第弐夜 往けば怪路の日和あり

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 十五時を過ぎた辺りにもなれば、子どもたちも殆どが家に帰ってしまって食堂は静かになる。次に忙しくなり始めるのはいつも大体十七時頃から。奈々子ちゃんの家の場所は知らないが、子どもの足で辿り着けるのであればそう遠くはないだろう。遅くとも一時間あれば家まで送って帰ってこれるはず。  エプロンを外しながら厨房へ顔を出す。夕方のお弁当配り用に仕込みやパックの準備を行っている大将とコズエさん。大将の困ったような八の字眉毛は相変わらずだが、代わりにいつも微笑みを絶やさない。ここでバイトを始めて一度も怒ったところを見たことがないほど穏やかで、それでも言動に芯がしっかり通っている頼りになる人。そのため近所からは大将の愛称で親しまれている。コズエさんの言うべきときはしっかり言うが、普段は三歩下がって大将を立てる奥ゆかしさとの相性は抜群で、ふたりはいつも仲睦まじい。こんな夫婦になりたいと憧れさえするほどに。 「大将、コズエさん。奈々子ちゃんを家に送ってくるので少し外してもいいですか?」 「ああ、もちろんだとも。気をつけていっておいで」  二人の快諾に深く頭を下げる。本当は私も仕込みを手伝うことができればいいのだが、悲しいことに料理の腕はからっきし。皿洗いや厨房の掃除、配膳が精一杯だ。コズエさんから教えてあげようかと言われているため手ほどきを受けようかと思うものの、普段から食堂は大忙しのためわざわざ私のためだけに時間を割いてもらうのも気が引ける。もちろん私も女だし、料理のひとつくらい覚えたいという気持ちもあるのだけど。でもコズエさんたちは子どもたちのために腕を振るって欲しいし、初歩的なことから始めなければならない私は、まずはクルミに頭を下げるところからだろう。  エプロンをロッカーに仕舞い、取り出した上着を羽織る。食堂に戻り、隅で待ってくれている奈々子ちゃんに声をかけた。私の顔を見て微笑むと、椅子から飛び降りて手を差し出してくる。それが手を繋ぎたいのだと理解すると、すぐにその小さな手を握った。 「ねえ奈々子ちゃん。迷子になるときに呼ばれるって言ってたでしょ?」 「うん。なーなーこーちゃん、って呼ばれるの」 「どんな声? 男の人? それとも女の人?」 「んー……分かんない」  奈々子ちゃんに自宅へ案内してもらいつつ、不可思議な現象の原因についてを色々と探ってみる。しかし、奈々子ちゃんは質問に対して困ったような表情を浮かべた。声色は中性的なのか、それとも思い出せないだけなのか。名前を呼ばれて迷子になった場所は二回とも同じ場所だったそうだ。名前を呼ばれて振り返ると迷子になり、声に追われて逃げるうちに学校に辿り着く。今日は家から食堂にくるまでの間では迷子にはなっていないらしい。それを考えれば奈々子ちゃんに対してどうこうしようというより、場所に問題があるように思える。もし、他にも経験している人がいるならその線が濃厚だとは思うけど、それを探すのはさすがに難しいだろう。 「どこで名前を呼ばれたか覚えてる?」 「うん。いつもは学校に行くときは皆で集まって登校するの。それで近くに待ち合わせ場所があるんだけど、そこの少し前で呼ばれるの。橋の下のところ」  赤信号になり、横断歩道前で立ち止まる。奈々子ちゃんが言う橋の下に原因があるとするならば、通学路を少し変えれば遭わなかったりするのだろうか。もしそれだけで回避できるなら大した問題ではなさそうに思えるが、さすがに油断はしない方がいいだろう。たまたま二回とも被害に遭わなかっただけで次もそうだとは限らない、そもそも闇であったとしてもその目的が分からない。奈々子ちゃんを家に送り届けたあと、その場所に赴く前に母かクルミに電話して聞いてみるのがよさそうだ。 「ナナの家はここだよ!」  奈々子ちゃんが指し示したのは住宅街の中の一軒。赤い屋根が特徴的な二階建ての家だった。表札には「須藤(すとう)」の文字。奈々子ちゃんは門扉を勢いよく開けて玄関まで走った。玄関扉の前で立ち止まると、私に向かっておいでおいでと手招きする。遠慮がちに石畳の上を歩き、奈々子ちゃんの隣に立つ。背負っていたリュックから鍵を取り出して挿し込み、扉を開けると同時に大声で叫ぶ。 「おかーさーん! ただいまー!」  叫んで数秒、奥からバタバタと音がしてリビングの扉が開いた。 「よかった。遅かったからしんぱ……あら、阿志賀さん?」  須藤さんは私の顔を見るなりはたと足を止め、ぺこりと小さく頭を下げた。その顔には戸惑いや心配が窺える。きっと、帰りの遅い娘が近所の食堂店員に連れられてきたため、娘が何か迷惑をかけたのではないかと考えているのだろう。同じ立場なら私だって同じことを考えるだろうため、誤解を解くために理由を説明する。 「奈々子ちゃんが元気なかったので、心配になって家まで送りにきました」 「ああ、そうだったんですね。わざわざありがとうございます」 「せっかくの皆勤賞がなくなってしまって残念でしたね……」 「ほんとにもう……寄り道なんかするから」 「ナナ寄り道してないよ。ちゃんと学校に行こうとしたのに迷子になっちゃったんだもん」 「またそんな言い訳して……」  須藤さんは頬に手を当てて呆れた表情を浮かべ、奈々子ちゃんは不服そうに頬を膨らませる。闇という存在を知らなければ、私も須藤さんと同じことを考えていただろう。しかし、今は奈々子ちゃんの体験が言い訳ではない可能性が高いということを知っている。とはいえ、それを須藤さんに伝えても意味はないどころか話がややこしくなるだけのため、奈々子ちゃんの頭を撫でながら苦笑いを浮かべることしかできなかった。
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