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 マンションのエントランスから道路に出る。平日の夜ということもあって、人通りは少ない。こんなひと気のないなかであんな得体の知れないモノに近づくことを考えると、やはり恐怖心が顔を覗かせる。もっと明るいうちにすればよかったと後悔しながら、それでも外に出てしまったのだからと黒い靄がいた電信柱へ向かう。  夜道を歩いていると、ときおり誰かの視線を感じる。振り返っても誰の姿もない。辺りを見渡しても誰かがいる様子もなかった。ただの気のせい。そう自分に言い聞かせながら足を早める。黒い靄がいた電信柱はエントランスの反対側。三度目の左折を経て、電信柱が見えてきた。 「やっぱりいる……」  どこかへ消えていてくれたら。なんて淡い期待を抱いていたけど、まるで私を待ちわびているかのように大きく揺らめている。勇み足でここまで来たはいいものの、間近で見るとやはり不気味だ。気が大きくなっていたのは一瞬で、今はもう足が震えている。それでも、進まなければ何も始まらない。ただの幻覚であることを証明して、私が正常であることを証明しなければ。  黒い靄に近づくほど、肌にひりひりとした痛みを感じる。あれは本当に幻覚なのだろうか。そんな疑問が浮かんでくるほどに圧倒的な存在感を醸している。赤と紫と黒が入り混じるような、とてもいびつな空気が辺りを漂う。手を伸ばせば届く距離まで近づいても、黒い靄の正体は分からない。ただ揺らめいているだけの影にしか見えない。でも、それがただの影ではないことも十分に分かる。 「――え?」  恐怖心でこれ以上近づくことを躊躇っていると、不意に黒い靄が大きく揺れた。瞬間、それが私に覆いかぶさるように飛びかかってきた。咄嗟に目を閉じて、一歩後退り身構える。しかし、想像していたような衝撃はない。恐る恐る目を開くと、さっきまでいたはずの黒い靄が消えていた。周囲を見回してみても黒い靄はいない。やはりただの幻覚だったのだろうか。よかった。安堵の気持ちでいっぱいになった瞬間、身体に違和感を覚えた。 「あ、ああ……」  一体どうしたのだろうか。じわりじわりと身体が熱くなってくる。心臓が荒々しく脈を打ち、とても息苦しい。でも何故か命の危険は感じない。どこか恍惚として、とろけるように甘美な高揚感に包まれている。  ふと、前方に女子高生の後ろ姿を捉えた。こんな時間に女の子がひとりで歩いているなんて。私も似たような立場なので人のことは言えないけど。そんなことを考えながら、私の足は自然と彼女の後ろ姿を追っていた。黒い靄はいなくなったのだし、こんなことをしている場合じゃない。それを頭では理解しながらも、私は彼女から目が離せなかった。  彼女を見ていると、覚えのない卑しい感情が膨れ上がっていく。名前も知らない彼女があられもない姿で泣き叫ぶ様がどうしても見たくなる。私にそんな趣味はないはずなのに、想像するだけで抑えがきかないくらいに興奮してしまう。駄目だ。そう自分に言い聞かせて自制を試みるが、身体が帯びる熱がまともな思考を奪っていく。  彼女が角を曲がる。その後を追い、私も角を曲がる。公園を突っ切って近道をするのだろうか。弱々しく明滅を繰り返す点検もされていない街灯ひとつあるだけの、ひと気のない酷く静かな夜の公園。ここなら少し叫ばれたくらいでは誰にも聞こえはしない。まるで獲物を狙う蛇のように舌なめずりをして、彼女の背中に近づいていく。もう抑えきれない。もう我慢できない。早く彼女の泣き顔が見たい。隅々まで全部愛してあげたい。そう思いながら手を伸ばした瞬間――。  ドスンと身体に大きな衝撃が走った。  一瞬、何が起きたのか分からなかった。しかし、すぐに自分が地面に組み伏せられていることを理解した。誰かが私を抑え込んでいる。それに気がついていないのか、女子高生の背中がどんどん遠くなっていく。なんで。どうして私の邪魔をするの。縋るように彼女の背中に手を伸ばした。 「気を強く持ちなさい」  背後から、懐かしい声が聞こえた。
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