第壱夜 奇を見て知らざるは勇なきなり

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 泣きじゃくる女の子の背中をさすり、落ち着くようにそっと促す。本来なら彼女が完全に落ち着くまで抱き締めてあげたいところだけど、今ばかりはそういうわけにもいかない。闇が。あの子が。彼女をずっと待っているから。いつしびれを切らすかも不明な状況では、行動は早いに越したことはない。 「いい? よく聞いて。今貴女の足を引っ張っているのはきっと貴女の子どもだと思う。大丈夫、怖がらないで。あの子は貴女を怨んで殺そうとしているんじゃない。ただ寂しがっているの。貴女の温もりが欲しいだけなの」  なるべく彼女を怖がらせないように言葉を選んで話す。彼女もまた私と同じで、きっと闇に初めて遭った、または慣れていない部類の人間であるはず。幸い、今の私は彼女のその境遇を理解できる立場であるため、安心できる言葉というものを選ぶことができたと思う。 「で、でも私は何をしたら……」 「赤ちゃんだもの。抱き締めてあげればいいんじゃないかしら」  彼女の頭を優しく撫でて、不安を振り払えるように精一杯の笑顔を作る。いきなり抱き締めろと言われても困惑しかないだろう。私には闇の気持ちが感じられても、彼女もそうであるとは限らないのだから。それでも、彼女にはそうしてもらわなければならない。あの子が求めているのは母親からの愛情であって、誰でもいいわけではないはずだ。こうして私たちがいるにもかかわらず、彼女の足だけを捕らえて放さないのがその証拠。  まだ震えはおさまってはいなかったが、彼女は覚悟を決めたように立ち上がる。その身体を支えながら、一歩、また一歩近づいていく。ちらりと母を見ると、数歩後ろに下がって見守ってくれていた。その表情は柔らかな笑顔で、この行動を肯定してくれているように思える。まあもっとも、取り返しがつかなくなるような失敗を除いて、笑顔で見守り続けるのが母のやり方であるため、これが間違っていないとは断言できないのだけど。 「大丈夫。大丈夫だからね」  その言葉は彼女の心を落ち着けるため。そして、あの子にも届けるため。だけでなく、私自身にも言い聞かせるための言葉。今はまだ大丈夫。でも、いつ状況が変わるとも限らない。彼女とあの子を引き合わせることで、思い描いているものとは違った予想外の方向へ事態が転がってしまうこともあるだろう。もし、最悪の事態になってどちらかを選ばなければならないとしたら。考えたくはない。考えたくはないけど、迷っている暇なんてきっとないはず。だから、事態がどう転んだとしてもすぐに動けるようにしておかなければならない。  女子トイレの入口に辿り着いた。電気は切れているのかついておらず、スイッチも見当たらない。暗いままでは無駄に恐怖心をあおってしまうため、スマホのライトをつけて明かりを確保する。左右にふたつずつある内の左奥の個室だけ扉が閉まっており、地面を這うへその緒もその個室の隙間から出てきているようだった。  どくん、どくん、と私たちのではない鼓動の音が、薄暗い空間に響いている。胎内で聞いた音を繰り返し聞いて自らを落ち着けているのか、それとも自らの存在を知って欲しいがために鳴らし続けているのか。喜びに打ち震えるように高鳴る鼓動を感じながら、ふたりでゆっくりと個室へ近づいていく。生温かい空気に混じって濃い血の匂いが立ち込めている。個室の隙間から見える天井には赤黒く細い何かが何本も伸びて張りついていた。 「開けるわよ。いいわね?」 「……」  震えて歩くのがやっとな彼女に代わり、個室の扉に手を伸ばした。ちらりと鍵を見れば青になっている。内側から鍵はかけられていないようなので、少しずつ力を込めて扉を押した。最初は何かが引っかかっているような感触があったものの、ふとその感触も消えてしまう。私の腕を掴む彼女の手の熱を感じながら、ぎいぎいと軋みをあげる扉を開いた。  個室内には中央に浮かんでいる小さな赤い繭のようなものが、天井や壁、床に伸ばされた肉の糸で支えられていた。地面を這うへその緒は、その赤い繭へと繋がっている。赤い繭を目を凝らして見ると、それが何なのか理解できた。  拳大ほどのだ。  まだ人に成る前の不完全な。本来ならばもっと小さなはずの胚だけど、目の前にあるのはもっと大きなモノ。だからこそ、その不完全さをつぶさに確かめることができた。小さな手足縮めて体をぎゅっと丸め、スイカの種のような目がついている。 「あ……あぁ……」  この子を流してしまったときのことを思い出しているのか、彼女の目からはぼろぼろと涙が頬を伝って零れ落ちる。それに呼応するかのように、赤子の泣き声が響いてきた。まだ声を上げられない不完全な形であるにも関わらず、必死で声を上げて母親を呼んでいる。その様に、私の視界も涙で滲んでしまう。でも。これでようやく再会できたのだ。 「さあ、いってあげなさい」  彼女の背中を撫でるようにそっと押す。ごめんなさいと何度も謝りながら、彼女は吸い寄せられるように胚――我が子――を抱き締めた。
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