第壱夜 奇を見て知らざるは勇なきなり

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 全力を出し切ってへとへとのまま、ビルから通りへ出る。眩しい朝の太陽が出迎えてくれたけど、強い光のせいで目の奥がチカチカと痛んだ。うーんと大きく背伸びをして、息を吐きだしながら上げた手を勢いよく下ろす。朝の清々しい空気を肺いっぱいに取り込むと、薄っすらと眠気に襲われていた頭がだんだんと覚めていく。小鳥の囀りがよく聞こえる。まだ早い時間のため人通りは少ないが、ちらほらとスーツ姿の男性が慌ただしくビルに駆け込んでいくのが見えた。こんなに朝早くから大変だなあ、とぼんやり思う。  クルミは大きな欠伸をひとつ、こっくりこっくりと船を漕ぎながら歩道の真ん中に突っ立っている。オールを希望していた割にはもう睡魔に負けそうだ。まあ、あれだけ歌って踊り続ければ疲労困憊になるのも仕方ない。私はこのまま大学へ行ってもいいけど、この状態のクルミを放っておくのも気が引ける。ここからだと私の家の方が近いし、私の家で寝かせてあげるのが良さそうだ。私もクルミもひとり暮らしのため、誰に気を遣うこともない。それに、クルミとはまだ話したいこともあるし。  ちょうど通りかかったタクシーを止めて、寝ぼけたクルミを後部座席へ押し込む。私も乗り込んで運転手に行先を伝えた。走り出してすぐ、クルミはぽてっとこちらへ倒れ込んでくる。そのまま私の膝を枕にしてすうすうと可愛い寝息を立て始めた。クルミの目に入りそうになっている前髪を横にどかすと、ううんと唸りながら閉じた目にぎゅっと力を入れるが、すぐにふにゃっと力が抜ける。子どものように可愛らしい寝顔に少しだけ見惚れていた。  クルミの誕生日は私より早いため、一応、私より年上である。しかし、その見た目からふたりでいると大体は姉妹、ときには親子に間違われることもあった。クルミの見た目が幼いというのもあるし、私が年上に見られるというのもある。その度にクルミは私が大人びているからだとフォローしてくれるが、結構ショックを受けてきた。まあ、それももう最近はすっかり慣れてしまっているけど。 「ふわぁ……」  クルミの寝顔を見ているとだんだん私も眠たくなってくる。眠ってしまわないように窓の外を流れる景色を見ながら、少女のことを考えてみた。歌っている間はずっと手拍子を続けてくれていたし、途中からは笑ってくれてもいた。クルミの嬉しそうな反応からして、それはクルミも見たことがない反応だったのだとは思うけど、じゃあそれが何になったのかまでは分からない。入力した曲を全部歌い終わり帰る準備をする頃になれば、いつの間にか少女は消えていた。満足したから成仏したのか、それとも歌が終わったからいなくなっただけなのか。それも私には分からない。  闇には関わらないようにと考えていたけど、少女のような闇もいるのだと思うと、避けることだけが正しいとは限らない。だって、善いモノと悪いモノが存在するのは人間だって同じだ。私に何ができるかと言われれば何もできないけど、少女のような闇が他にもいたとして、笑ってもらうためにできることをしてみるのも悪くないのではないか。きっとそれはただの自己満足でしかないけど、何もしないよりはましだと思うから。目の前に困っている人や悲しんでいる人がいたとして、目を逸らして素通りすることなんてできない。たとえそれが人間であっても、闇であってもだ。 「ほら、クルミ。着いたよ」 「むぁ~……ユイぽん、おんぶ」  家についてタクシーからもそもそと降りたクルミは、目を擦りながらそんなことを言う。断るとここでしゃがみ込んで寝そうなので、仕方なく背中を向けた。背中にクルミが乗ったのを確認して、マンションの中に入る。エレベーターで五階にあがり、部屋の前で四苦八苦しながら鞄から鍵を取り出した。鍵を開け、玄関で自分の靴を脱いでから、クルミの靴も脱がせる。体勢的に靴を並べるのは辛かったため、今日だけはいいやと寝室に向かう。ベッドの縁に腰を下ろし、クルミをゆっくりと降ろしてベッドに寝かせる。ひといきついてから家着に着替え、キッチンへ向かった。  棚からコップを出して、冷蔵庫のお茶を注ぐ。ごくごくと喉を鳴らして一気にあおって、大きく息を吐きだした。リビングに移動して、化粧台に置いてあるメイク落としでせっせとメイクを落とす。メイクが落ちるほど、外行きモードからぐうたらモードにシフトされていく。メイクを落とし終わり、汚れたシートをゴミ箱に放った。 「あ、クルミのもやってあげなきゃ……」  ふと思い立ち、メイク落としを持って寝室に戻る。メイクしたまま長時間寝てしまうと、起きたときにお肌が大変なことになってしまう。寝返りをうったりするとシーツも汚れてしまうため、今の内に落としてあげなければならない。 「はむにゃ、ぬうぇ……」  意識は少しだけあるのか、顔をしかめて変な声をあげながらも無抵抗で落とされてくれる。落とし終わると心なしか寝顔が柔らかくなった。まあ、メイクなんて仮面みたいなものだし、それが無くなればすっきりと眠れるのは間違いない。リビングに戻るのも面倒臭くなってしまい、私もベッドにお邪魔する。今日は色々と驚くことがあったけど、不思議と嫌な気はしない。どころか、充実していたとさえ思える。だから。話したいことも聞きたいことも沢山あるけど、今はこの不思議な充足感に包まれたまま眠りたい。そう思い、頭の中を空っぽにして目を閉じたのだった。
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