【第二部】ep.16 若狼

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「もしかして、大月青君?」  名を呼ばれて振り返ると、 「小松先生、つゆりちゃんも」  今は教頭先生となった元担任教師と、教職員見習いの元同級生・つゆりがいた。 「新しい保健士さんが青だなんてびっくり!久しぶりだね」 「背が伸びたわね、大月君」  二十代だった小松先生は今や教頭先生となっていて、高位の教職員が身に着ける裾の長い衣を身にまとっていた。  一方のつゆりは青と同じ時期に下士に合格した後、教職員資格取得に向けて、こうして母校で実習を受けているという。  医療従事者の制服を身に着ける青を、二人は少し珍しそうに見つめた。 「あ…ごめんなさい。「大月医療士」って呼ばないとね」 「先生は「小松教頭」で、つゆりちゃんは「如月先生」ですね」  恩師と元教え子たちは、今だけ十年前に戻ったように笑いあった。  学校には保健室があり、保健士の仕事はこの部屋での待機が大半を占める。  青が入学した直後の初めての神通術授業で、トウジュの術が暴発して小松先生が火傷を負った。あの時も治癒術が使える保健士が対応していた事を思い出す。  青を保健室へ案内した後、つゆりは授業のため、小松先生は会議のために予鈴に追われて去っていった。 「懐かしいな」  独りになった青は、前任者が残した引き継ぎ資料をめくりながら、保健室内や窓の外の様子を眺める。  術の練習をした中庭や、基礎体力や運動能力をつけるための授業を行った運動場が、あの頃よりも狭く感じる。  石垣で仕切られた中庭の向こうに、砂を敷いた運動場があり、更にその向こうには裏山が続く。  運動科目の授業が難易度を上げてくると、裏山全体を使った模擬任務が行われたものだ。隠れる班と、捕まえる班に別れるいわゆる「鬼ごっこ」ではあるが、何人もの現役法軍人たちが監督として目を光らせ、けが人や死人が出ないように見張っていた。  まだ神通術を制御しきれない生徒も多く、加減が利かずに術の暴発が起き、生徒を庇って引率係がケガを負う事も頻繁に発生する。そういう時も、保健士の出番だ。 「薬や湿布は…と」  棚を開いて在庫を確認する。治療に必要な物品の管理も、仕事の一つ。不足品を注文書に記載して、後で用務長へ提出すれば良い。  子どものケガを治す簡単な傷薬や湿布くらいはすぐに作成できてしまうが、大月青としてはその権限がない。 「そのあたり、立場の使い分けに気を付けないとな」  誰もいない空間では思わず独り言が漏れる。  室内を見渡し、天蓋で仕切られた二つの寝台の敷布と掛布が清潔であるか確認する。室内は全体的に掃除も丁寧になされていて、引き継ぎ書にも抜かりが無く、前任者の几帳面さが窺えた。  どれくらい時間が経ったか、気が付けば外から賑やかな声が聞こえてきた。 「お」  顔を上げると、子どもたちが中庭に集まっている。 「懐かしいな~」  術の授業だろうか。担任と思われる中年の男性教員を中心に、子どもたちが輪を描いている。輪の端に、実習生のつゆりが手帳片手に立っていた。  青は硝子戸を開き、外の様子に聞き耳を立てた。先生に倣って唱えを口にする子どもたちの声と、そこから「できた!」とか「すげー!」といった声も上がり始める。  中にはかつての青のように、何も発現せずに俯いている子も。そこへつゆりが駆け寄り、しゃがんで目線を合わせて励ましていた。 「ちゃんと先生やってるなー」  つゆりは昔から正義感が強く、常に弱いものの味方をする人柄であった。  良い教師になるだろう、と微笑ましく眺めているうちに、その日の授業は何事も起きずに終了し、その後も特に異変はなく、青の臨時保健士としての初日は平和に終わった。  保健士の勤務時間は、全ての授業が終わる夕方前の時間まで。三葉からは「体力があれば医院に戻ってきて!」と言われているので、今日は医院に戻って診察履歴の整理の続きでもしようか。  そんな事を考えながら保健室の掃除をしていると、 「ん?」  窓の向こう、視界の端で何かが動いた。  見ると、運動場から裏山へ抜け出そうとしている小さい人影が見えた。  