第壱夜 奇を見て知らざるは勇なきなり

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 シャワーを済ませてふらふらとリビングへ移動して、髪も乾かさずにどさっとソファへ倒れ込む。首筋を伝う水滴と濡れた髪の感触が、だらしないと背中を蹴飛ばしてくるが、今はそんな気力もないと気持ち悪さから目を背けた。  白い天井を黙ってじっと見ていると、まるで夢の中に浮かんでいるような気分になってくる。しかし、さっきまでの出来事が夢であったのなら、とは思わない。子蛇の眼は何の変哲もなかった私の世界を変えてしまった。それは間違いない。それでも。一連の出来事は私を成長させてくれたのも確かだから。  クルミがずっと抱えていた秘密を分かち合うことができた。そして、私の無知と視野の狭さを思い知らされた。何より、すれ違っていた闇と女の子を結ぶことができた。恐怖にすくみ泣き叫んでいた女の子に笑顔が戻ったのだ。普通の日常では決して拝むことができない光景。  ――いつかきっと、この子を。今度はちゃんと産んであげたい。  彼女が涙を拭って零した言葉。後悔と懺悔、そして希望。無責任な男との関係を絶って、真っ直ぐに生きて、いつか素敵な人と巡り合ったなら。きっと叶う。だってあの子が、彼女のことを見守ってくれるだろうから。そして幸せになって欲しい。何年先になるかは分からないけど、そうなることを私も切に願う。  ソファから身体を起こしてキッチンへ向かう。冷蔵庫から取り出した麦茶をコップに注ぎ一気にあおる。火照った身体に冷たさが染み渡る心地良さを感じながら、リビングに戻ってまたソファにどさりと腰を下ろした。  左手で首にかけているお守りの感触を確かめる。体温に触れて温かくなっている、滑らかな金属の質感。ペタルチェーンに繋がれた親指の爪ほどの、渦を巻く蛇が彫刻された装飾。蛇の双眸に埋め込まれた妖しく煌めく赤い石が、いつも鏡越しに私を見ている。これは物心ついたときから身につけさせられていて、いつも母に大事に扱いなさいと口を酸っぱくして言われていた。デザインは悪くないため嫌ではなかったが、どうしても忘れてしまうこともある。そんなとき、決まってポケットや鞄から見つかった。まるで、私についてきていたかのように。当時は私がポケットや鞄に仕舞っていたことを忘れていたのだろうと考えていたが、今にして思えば本当についてきていたのかもしれない。  ――もし、どうにもならないときはお守りを引きちぎりなさい。  帰り際、母が残した言葉。もともと、このお守りは私が闇に触れないように力を封じるための物。私自身に備わる力と、子蛇の眼の力を。しかし、それはつまり枷と同じである。見えて、触れられるようになった今では、危険に陥ったときにこの枷のせいでさらに危険なことになるから。それならば今お守りを壊してしまった方がいいのではないかと母に異議を唱えたのだが、それは得策ではないと一蹴された。理由は単純で、私に流れる血の力が強すぎるから。お守りを壊してしまえば、今よりももっと沢山の闇が見えるようになったり、沢山の情報が流れ込んでくるようになってしまう。さらに、力が強いということは闇からも見つかりやすくなるのと同義であり、力が強くても扱い方が分からないうちは危険な目に遭う可能性が高いのだと。だからこそ、今はまだお守りの力を借りて慣れつつ、徐々にお守りの力を弱めていくのが望ましい。それまでの間で闇に捕らわれ、どうにもならないときはお守りを引きちぎる。腕が使えない場合は壊れるように念じろと。 「もっと、多く……」  今ですら多いと感じている闇の数も、母にしてみればまだまだ少ないらしい。隠れているモノ、空気のように透明なモノ、風のように揺蕩うモノ、存在が消えかけているモノ、何かしらに取り憑いているモノなど。それらは闇だけでなく神という存在も含めて、そこかしこに溢れているという。母の言う通り、慣れるか絶体絶命の窮地に陥るかでなければ、壊す気になれないというのが本音だった。  私に流れる血については母の帰りの時間が迫っていたため、あまり詳しくは教えてもらえなかった。要約すると、力を持つ人間には闇を払う、討つことが可能である払血(ふっけつ)と、闇の力を抑え、弱めることが可能である封血(ふうけつ)と呼ばれるふたつの血派がある。私や母の血派はどちらも封血。母の力も相当強いが、特に私の力が血筋が故に輪をかけて強いのだそうだ。今の私ではその力のわずかな片鱗ですら、到底制御できないほどに。  強さとは。  それが何なのか、今の私には理解できない。力が強ければ私が望むように事態を動かせるのか。しかし、今日の女の子と闇の一件で考えてみれば、力が強いからといって簡単に解決できたとは思えない。例えば、力が強いが故に有無を言わさずに闇を喰らっていたとしたら。触れることでたちまち壊してしまったりしたら。そう考えればむしろ、制御ができない強い力とはつまり、単なる凶器でしかないのではないか。強すぎることで、簡単に間違えてしまうのではないか。そんな言い知れぬ恐怖が心の隅から顔を覗かせていた。
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