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陽が落ちかけ夕暮色が藍色へと塗り替えられようとする頃。
賊の遺骸処理にあたっていた面々が野営地へ戻ってきた。
野営地には既に天幕が張られ、火も焚かれている。
「隊長たちが、お話しがあると」
そんな中、獣除け薬の散布を終えた朱鷺と青は、見回り役の中士に声をかけられた。
隊長と副隊長の天幕へ向かうと、そこに一色と楠野の他、三人の獣血人の中士と、蓮華もいた。
青は思わず三人を凝視しかけて、視線を逸らした。興味本位や奇異の視線を向けられる事の不快さを、毒術師として自らも味わってきたのだから。
「獣除け、完了しました…お話し…とは?」
後の隣で、朱鷺面の嘴が、天幕にいる面々へ一巡した。
「技能師の皆さんの見解を伺いたい事があります」
一色の説明によると、こうだ。
賊の遺骸処理を担当した雲類鷲、檜前、小毬中士によると、賊の遺骸から「獣」の臭いがしたという。
「獣の…でもそれって普通の事ではなくて?」
蓮華が首を傾げた。
賊が森で暮らし活動しているのであれば、森の獣を喰らい、血に触れ、皮を身につけるなどして臭いが移る事は自然ではないか、ということだ。
「私も最初はそう考えたのですが」
一色が応え、
「雲類鷲(うるわし)、詳しく」
楠野が継いだ。
楠野に促され「はい」と雲類鷲中士が一歩進み出る。切れ長の涼やかな瞳が、天幕内の面々を一巡した。
「我々も、遺骸を検分するまでは気づきませんでした」
「血の臭い…?」
無意識な青の呟きに「はい」と雲類鷲が頷く。
「表面的に染み付いた臭いではなく、もっと体の奥深くに混ざり合うような…人間の血に異質な臭いが混在していました」
説明が難しいのですが、と雲類鷲は言葉を切って少しの思案を挟む。
「あれ、見せてみるか。百聞は一見に、だ」
楠野が目配せをすると、三人は顔を見合わせた。
「承知」と次に檜前中士が前に出る。この天幕の中でもっとも上背があり、厚みのある体躯。変貌後の羆に似合う見目だ。
徐ろに檜前は苦無を取り出すと、自らの手の平にうっすらと線を引いた。
少しずつ血玉が浮き出てくる。
「俺は体験済みだからトモリ、お前やってみろよ」
楠野が苦無を一色に手渡す。
「何をだ?」
「袖」
「??」
困惑する一色は、楠野に促されるままに片腕の袖を捲った。
「腕、切ってみろ。ほんの少しでいい」
首を傾げ、言われるがまま一色は苦無で腕に小さく傷を作る。ミミズ腫れのような傷跡から、薄っすらと血が浮かび上がった。
「…何だろう…」
青は小首を傾げ、目の前のやりとりを見つめる。朱鷺と蓮華は身じろぎせず佇んでいた。
「失礼」と短く断りを入れ、檜前が一色の腕をとる。切った檜前の掌の傷と、一色の腕の傷を重ねる形だ。
「…?」
天幕に一瞬の静寂が通り過ぎ、
「っ!」
一色の顔色が変わった。
「ぐ、っ…!」
目眩でもしたか、体の均衡が崩れて半歩身を引く。
「離…っせ!」
檜前の手を振りほどき、一歩、二歩と後ずさって、膝の力が抜けて体が沈みかけたところを背後から楠野が羽交い締めにして一色の体を支えた。
「ど、どうしたんですか??」
慌てる青とは対照的に、蓮華と朱鷺からは一切の感情の揺れが見られない。
「い、今のは…」
呼吸を整えて一色は自分の足で体勢を立て直すも、その面持ちには疲労の影が残る。
「よく分からないが…心臓を掴まれたように苦しくなって、それで」
一色の視線が、檜前を見上げる。
「一瞬、君がとても、怖ろしいものに感じた…」
「怖ろしいものに…」
隊長の様子に、朱鷺と蓮華が顔を見合わせた。
「念のため、解呪を」