校内の子どもたちは早々に帰宅していて、中庭にも運動場にも残っている子どもはいなかったはず。 「学校の子か…?」  今も規則が変わっていなければ、初等学校の子どもは無断で裏山へ立ち入ってはいけないはず。裏山は中等課の生徒も演習場として用いるため、練習用の罠や人工的に地形を複雑に作り変えている箇所もある。  青は保健室を抜け出し、運動場を横切った。運動場と裏山の境界には大人の背よりも高い石壁が巡っていて、金網扉が設けられているが錠前は教職員が管理している。 「でも確かこの辺りに」  人影が消えたあたりの地面を探ると、石壁にできた穴を雑草で隠している箇所がある。まさか青が在籍していた頃からあった抜け穴が、いまだに残っていたとは驚きだった。  成長した体では通り抜けることができないため、風術を使って壁を飛び越えて裏山側の草叢に着地する。 「探してくれ」  普段は伝令に使う鳥の式を呼び出し、空へ放った。青色の鳥は宙空を三度旋回し、東側へ飛んでいく。その後を追って青は足を早めた。 「いた」  侵入者はすぐに見つかった。  そう離れていない場所、雑木林の中にできた小さな広場のような空間に、少女の背中が見える。青は気配を消して樹木の影に身を隠した。 「風神…」  呟きが聞こえる。術の練習に来ていたようだ。  侵入者の年齢は八歳か、九歳頃。  初等学校の中では上級生だ。  肩より少し長い髪の毛をおさげに結んでいる。  青の位置からでは顔が見えないが、きっと真面目な子なのだろう。  かつて自分も術の練習場所を求めて裏山に入り込み、小松先生に見つかって連れ戻された事が何度もあった。 「うーん、ダメだぁ」  独り言が届く。  思い通りに術が発動しないようだ。 「風神…」  少女は再び両手を前に掲げて目を瞑る。  いつ声をかけて帰宅を促そうか青が迷っていた、その時、ごうと音がして風が雑木林を通りかかる。春特有のつむじ風だ。 「きゃ!」  小さな悲鳴。広場の中央で小さな竜巻が上がった。  砂利と草を巻き上げる風の音と、少女の悲鳴が混ざりあう。春の突風と少女の術が混ざり合って暴発したのだ。 「しまった…!」  青が少女の元にたどり着く前に竜巻は消失して、そこにうずくまる少女の姿だけが残る。体のあちこちに裂傷ができていた。 「ごめん、もっと早く止めていれば」  しゃがみ込んだ少女の前に片膝をつき、青は最も大きく衣服が裂けた少女の左腕をとる。 「だ、誰ですか…?」  怖怖とした少女の声。 「えっと、臨時の…じゃなくて、保健室の先生だよ」  先生という言葉に安心したのか、少女が顔を上げた。頬や額にも痛々しい切り傷が見える。 「怖かったね。大丈夫、いま診て…」  優しく声をかけた青の言葉が詰まる。大きく裂けて血で汚れた袖、そこから覗く赤い傷口の面積が、目に見えて小さくなっていくのだ。 「え?」  少女の袖を捲って腕を見ると、小さな切り傷がまるで時間が高速で戻っていくかのように消えていく。 「何…」  少女の顔へ視線をやると、痛々しかった頬や額の傷も、懐紙で汚れを拭ったかのように消失していった。  最も大きかった腕の傷はまだ生々しい血の粒が湧き出していたが、端から徐々に皮膚と肉が意思を持っているかのように融合し傷口を小さくしていく。 「もう大丈夫です!びっくりしただけです!」  青の腕を振り切って、少女は立ち上がった。  唖然とする青へ、ぺこりとお辞儀をする。  おさげが動物の尻尾のように揺れた。  再び顔を上げた少女は、木の実のような瞳で青を見つめる。少し日に焼けた肌と髪。活発で利発そうな面立ちだ。 「ほら、もう全然大丈夫!」  短時間で七割ほどの傷が消えた腕をひらひらと振って、少し自慢げだ。  この事態を異常と自覚していないように見える。 「保健室の先生?」  動きを止めた青へ、少女が少し困ったように首を傾げた。 「あ、えっと」  我に返った青は強引に笑顔を作り、立ち上がる。 「ばい菌が入ったら大変だから、手当しようね。先生と一緒に保健室に行こう。あと、裏山には勝手に入っちゃダメだよ」  少女は素直に「はーい」と爛漫な笑顔を見せた。
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