第壱夜 奇を見て知らざるは勇なきなり

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「お疲れ様でした。よく頑張りましたね」  静かな夜の公園で母とふたりブランコに乗って、買ってもらった缶コーヒーを味わう。じんわりと口の中に広がるほどよい甘みが、緊張や不安で蓄積した疲労を和らげてくれる気がした。母の労いの言葉を聞きながら、さっきまでのことを思い返す。  彼女があの子を抱き締めたあと、徐々に赤子の泣き声が小さくなった。伸びていたへその緒や肉の糸が薄れていき、最後には胚も含めて跡形もなく消えてしまった。どうしてかは自分でもよく分からなかったけど、もう大丈夫だと。不思議とそう思えた。最悪の事態にはならなくて、心底安堵して胸を撫で下ろした。もし。もし、あの子が彼女の命を脅かそうとしていたならば。私は、あの子を喰らうつもりでいた。そんなことしたくはなかったし、していいはずもない。それでも。目の前で今にも散ろうとしている命があるのなら。それを助けることが誰でもない私にできるのなら。私は迷わずに手を伸ばす。正解も何もない後悔だけが残る問いだとしても。だからこそ、私は自分の選択を信じようと思ったのだ。 「あれで……よかったのでしょうか」 「ふふ、ユイは欲張りさんなのですね。ふたりを救ったのですから、もう少し胸を張ってもいいと思いますよ?」  母の言葉を聞いて、少しだけ肩の荷が下りた気がした。正直なところでいえば、終わったのだ、という実感がなかった。本当にあれで終わりなのか。とんだ思い違いに気がついたあとであれば、まだ何か忘れていないか、やり残したことはないか、などをついつい考えてしまう。だから母のふたりを救ったという言葉を聞いて、ようやく終わったのだという実感が湧いてきた。 「そういえば、母様は用事があってお帰りになったのではないのですか?」 「こちらに住んでいる友人に会いに行っていて、帰るのは今からです。なので、帰る前にまたユイの顔を見ておこうと思いまして」  そう思っていたら、私が女の子を助けようとしている場面だったと。母があの場に駆けつけて助言をしてくれなければ、私はきっと何も知らないまま闇を喰らっていたかもしれない。それはそれで彼女を助けることができたと思えたことだろう。しかし、真実を知った今にして思えば、自分の行いがどれだけ蛮勇であったのかを思い知らされる。奇を見て知ろうともせず、ただ力を振るおうとしていた。それを思い返すだけで、手と足がぶるぶると震えてくる。 「母様、本当にありがとうございました」 「私は何もしていません。全部貴女がひとりでやったことです」 「そんなことはありません。もし母様がいなかったら私は……」  自分の震える手を見る。私ひとりだったらきっと、正しいことだと信じて疑わず、取り返しのつかない過ちを犯していた。それを止めてくれた母には感謝しかない。 「今回はたまたまふたりを救うことができました。しかし、いつもそうであるとは限りません。助けたくても何もできないことだってあります。取り返しがつかない間違いをしてしまうことだって」 「母様も間違いを……?」 「ええ、もちろんです。私も沢山……数えきれないほど間違えてきました」  母の顔に影が差す。しかし、すぐに笑顔に戻った。 「でも、落ち込んでばかりはいられません。救いを待つ闇はそこかしこにいるのですから。落ち込んでいる暇があるのなら、次に手を伸ばさなければなりません」  その強さが羨ましいと思った。今の母があるのはきっと何度も間違ってきたからこそなのだろう。私ならたった一度の過ちで進むのが怖くなるかもしれない。立ち直れなくなるかもしれない。しかし、強さとは間違いのその先にあるものだ。強さを備えたいのなら、間違いを乗り越えていかなければならない。 「私にも……できるでしょうか」 「ええ、もちろんです」  私の震える手に、母の手が重なる。女性らしくて美しい、細くて白い指。それなのにどこまでも、何よりも頼もしい。母から肯定してもらえると、私にもできそうな気がしてくる。 「それに、あの子を助けようとしたときのユイの目……」 「変……でしたか?」 「いえ、とても素敵でしたよ。あの人にそっくりな……とても熱い目をしていました」  あの人。それはきっと私の父のこと。でも、私は父のことをほとんど知らない。物心ついたときからずっと、私は母にひとりで育てられてきた。母が機械音痴なこともあって、実家に残っていた父の写真は友人に撮ってもらったという数枚だけ。それ以外は私の成長記録があるくらいだ。幼い頃から父がいないことに疑問を持ってはいたけど、聞いてはいけないような気がしてずっと鍵をかけてきた。それは今でも変わらない。  写真で見る父は優しそうな人だった。でもどこか少しだけ、頼りなさそうな雰囲気もあった。青い首飾りをしていたことをよく覚えていて、似たような飾りをしている人を見つけると目で追ったことも。結局、物心がついてから今に至るまで、私は父に会ったことがない。今どうしているのか、そもそも生きているのかどうかさえも知らない。もし生きていたとして、会いたいかと聞かれるとどちらとも言えないのが正直なところ。いない期間が長すぎて、今更会ったところで何を話していいかも分からない。もちろん聞いてみたいことも探せば沢山あるが、聞けないなら聞けないで特に支障があることでもないわけで。 「長話が過ぎましたね。私はそろそろ帰ります」 「またいつでも遊びにいらしてください」  母が時計を確認し、ブランコから降りる。私もそれに続いて、母に頭を下げた。ちゃんと栄養のある食事をしなさいと、母からのありがたい説教を頂戴する。頭を上げると、母は踵を返して歩き出した。しかし、数歩で立ち止まり、こちらを振り返る。 「ああ、そうだ。言い忘れていたことがありました――」
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