朱鷺が前に進み出て、一色の腕をとり符を添える。解呪の唱えで符が青白く発光。握りつぶした龍の手甲の掌に、黒煤は残らなかった。
「申し訳ありません、ご無礼を」
一歩引いて頭を下げる檜前へ、
「いや、謝らなくて良い」
一色は柔く首を横に振った。
顔色はだいぶ平常に戻っている。
「血毒…ってこと…かな」
様子を見守っていた朱鷺の呟きに、蓮華から「そのようですね」と同意の頷きが返った。
血毒(ちどく)は、薬術や毒術で使われる通称の用語で、青も机上の知識としては知っている。言葉の意味合いは血に限らず、体液や唾液も内包している。
噛まれたり、創を舐められたり、触れたり、粘膜に付着したり、様々な経緯で人間の内部を侵す要因を指し、総じて人間にとって強すぎる影響となることから「毒」と呼称されている。
「あなた達の血は、人にとって強すぎるみたいね」
蓮華の視線が、三人の中士たちに向く。
「傷口から中に入り込んで、隊長の精神に一瞬だけど、影響を与えかけた」
「精神にも、ですか?」
思わず青は身を乗り出す。本で得た知識では、身体への影響についてしか記述が無かった。
「隊長が…檜前中士に抱いたのは…「畏怖」…」
それは獣がより強い獣に対し抱く、怖れと、念。
「檜前中士の血が、一瞬とはいえ、一色上士の意を掌握しかけたってこと」
「では、賊の遺骸から嗅ぎ取った臭いというのは…」
「恐らく我々と同じ獣血人か獣人の血と思われます」
ちなみに、書物上の記載において獣血人と獣人の違いは「二足歩行し人間と同等の知能、言語能力を持つ獣」が獣人であり、一方の獣血人は「獣の血を持つ人間」とされている違いがある。
だがいずれも五大国においては極めて稀少種である事から、彼らに関する情報や資料はほぼ無く、伝承上の存在とすら位置づけられているほどだ。
「こいつらの五感は、信用していい」
俺が保証する、と楠野。訓練所の教官として三人と過ごす時間が他者より長い分、身を持って理解しているのだろう。
「…実は…心当たりがあります」
ぽつりと、視線を伏せていた小毬中士が声を発した。
「私たち三人よりも前に、訓練所にとある獣血人が所属していたと聞きました」
こころなしか、声に細かな震えを感じる。
雲類鷲や檜前の表情にも影が差した。
「俺が教官として入る前の事だが、聞いたことがある」
と、楠野が続く。
「確か訓練所を辞めて姿を消してしまったとも聞いた」
「そんな…」
青は覆面の下で軽く唇を噛んだ。
行方を晦ました人間の末路はいくつかの可能性があるものの、最悪な事例は賊化や国抜けだ。いずれも待ち受けるのは法軍人による誅殺、死。
「その獣血人について何か知っている事は他にありますか」
「申し訳ありません」
「俺もそれ以上の事は」
ふむ、と一色は顎に指を添えて口を噤んだ。
また天幕にしばしの静寂が流れた。
幕の外からは、ひと仕事を終えた面々が火を囲んで寛ぐ声が流れてくる。
「仮に賊の中に獣血人がいるとして、そいつが鼻や夜目が利くとしたら」
一色が、視線を上げた。
天幕の中、全員の視線が隊長を向く。
「私なら、砦でのんびりと待つ指示は出さない」
「!」
いち早く動いたのは楠野だった。
「総員、夜襲に備えろ!」
天幕を出て、休憩に入っている面々に呼びかけた。
「え…!?」
「承知!」
緩みかけた野営地の空気が、一瞬にして再び張り詰めた。
太陽が沈みかけた逢魔ヶ時の空は紅色と紫色が混じり合い、夜闇を迎える前の最後の輝きで森を染めている。
夜の帳が下りる時、森はまた戦場となる。
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