てもらいたい」 「え」  エンデの声が耳に届いて私は驚きから顔を上げた。狭い視界の中、エンデの表情は相変わらず痛みを堪えるようなものだったけれど、その目も相変わらず優しさを湛えている。 「ご両親の思い出が残るこの地を離れるのはつらいだろうけど、キミに墓守をさせ続けるつもりはないんだ。キミにはキミの人生がある。ご両親もそれを、望まなかったか」 「……」  言い当てられて返す言葉を見つけられなかった。古今東西、親は子の幸せを願うものだからね、と彼は穏やかな声で私に話しかける。そう、だろうか。そう、だったかもしれない。少なくとも私の両親は。 「この森に根ざしたご両親を掘り起こすのはやめておこう。なに、此処へ来たいならいつだって連れてきてあげるとも。こんな東の果てまで追われたのはキミの一族だけだ。先祖が悪かったね。数百年の罪を、お互い洗い流さないか。呪いが解けるならそれに越したことはないけれど、呪いが解けなくてもキミはドルン領の民だ。オレがキミを拒む理由はない。キミも此処で隠れ住まなくて良くなる。返事はすぐにとは言わないよ。でもまぁ、何日かかってもキミを連れ帰るつもりでいるからキミには帰る以外の回答はないのだけどね!」  それは別に言わなくても良かったことなのでは、と私は思うけれどエンデはニコニコと笑っていた。少し離れた場所でギフトがやれやれとばかりに頭を振る。口を開いて忠告するような響きを伴わせた声が言った。 「時間は余るほどある」  まぁまぁ、とエンデはギフトに笑みを向けた。ギフトは目を逸らして伏せる。その様子に息を漏らし、エンデはまた私を向いた。 「キミが自分で決めることが大切だ。無理矢理連れて行ったのでは馴染めるものも馴染めないからね。ご両親とゆっくり話して、出発の日を決めると良い。オレたちはずっと待ってる」  微笑んで、彼は墓跡に向き直ると小さく礼をした。それから私の横を通って奥の木立で佇んだ。ギフトも彼の傍に寄り、護衛のように腕を組む。二人で何か話しているけれど私には聞こえない。  私は両親の墓跡に近寄った。木々の葉が擦れる音に、鳥や虫の声、動物たちの息遣いが感じられる森で、私たちもその一部だった。人だけは森の外で村を作り、寄り集まって過ごしたけれど、私たちは。人里に紛れることもできず、忌まれて遠巻きにされた。近づけば怯えられ、石を投げられることもあった。だから森に紛れた。人の言葉は捨てられないまま、森の獣たちの気配を真似て。  魔女の一族とは、言葉の力持つ一族とは、そういう存在だった。それなのに西から来た異国の人は私を恐れない。帰ろうと言う。見知らぬ土地に帰ろうと。その力が正しく伝わっていないのかと思えど、呪いはあると言う。解けなくても迎え入れてくれると。それが本当かどうか、私には判らないけれど。  正直に言えば、彼らと一緒に行きたかった。もし、次があるならと泣き濡れて夢を見ていたから。  赦されたい。あの日に帰ってやり直したいことが沢山ある。でもそのどれも、叶わないから。だからもし、次があるなら。 「お父さんの“加護”があるから私は多分、平気。二人のこと絶対に忘れたりしない。思い出は連れて行くけど、三人で過ごした此処の記憶はなくならない。お父さんが願ってくれたこと、多分あの人たちについて行く方が叶えられると思うの」  判らない。進んでみないとその先にあるものなんて見えはしない。確定させることもできない。それでも。 「行っても、良いかな……?」  私は問いかける。死者の沈黙が破られることはない。あの日、両親が沈黙する少し前に私の沈黙は破られた。胸が張り裂けそうな寂しさに嗚咽を零し、森の静寂を切り裂いたあの日。両親は物言わず土の下で眠り、私はひとり語りかけるようになった。赦されるその日まで同じ毎日を繰り返し続けると思っていた。でも今日は、昨日の続きではなかった。  私のことを想い、願ってくれた両親を残していくのはつらい。でも此処に縋り続けても何かが変わることはない。  ざぁ、と背後から風が吹いた。都合良く捉えただけかもしれない。けれど私にはそれが、両親の返事のように思えたのだ。そっと優しく背を押すような、そんな感触さえ感じて。 「……うん、行ってくる。見守っていて」  悪い魔女なら、人の魂さえ見ることができただろうか。私にそんな力はない。けれど記憶の中の両親が幼い頃からずっと見守ってくれた顔で私に笑いかけたから、私は意を決して振り返る。エンデはすぐに私を見て、近づくのを待った。 「行きます。すぐにでも」 「やぁ、それは好い返事だ。ようこそレディ。改めて、キミの名前を訊いても?」  まだ名乗っていなかったことを指摘されて、私は口を開いた。 「チサ」 「不思議な響きの名前だ。けれど愛情がこもっているのが解る。さぁ、支度を整えたら行こう。遠い遠い西の国、我がドルン領へ!」  エンデのキラキラとした笑顔が、ただ眩しかった。
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