第壱夜 奇を見て知らざるは勇なきなり

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 駅へ送っていく予定だったが、ちょうどバスが来たからと飛び乗ったクルミを見送って、ひとり薄暗い路地を歩く。いつもとなにも変わらないはずの帰り道も、今では全く違う景色に見える。街灯の明滅、微かな物音、頬を撫でる風。そんなものですら、今の私の心を揺さぶるには十分過ぎる材料だった。隣にクルミがいないだけで、まるで夜の密林にでも放り出されたかのような気分になる。早く家に帰りたい。その一心で歩を早めた。タクシーでも通れば止めるつもりだけど、こんなときに限って一台も拾うことができない。  普段なら女のひとり歩きで気をつけるのは不審者だけだ。できるだけ明るい場所を通り背後や不審な人影に気をつけておけばいい。しかし、今はどこに注意を払えばいいのかが分からない。地面、壁、果ては空中まで。どこからとはなしに現れるかもしれない可能性があるため、常に気を張り続けることを強要される。だからこそ精神ががりがりと削られていく。  蓄積した疲労を吐き出すように、大きく溜め息を吐いた。やり過ぎなのかもしれない。しかし、やり過ぎて損なこともない。むしろ、誰かを、私自身を守るために必要なことなのだろう。 「もう少し……」  今後の外出が億劫になるほどの疲労感に苛まれながら、ただひたすらに家路を急ぐ。目の前の公園を抜ければ自宅の裏手に出る。そうすれば、もう安心だ。今日は家に帰ったらシャワーを浴びてさっさと寝てしまおう。そんなことを考えていた矢先のことだった――。 「きゃあああぁぁぁぁぁぁ!」  突如として、けたたましい女性の悲鳴が響き渡る。疲労でぼんやりとしていた頭が驚きで冴えていく。悲鳴は近くから。きっと公園の中だろう。芽生えた少しの不安と恐怖を振り払い、いつでも通報できるようにスマホを握り締めて走った。 「助けて……誰か助けて!」  薄暗い公園の中央でひとり、制服を着た女の子がジタバタと暴れていた。しかし、彼女の周りには誰もいない。不審者に襲われているわけではなさそうなことに安堵しながらも、ハッと我に返っていまだ暴れ続けている女の子に慌てて駆け寄った。 「どうしたの!?」 「助けて、助けて!」  女の子は涙で顔をぐしゃぐしゃにして私の腕にしがみつき、助けてと必死に言い続ける。薄暗いため断定はできないが、怪我をしているわけではなさそうだ。服装も特に暴れていることを理由にしたもの以外は乱れておらず、誰かに襲われた後でもない。どこか体調が悪いのかとも思ったが、それならどこが痛いなど教えてくれそうなものだが。しかし、ここは素人が勝手な判断をせず、ただちに救急車を呼んで診てもらうのが安全だろう。 「ちょっと待ってて、すぐに救急車を呼ぶからね!」 「ち、違――あ!」  救急車を呼ぶためにスマホに番号を入力しようとしたその瞬間、女の子の身体がずずっと動いた。それと同時に彼女の顔は恐怖でさらに歪んだ。私の腕を掴む力が強くなる。私は何が起こっているのか全く理解できていなかったが、彼女の身体がまたずずっと動いたことで、ようやく状況が見えてきた。  彼女の足に、何かが絡まっている。  紐のように細長いそれは、赤く歪で水気を帯びており、街灯の弱々しい光をぬるぬると不気味に反射していた。目で辿っていくと、それはどうやら公園内にある公衆トイレから伸びてきているようだ。気持ちが悪い。絶対に触りたくないと思ってしまうくらい。彼女の足に絡みついたそれに、生理的な嫌悪感が湧いてくる。私がそう感じているのだ。それに掴まっている彼女はそれどころではないだろう。  助けて。それ以外に言いようがなかったことは理解できたが、これをどうしたらいいのかまでは分からない。これ以上引っ張られないように彼女の身体を支えながら、大丈夫だからと何度も言い聞かせる。しかし、それは単なる気休めでしかないことは私も理解していた。どうしたら彼女を助けだせるのか、必死に考える。 「うっ……!」  ずきりと右目が痛んだ。目の中で蛇が暴れている。私に何か伝えたいことがあるのだろうか。いつもの綺麗な渦ではなく、ぐにゃぐにゃと歪んだ渦を巻いている。必死で蛇から何かを汲み取ろうとしてみるものの、それが何を意図しているのかまでは分からない。分からないのだが、蛇が反応しているということは、この紐のようなモノは闇なのかもしれない。 「もし、これが闇なら……」  女の子を助けることができるかもしれない。黒い靄のときのように、蛇に喰らってもらうことで。できるかどうかは分からないけど、やってみないと始まらない。  お願い。この子を助けて。  そう祈りながら、目を閉じて闇を掴んだ。ぬめぬめとして温かく、どくんどくんと生きていることを体現するような鼓動が伝わってくる。気持ち悪いけど、手を離すまいと必死で歯を食いしばった。蛇がさらに動きを激しくした瞬間――。 「ユイ」  凛とした母の声が聞こえた。
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