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野営地に灯していた焚き火が何者かによって消された。
おそらくは森の闇に潜んでいた何者かによって、水術が使われたのだ。
暗闇の中、野営地の内と外周から同時に多人数が移動する気配が蠢いた。
「ぎゃっ!!」
藪の中で、野太い悲鳴が上がる。
「うがっ、ぁあ!」
「ぐあっああ!」
立て続けに数か所から声が上がった。
「いい感じ…」
青の隣から、朱鷺の低い呟きが漏れる。
闇の中で悲鳴の連鎖は緩やかに蛇行しながら、近づいていた。
青が朱鷺の指示で仕掛けた罠を踏み、避けようとした賊たちが気づかぬうちに誘導された場所、そこは―
「炎神、紅気!」
楠野の号令。
直後、暗闇に炎の帯が巨大な半円を描いた。
照らし出されたのは、巨大な老木を中心に開けた剥げ地と二十数人ほどの黒装束の賊達の姿。
「!!」
「しまった…!」
おびき寄せられた。
気付いた幾人かが踵を返しかける。
そこへ、
「地神、蠢動」
地に両手を添える一色の唱えと共に、一帯が揺れた。
地の蠢きは巨大な老木の根から太い幹を伝い、梢に至るまでを震わせ、葉脈にまで行き渡った毒を一斉に放出させた。
「ぐっ!」
「な、体が…!」
時が歪んだかのようだった。
老木が放出した痺れ薬を吸った賊達の足が、手が、体が、動きを停止させる。
倒れ込み動けなくなる者、赤子のように這いずる者、辛うじて動ける者、毒物の耐性ごとに反応は様々だ。
「殺れ!」
一色、楠野両上士の号令で、身を隠していた准士、中士達が飛び出し、動きが鈍った賊達を仕留めていく。
「うわぁ…お見事です」
高枝から眼下を眺め、青はただただ感嘆の息を漏らすしかなかった。
雲類鷲中士ら三人の嗅覚は正しく、隊長らの判断は的確で、朱鷺と蓮華の薬の効果は覿面。
「すごいですね一師、いてっ!」
頬を紅潮させて朱鷺を振り向くと、黒い嘴でこめかみを小突かれた。
「まだ…」
面の奥から、警める目が鈍く光った。
「頭目が…まだ…」
朱鷺の言葉は正しいと、直後に判明する。
「クソッ!」
前衛の惨状を前に、賊の後衛が引き始めた。
一人が背を向けると連鎖的に、我も我もと引き返そうとする。取り逃がすものかと中士や准士たちが追随した。
「!」
「ぐあ!」
突如、稲穂色の風が横切った。
霞が取り払われた月光の下、賊数人と中士や准士を巻き込んで木々と藪が横薙ぎに払われる。
木っ端と粉塵の煙幕の向こうに姿を現したのは、金色の獣。
「あれは…!」
その場にいた誰もが空を見上げ、動きを止めた。
高枝の上の青は身を乗り出して、後ろから「危ない」と朱鷺に襟を掴まれる。
「頭!」
賊たちがそう呼ぶのは、大狐。
その大きさは、いつか青が森で遭遇した猪の妖獣を彷彿とさせた。
稲穂色は月光を受けて金色に輝き、しなやかな四つ足に鋭利な爪、天を指す耳、そして何より目を引くのは巨体よりも更に大きな尾。
「でけぇ…!」
「狐の妖獣か?」
准士の誰かが上げた声に、
「いいえ」
小鞠中士が応えた。
「尾が単一です。あれは妖狐ではありません。それに…」
小鞠が指摘した通り、雲のように巨大な尾は、一本。妖獣に分類される狐は、尾が二又以上に別れているものと定義されている。九又になると妖魔に類される。
『敵前逃亡は許さぬ!』
咆哮の代わりに、狐が発したのは人の言葉だった。
鼓膜を震わす声が衝撃波となって伝播する。散り散りになりかけた賊どもがことごとく、体を強張らせてその場に固まった。
「ウ…ぐ…」
黒い装束から見え隠れする目はどれも虚ろで、意思の光を宿していない。
「やはり…!獣血の…」
目端を顰めた雲類鷲が駆け出す。地を蹴り大鷲に姿を変え、大狐の眼前に飛来した。気を逸らさせた隙に熊へ変化した檜前が、負傷者を踏みつけようとする大狐の片足に体当たりをして噛みつく。
『ギャァア!』
甲高い女の悲鳴のような咆哮を上げ、大狐が地団太を踏んだ。
大狐の足踏みを搔い潜るネズミが小鞠中士に姿を戻し、倒れた中士を担ぎあげる。
同様に人間の姿に戻った雲類鷲も、気を失った准士を背負って大狐の足元から逃れるべく駆け出した。
「もういいぞ!」
二人の合図を受けてヒグマも人の姿となり、風術で身をひるがえして大狐の爪から逃れる。
『グゥ…ッ!まさか他にも同胞がいたとは…』
月光を反射して、狐の眼が金色に光った。
「俺達も、シシグニの出の者」
檜前は負傷者を背負った二人を背に庇いながら、大狐に対峙する。
「同胞のよしみとは言わないが…投降する気は無いか」
『フン…ずいぶんとご立派な家畜になったこと』
憎々しげに吐き捨てて、大狐は巨大な尾を振る。
一振りするごとに大木が破裂し、岩が砕け飛んだ。
「凪之国法軍上士、楠野だ」
砂利や木っ端交じりの風を避けながら、楠野が前に出た。負傷者を背負った雲類鷲と小鞠は後方へ。
「楠野教官」
三人の元教え子へ「任せろ」と言い残し、楠野は大狐を見上げた。
「お前が頭か。外つ国より凪へ流れて、法軍に身を寄せていたのだろう」
大狐の口吻が歪み、白い牙が歯ぎしりする。
「何故抜けた。それほどの力があれば、立身できたろうに」
『法軍の人間がそれをほざくか!』
怒声と共に再び尾が地を叩き、根こそぎ抉られた木や岩が襲い来る。
「龍の巣」
楠野が起こした風の幕が、ことごとくを粉砕した。
『アタシを女狐と誹り、蔑んだのはオマエ達だ!』
悲鳴のような怒号が轟く。
それを号令にするように、動きを止めていた賊達が一斉に武器を抜き突撃を開始した。
その背後で跳躍した稲穂色の毛並みが空を覆い、月明かりを隠す。
「来るぞ!」
凪隊側も迎え討つべく、隊長の号令で扇状の陣形をとった。
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