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【第二部】序
少女の家には、泥人形がいた。
それが少女のものごころ―最初の記憶だった。
屋敷の廊下をいくつも曲がり長い渡り廊下を通り抜けた離れ、庭に面した広い部屋の真ん中には寝台が置かれ、泥人形はいつもそこに眠っていた。
その泥人形は屋敷の者たちから「奥方様」や「あやめ様」と呼ばれていた。
少女の父親も泥人形を「あやめ」と呼んでいたが、なぜあの泥人形を花の名前で呼ぶのか、少女には理解ができなかった。
泥人形は桃色の寝巻きを着ていた。
寝台の敷布や掛け布団も薄桃色の布地に美しい花の刺繍が散らされていた。
しかし泥人形の体や口から零れ落ちる赤黒い泥が、寝巻きも寝具も汚してしまっていた。
屋敷の者たちはしょっちゅうそれらを取り替えては洗って忙しそうだった。
少女が気安く離れに近づく事は許されていなかった。
それは同い年の兄も同じだった。
屋敷の大人に理由を尋ねると誰もが困った顔をしたので、そのうち尋ねるのをやめた。
最後に少女が泥人形を目にしたのは、桜が散り始める季節だった。
その日だけは特別で、父親に連れられて兄と共に離れの部屋へ向かった。
泥人形が眠る寝台の周囲に、白い装束を身に着けた人たちが膝をついて俯いていた。
「近づいてはいけない」
寝台に近づこうとした兄を父親は引き止めた。
「うつってしまっては大変だから」
と父親は言った。
納得したのか兄は足を止めて、父親の隣に並んだ。
「うつってしまっては大変」の意味も、何が大変なのかも分からず、少女は寝台へ近づいた。
大人たちが遠慮がちに少女へ手を伸ばしかけたが「構わん」と父親が短く声を発すると、少女に伸びかけた手たちは引いた。
少女は寝台の側に立って背伸びをし、泥人形を覗き込んだ。
その時も泥人形は美しい衣を身につけていた。
掛け布団の上に置かれた手は表面が赤黒い泥で覆われていて、辛うじて指であろうと分かる突起が数本生えている。
少女は泥人形の「手」らしき部位へ、自分の小さな手を伸ばした。
指先で赤黒い泥土のような表面を撫でてみると、思いのほか硬い感触がした。
不思議と心地いい手触りに、少女は泥人形の手を両手で包みこんだ。
おにぎりを握るように指に少しだけ力を入れてみると、どういう仕掛けだろう、泥人形の手がわずかに動いて少女の指先を握るように折れ曲がった。
ねえ見て見て、動いた。
背後に立つ父親と兄に伝えたくて振り向くと、
「御臨終です」
誰かがそう言った。
寝台の側に膝をついていた白い装束の大人が立ち上がり、泥人形の顔や首のあたりに手を当てて、そして首を横に振った。
「あやめ様!」
「奥方様」
部屋の外から女たちの泣き声が連鎖した。
父親はまっすぐに前を見つめたまま口をつぐんでいた。
その隣で父親の衣服の裾をきつく掴んでいた兄は「かあさま」と泣き出した。
かあさま。
兄はたしかにあの泥人形を、そう呼んだ。
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