第壱夜 奇を見て知らざるは勇なきなり

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 右の視界にノイズが走る。  びちゃり。ずっと真っ暗だった視界に弱々しい光が見える。目の前に広がる透明な世界に、じわじわと赤が滲んでいく。冷たい。柔らかな温もりに包まれていたはずなのに、ここは震えるほどに冷たい。息ができないほどに苦しくて、涙がでそうなほどに寂しい。  またノイズが走る。  苦しそうな呻き声が聞こえる。痛みを堪えて涙を堪えているような。それは、私の声ではない。もう赤に満たされた世界の向こう側。誰かが苦しんでいる。暗闇の中でいつも聞いていた声。聞いていると安心できる声なのに、それが苦しんでいると私も苦しくなる。  ふと、薄暗い赤が明るくなった。その向こうに、ぼんやりと人の輪郭が浮かび上がる。いつも誰よりも傍にいたはずなのに、初めて見るその人。私は嬉しかった。大好きなその人の顔を見ることができて。でも、どうしてか歪んでいる。苦痛に歪んでいるのか、それとも嫌悪に歪んでいるのか。私には分からない。嬉しいのに。酷く悲しい。  大きな音が聞こえてくる。ぐにゃぐにゃと世界が滲んでうるさい。やっと会えたのに。また見えなくなる。冷たい。うるさい。歪んで、揺れて。大きな音を立ててまた世界が闇に閉ざされた。 「――はっ」  もう一度走ったノイズを最後に、視界が戻ってきた。視界から及ぼされていた感情も消えている。私は腕に縋る女の子を見た。間違いない。視界が闇に閉ざされる前に見えた顔。私――正確には私ではないけれど――を見下ろして顔を歪めていた。  女子トイレから聞こえる赤子の声。右目が映した世界で見た彼女の顔。そして、私がその世界を通して感じたこの気持ち。この闇がどうして彼女を襲うのか。それらを繋ぎ合わせるようにして浮かび上がる事象。まさかそんなことがとは思うけど、それなら辻褄が合う。  彼女の目を見る。まだ恐怖に震えてぽろぽろと涙を流しており、荒い息を繰り返していた。そんな彼女を追い詰めるのは気が引けたが、事実を確かめないことには前には進めない。 「ねえ、貴女……もしかして妊娠してた?」 「――え?」  ぐらりと瞳が揺らいで逸れた。私でもすぐに分かるほどの激しい動揺。そして沈黙。それは即ち肯定である。きっと、彼女はこの歳で妊娠してしまい、そこにある女子トイレで出産して流してしまったのだろう。私の知る限りでは近所でそんな問題があったとは聞いていないため、ストレスや故意的な手法による早期流産の可能性が高い。分別も弁えずに愛し合うことは、常に大きな責任が伴う。身勝手な行動で生まれた責任は、当人が真摯に向き合い全うするべきである。それなのに。何の罪もない小さな命を自分勝手に奪うなんて。  だけど、だとしても。   周囲からは奇異な目で見られ、これからの人生は想像もつかないほどに凄惨なものとなるだろう。宿った命は確かに守られるべき命だった。それが失われたことは二度と繰り返してはいけないこと。そして、尊い命を奪ったことに対する責任を負わなければならない。しかし、しかしだ。ここにある命も守られるべき尊い命には変わりない。中高生で妊娠したともなれば、その不安たるや私などでは想像もつかないほどだろう。相手に妊娠を告げたところで誠実な対応をしてくれることは稀で、多くは問題を隠そうとする。友人や親でさえ簡単に打ち明けられるような内容でもなく、きっとひとりで抱え込んでずっと苦しんでいたはずだ。何てことをしたんだと、責め立てることはいくらでもできる。しかし、そんなことに何の意味もなければ、私にそんな資格はない。 「だって……誰にも言えなくて、先輩に言ってもそんなこと知るか、お前がなんとかしろって言われて……親にも言えないし……だ、だから薬で……」  涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女は振り絞るように教えてくれた。私の腕を掴む彼女の手に力が入る。彼女が自分の行いを後悔していることは一目瞭然だ。もし、気にも留めず悪びれた様子もなければ、呆れて物も言えなかったかもしれない。しかし、彼女は深く後悔しているのだ。それならば、それについて私がとやかく言うことなど何もない。 「辛かったよね。苦しかったよね」  私が彼女にできることは抱き締めてあげることだ。赤子のように泣きじゃくる彼女の苦しみを少しでも理解できるように。どちらか片方だけを見るのではなく、両方をちゃんと見てあげる。そこにどんなピースが散らばっているのか、できる限り拾い集めるまで。そうして初めて見えてくるものがある。そして理解するのだ。  私は、とんだ思い違いをしていたと。
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