第壱夜 奇を見て知らざるは勇なきなり

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 目を開き、周囲を見回す。すると、母は何故か公衆トイレの屋根の上に立っていた。その顔つきはいつもの優しい母とは違い険しい。見下ろされ、矢のように鋭い視線が私に突き刺さる。あれは。母のあの顔は。 「ユイ。それが貴女の答えですか」 「か、母様……一体何を? 早くこの子を助けなければ!」  私の言葉に母は溜め息を吐いて目を閉じた。数秒の沈黙ののち、目を開いて屋根から飛び降りた。地面を這う闇の真横を真っ直ぐに、こちらへ向かって歩いてくる。近づいてくる母の顔を見ていると、だんだんと手が震えてきた。蛇に睨まれた蛙のように。呼吸が上手くできずに息苦しくなってくる。あれは、今まででたった一度だけ。たった一度だけしか見たことはない、母が本当に怒っているときの顔だ。  小学校低学年の頃。仲良しだった子がある日突然転校することになった。その子の最後の登校日である週末、学校が終わったらお別れ会をするために、いつもの仲良し五人組とその子の家で待ち合わせすることになった。しかし、当日。ひとりだけ待ち合わせ場所に来なかったのだ。転校する子は寂しがっていて、私たちは来なかった子に不満を持った。そして翌週。その子が私たちを見つけて謝りながら近寄ってきた。けど、私たちはその子を無視してしまった。仲間外れにして、いないものとして扱ったのだ。その子は泣いていた。ごめんねって何度も謝りながら。そして数日後、その子から経緯を聞いた親が我が家にまで謝りに来てくれたことでそれが発覚し、母を怒らせてしまった。どんなに言い訳しても、どんなに泣いても、どんなに謝っても許してもらえず、「何故、まずはその子に来なかった理由を聞かなかったのですか」と。何度も何度も。ただそれだけを聞かれ続けた。私が泣きながら分からないと答えると、「何故、理由が分からないのに無視をしたのですか」と。またそれだけを何度も聞かれた。結局、その子が来られなかった理由は喘息の発作が起こってしまったためで、その子は忘れていたのではなく来たくても来られなかったのだ。 「言ったはずです。触れたモノが邪な闇ならば躊躇わずに喰らいなさい、と」 「だ、だからです。この子を助けるために……」 「その子に助けが必要ですか?」  母の言葉を理解することができない。得体の知れない闇に引きずられ、泣き叫んで助けを求めているというのに。母にはそれが見えていないのか。いや、きっと見えているはずだ。それなのになぜ。この子を見捨てろと。そう言っているのか。どうしてそんな無慈悲な言葉を放つのか。 「泣き叫び、助けを求めれば死にますか?」 「……え?」 「足を取られ引きずられると死にますか?」 「あ……」 「もう一度聞きます。その子に助けは必要ですか?」  考えを見透かされたように疑問を投げかけられる。それに対し、私は何も答えられない。言葉が詰まる。首を縦にも横にも振れず、ただ戸惑うことしかできなかった。 「ユイ、聞こえますか?」 「……何が、でしょう」 「冷たい暗闇の中で温かな愛を求める声が」  耳を澄ませてみる。しかし、聞こえるのは女の子の鼻をすする音、そして虫の声、風の音だけだ。声なんて。何も聞こえない。どうしてか、私の目からも涙が滲む。視界がぼんやりとしてきて、ぽたりと涙が頬を伝って落ちた。今まで、母が間違っていたことはない。全部正しかった。だから今も間違えているのは私の方。それなのに。母が言っている言葉が理解できない。いつも母は解決策を単刀直入には教えてくれない。私が考えて答えを導くまで待ってくれるだけだ。ただ、闇について私が無知過ぎるが故に、母は多くのヒントを与えてくれている。それなのに。それなのに、何も分からないと子どものように泣いている自分が情けなくて仕方ない。助けたい。その気持ちは本物なのに。頭の中が迷子になっている。  私が答えを導くのを待ちながら、母はすっとその場にしゃがみ込んだ。私に向けていた険しさを和らげ、いつもの優しい表情で闇を見る。美しい白皙の細腕を伸ばして、慈しむように闇を撫でた。それはまるで、我が子を愛でる母親のような。そのせいだろうか。さっきまではあれだけ気持ち悪いと思っていたというのに、今ではおぞましさの欠片もない。――ああ、そうか。私が目を逸らしていたから。気持ち悪いと遠ざけていたから。だから見えなかったんだ。だから聞こえなかったんだ。でもようやく。  私にも、聞こえた。  母の言う、温かな愛を求める声が。公衆トイレの右側。女子トイレの暗闇から響く赤子の声が確かに。それならばきっと、この地面を這う紐のようなものはへその緒なのだろう。  この子が女の子を引き寄せているのは何故なのか。声が聞こえたとて、まだ分からないことがある。だから教えて。もっと、アナタのことを。
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