【第一部】ep.12 蟲之報

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【第一部】ep.12 蟲之報

「すごい丁寧だね」  耳元で急に話しかけられた。 「え?!」  弾けるように振り返ると、目の前に誰かの顔がある。 「うわ、わ、わ」  息がかかるほどの至近距離に驚いて青は後ずさる。肘が作業台上の器具や皿に当たってけたたましい音を立てた。薄暗く静かな工房で、周囲の視線が突き刺さる。 「す、すみません、すみません」  小声で周囲に謝りながら、青は床に落ちた道具を拾うためにしゃがみ込んだ。  青が今いる場所は、七重塔一層階の「蟲之区」。その中に設けられた工房の間の一角だ。  藍鬼が任務へと旅立って三月(みつき)が経った。  音沙汰は未だ無い、  未だ任務内容も分からない。    あれから青は毎日のように放課後から夜まで「蟲之区」へ通い詰めていた。  そこは学校とも、霽月院とも異なる、まったく別の世界だった。  七重塔玄関口から廊下を幾重にも折れ曲がり最後に庭を渡る外廊下を越えた先に、蟲之区はある。  門衛が並ぶ観音開きの厚い檜戸を抜けるとまず訪問者を出迎えるのは巨大な円形の吹き抜け書庫だ。円形書庫の東西南北から更に渡り廊下が伸びて、それぞれ工房、薬草園、実験場、倉庫へと繋がっており、通行証を持つ人間であれば出入りと利用が自由となっている。  蟲之区の利用を許された顔ぶれは、老若男女さまざまだ。  誰もが己の探求にのみ関心と集中を向け、黙々と没頭している。  なるほどこれが「蟲」という事かと、青にも実感できた。  だがその中でも特殊な状況が、顔を何かしらの手段で隠している人間、すなわち狼以上の技能師との遭遇率が格段に高い事である。  彼らが何を学び、どのような会話をしているのか。その様子を目に耳にするだけでも、今の青にとっては何よりの教材になっていた。  そんな日々を送ること三月(みつき)。  夏が過ぎ、秋雨が続くある日の事だった。  工房の隅で黙々と作業をしていた横から話しかけられたのは。 「ごめん、驚かせたね」  誰かの手が伸びてきて、散らばった薬草や木の実を拾い上げた。 「僕もびっくりしすぎちゃって、ごめんなさい」  青が顔を上げると、同じようにその場でしゃがんでいる顔と正面で目が合った。 「……え」  一瞬、息が止まる。  人形かと思った。  目の前にいるのは、一言で表せば「美しい顔」だった。  まず目立つのは冬の澄んだ青空のように透ける髪色と、瞳の色。あまり日焼けしない青よりも、更に肌の色の白さが目立つ。少し薄い唇は薄紅を引いたかのような血色だ。  年の頃は青と同世代か少し上だろうか、向けられる微笑が妙に大人びていた。 「これで足りてる?」  落ちたものを拾い上げて立ち上がると、青よりも頭一つ分、背が高かった。肩に届く髪が後ろで結われている。衣服は青と大差のない、腿までを覆う濃紺の上衣で腰は黒い帯布を巻いている。 「うん、大丈夫」  小松先生ともまた種類が異なる「きれいなお姉さん」だなと、青は素直に思った。 「それは、何をやっていたところ?」 「お姉さん」は、作業台上に広げられた調剤用の道具や素材を珍しそうに眺めている。 「薬の袋詰めをしてたんだ」 「何の薬?」 「ほんとは薬じゃなくて栄養剤なんだけど、風邪に効くんだ」  青の前には、きなこ色の粉末が入った容器と、その隣には薬包紙が積まれている。 「友達が、苦いのは嫌いだって言ってたから、甘くて飲みやすいのを考えてて」 「へぇ」とお姉さんは硝子玉のような瞳を丸くした。 「ちょっと味見させてよ」 「うん、どうぞ」  薬包紙に微量の粉を乗せて渡すと、お姉さんは豪快に口を開けて粉を口へ流し入れた。 「きなこ味だ。甘くて美味しいね」 「良かった」  女の子が美味しいと言ってくれるなら、きっとつゆりも気に入ってくれるはずだ。 「キョウちゃんダメよ、男の子にちょっかい出しちゃ」  新たな声が、横から割り込んだ。 「タイさあ」とお姉さんが声のした方を振り向くと、こちらもいかにも「しっかり者のお姉さん」といった風情の少女がそこにいた。両手を腰にあてて、仁王立ちしている。つゆりに似ている印象だ。少しくせのある髪の毛先が自由にはねている様子が、少女の性格を表しているよう。 「何もしてないって。それにその呼び方やめてよね」 「いいの。キョウちゃんの方がしっくりくるんだから」  きれいなお姉さんの名前は「キョウちゃん」で、つゆり似の少女は「タイ」らしい。  いずれも若くして蟲之区へ出入りしているからには、何か理由があるのだろう。 「風邪予防の栄養剤ね。君が作ったの?」  作業台の上を一瞥したのみでタイは薬を言い当てた。 「友達のために、味を改良してるんだってさ。お菓子みたいな味で美味しかったよ」  キョウが青に代わって補足すると、タイは眉を上げて苦笑の顔を作った。 「子どもねぇ。任務でケガしたりしたら、苦いとか不味いとか言ってられないじゃない」  オトナのマネなのか、白い上衣の胸の前で腕を組んでタイは肩を竦める。  青が眉を下げていると「だからこそだよ」とキョウが笑みを向けた。 「痛かったり苦しい時に、もうそれ以上ちょっとでも嫌な思いなんてしたくないでしょ。苦しい時に心がこもってるのが伝わると、それだけで嬉しいよ」 「そういうものかしら。悪かったわ」  意外に素直な言葉とともに、タイは改めて作業台を見渡した。 「君、薬術の勉強をしているの?私たちもなの」 「一緒!僕、青(セイ)っていいます」 「セイ君ね」  破顔する青へ、お姉さん二人はそれぞれの笑顔を見せる。 「そろそろ行かないと。私たちここにはよく来るから、またお話ししましょ」 「またね、青君」 「う、うん…!」  手を振って去っていくお姉さん二人へ、青も戸惑いがちに手を振り返した。  蟲之区に通い始めて、初めての出逢いだった。
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