第壱夜 奇を見て知らざるは勇なきなり

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「で、でも……大丈夫なの?」 「この子のこと? それなら心配いらないよ。この子は何もしないから」  そう言ってクルミは私が驚いた拍子に床に落としてしまったデンモクを机に戻し、幽霊少女の隣にぽすんと腰を下ろした。クルミが言うにはこの子はカラオケで歌を聴くのが好きらしく、誰かが209号室を利用している間だけ現れるとのこと。いつからここにいるのかまでは分からないものの、クルミが初めてこの店を利用したときから存在してたらしい。 「どうやったら何かするとかしないとか分かるの?」 「んー。何となく、かな? 感覚的なことだから上手く言えないんだ」  ごめんね、とクルミは人差し指で頬を掻いた。反射的に聞いてしまったものの、知らなくても仕方ない。誰にでも見えるモノでさえ、感じ方は人それぞれなのだから。他の人に見えていないモノが見えていたとしても、見え方まで全部同じというわけではないだろうし。クルミにしか見えていない何かがあっても何ら不思議ではない。  クルミの隣に腰を下ろして少女を見る。クルミが歌っている間は手拍子をしてくれていたが、曲が止まってからはずっと手を膝の上に置いている。次の曲が始まるのを待っているかのように、ただじっと微動だにしない。少女が何を思っているのか。どうしてここにいるのか。私には何も分からない。 「ユイぽん?」  少女の隣へ移動する。私とクルミで少女を挟むような形。クルミは不思議そうな顔で少女越しに私を覗き込む。どうしたの、という意味なのだろう。でも、私にもよく分からない。私がどうして席を移動したのか。これから何をしようとしているのか。それが自分でも分からない。何故か。まるで吸い込まれるように。ただそんな感じ。少女を見ていると、胸が苦しくなった。どうして胸が苦しくなるのか。それさえも分からないまま。 「ねえクルミ」 「ん?」 「ここ、来月末で潰れちゃうんだよね……?」 「うん」 「そしたらさ。この子、どこに行くのかな」  私の問いにクルミは言葉を詰まらせる。分かってる。クルミに聞いても仕方ないことだ。でも、誰かに教えて欲しくて口に出さずにはいられなかった。カラオケで歌を聴くのが好きなのに、もし、この店が潰れてレストランになったら。どこかへ消えてしまうのだろうか。それとも、この場所でいつまでも始まらない歌を待ち続けるのだろうか。そんな考えが頭の中をぐるぐると回る。答えなんてきっと誰も知らないのだと思う。それでも、想いを巡らせずにはいられなかった。  ――迷子――ていい。だから――を諦めないで。  突然、右目の視界にノイズが走った。塗り潰された景色。見覚えのない人。耳に届く歌声。またノイズが走る。さっきと代わり映えのない景色。でもさっきとは違う人、そして耳に届く歌声。高鳴る胸の鼓動。周囲を包む熱気。忘れられない希望。またノイズが走る。それは終わりを告げるノイズだったようで、左目と調和のとれた景色が戻ってきた。そして安堵と同時に、困惑が芽生える。 「今の……」  覚えのない景色。覚えのない人。覚えのない歌声。知らないものばかりが混在するなかで、唯一覚えがあったもの。それは歌だ。とても懐かしい歌。私が小学生の頃に、テレビからよく流れていた人気アーティストの歌。そのアーティストはもうテレビでは見なくなったけど、たまにコマーシャルで歌が起用されていたりもする。デンモクを手に取って、曲名を入力するとお目当てのものはすぐに見つかった。クルミにその曲を見せると、目を丸くして驚いた。 「うわぁ、懐かし~! これママがめっちゃ好きでさ~、小さい頃によく聴かされてた! しかもママとこの人が知り合いみたいで、一回だけ会ったこともあるよ! でもどうしたのいきなり」  私はクルミにさっき見たモノをありのままに話した。最初はうんうんと聞いていたのだが、途中から面白そうとばかりに顔を輝かせ始める。だからこうしよう、という理由にはなっていなくても、私がどうしてみたいのか、をクルミはしっかり察してくれたようだ。クルミは私が持っていたデンモクを奪い取ると、そのアーティストの曲を目にも止まらぬ早業で片っ端から入力していく。総数は80曲以上もあるため、入力が終わる頃には初めて見るくらい縦長なリストになった。 「これ、さすがに二時間じゃ歌いきれないよね」 「オール、オール♪」 「クルミってば元気過ぎ。……仕方ない。今日はオールでいくかー!」 「いえーい! 明日の大学なんて知るかー!」
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